リモネン
霜月ミツカ
1
真っ暗な夜の中心にわたしがいる。こんなことを思うのは、きっと世界中でわたしだけではなく、この錯覚は、ある意味、マジョリティの孤独の幻影だろう。使い古された感性に身を委ねながら、睡魔が誘いに来るのを待っていた。玄関の扉が開く音を聞いて安心したかったし、聞く前に眠りたかった。こういうどうしようもない感情に悩まされることは、朝陽との関係が深まっていくにつれて大きくなることに気づいていたはずだ。
最初は、恋愛感情の「好き」が無ければ気持ちがすり減ることなんてないと思っていた。最近、肌に小じわができるように、どうしようもない気持ちが体に刻まれている。朝陽と結婚なんてしてしまったからだろうか。毎日飽きずにルーティンワークのように同じことばかり考えていると知らぬ間に眠ってしまう。きょうも玄関の扉の音を聞く前だった。
iPhoneが脳をレーザー光線で焼くような音を発している。危機感に揺さぶられるからこれがいちばんいい。そう思いながら叩き壊したくなるくらい怒りが一瞬爆発する。そして、ここはどこだとわからなくなるが、意識がはっきりするにつれて、ここは朝陽に与えられた五畳の部屋なのだと思い出す。
ベッドから降りて、隣の部屋に行き、ノックもせずに扉を開けるとスーツのまま、うつぶせで朝陽が眠っている。
「おい」
体を揺さぶると蝿でも払うような動作をする。知らないシャンプーの匂いがした。
「遅刻するよ」
「うん」
朝陽は精悍な顔つきをしていて、たくましい体をしている。客観的に見てかっこいい外見をしているのに、惚れ惚れはしない。みっともない姿ばかり見せてくる。でも、それでよかった。
朝陽をそのままにして洗面所に向かった。
顔を洗って保湿をする。すぐにメイクをせず、キッチンに戻り、朝食を食べる。
自室で化粧をしながらきょうもちゃんと女になれているか念入りに確認する。わたしは雑誌に載っている誰かの劣化コピーでしかない。
玄関に向かうと、浴室から音がする。朝陽は仕事に行く準備をはじめたようで安心した。
家の外を出ると、埃に紛れて青々しい葉の匂いがした。マンションから駅までの道は気持ち悪いくらいに舗装されていて、店はひとつもないけれど、代わりにいろんな種類の樹が植えてある。
電車に乗り、満員電車を堪えて、会社の最寄駅で降りる。有難いことに駅から直結のビルなので、雨の日も濡れずに出社できる。
エレベーターに乗り、七階で降りる。扉が開くたび、いつも少しだけ息を吸って止める。事前に精神に軽いストレスを与えておかないと社会人として働けない。
わたしは食品会社の営業事務として働いている。派遣社員だ。前の会社が倒産して、朝陽と一緒に住み始めてからここで働いている。まもなく三年なのでもうすぐ次の職場を派遣会社のひとに探してもらわないといけない。職場は嫌いではないが、別の会社に行ける喜びと、苦しさに首を絞められたり緩められたりしていた。
「おはようございます」
デスクにつくと「おはようございます」と返してくれる。事務はわたしを含め四人いて、みんな派遣社員だ。杉田さんは同じ派遣会社で、宮原さん、前田さんはそれぞれ違う派遣会社からきている。皆年は三十前後だ。
いつもわたしと彼女らはまったく違う世界の人間に感じる。彼女らを形容するとすれば「キラキラ系」だ。
昼休みは十階にある社食で時間を決めて交代で食べるが、いまはあまり忙しい時期ではないから、四人で食べることが多い。
「春ドラマの舞台になってたレストランにね、彼と行ったんだけど」
宮原さんは近所のスーパーの野菜の値段を言うような感覚で話し始めた。
「すごいー。よく予約取れたね」
「ドラマが始まる前にたまたま取っててくれたみたい」
わたしはいつも、自分から話題を提供せず彼女らが言うことを聞き、間違えないように相槌を打つ。
しばらくは新作のコスメの話や、話題のデパ地下のスウィーツについて話していたのに、なぜか急に前田さんに話を振られた。
「蒲谷さんは新婚旅行行かないの?」
わたしを見る三人の目つきに少しだけ嫌なものを感じた。
「あー、そうですね。彼の仕事が結構忙しくて。今年はゴールデンウィークも何かと忙しくて。あとは、お盆とか年末年始くらいしかまとまった休みが取れないんですよね」
「超オンシーズンじゃん」
三人に合わせて笑う。彼女たちはおもしろくて笑っているわけではない。彼女たちからすればわたしは、高給取りのイケメンと結婚した何のとりえもない地味な女。そういう風に思われることには慣れていたけれど、彼女たちは、わたしがこういうことに慣れていることになんて知らないから、悪意が上ずっている。しかし、相手が居るというのは、現在の日本を生きるのに圧倒的有利だと、朝陽と過ごすようになってから痛感してきた。
淡々と仕事をこなせば苦痛なのは昼休みと、少しの雑談くらいで、怒鳴る上司も、理不尽なことを言ってくる顧客も居ないのでやりやすい仕事ではあった。
予定がない日は付き合いで残業をしてしまうこともあるが、きょうは定時ぴったりに会社を出た。
どちらかと言えば仕事よりも友人に会うほうが気が休まらない。やりすごすことができないから。電車に乗った後、iPhoneで藍美から送られてきた店の情報を何度もチェックする。高校時代の藍美は、外見は地味だが、恋愛と流行りものが大好きな子だった。強引で、自分の意見が絶対だと思っている。なぜそんな子と仲良くなってしまったのだろうとずっと頭を悩ませていたが、腐れ縁でいままで続いてしまっている。
きょうは外国人の彼氏と別れたから話をきいてほしいとのことだった。
指定された店は渋谷駅の宮益坂口から出て、青山に向かって歩いた途中にあるビルの地下の店だ。
壁はウッド調で、いろとりどりの間接照明がテーブルを照らす。チーズの匂いがほのかに薫る。藍美はこういう店が好きだ。
席に着くと、奥の四人掛けの席に藍美が座っていた。あまり混雑していないのでわたしたちふたりに四人掛けをあてがってくれたのは店側の配慮だろう。
「ひさしぶりー」
「ひさしぶり」
前に会ったのは一ヶ月前だった。そのときの藍美は彼氏と結婚するかもしれないと言っていた。
わたしはアセロラジュース、藍美はカシスオレンジを頼んだ。料理は藍美が適当に選んでくれた。
「最近どうなの? 朝陽くんとは」
「ああ、まぁまぁかな」
「なによ、まぁまぁって」
藍美は思い出したように「でもよかった」と言った。
「ひとを好きになれないなんて言ってたいとが、あんな素敵なひとと結婚するなんて」
会うたび毎回これを言われる。朝陽と結婚すると言ったとき、藍美は驚いた後、職場のひとたちのような笑顔をした。
高校のとき地味でも、いまの藍美はキラキラ系だ。マスカラで大きい瞳を際立たせて、肌は艶やかに仕上げ、オレンジ色のリップを塗っている。相手を選ばなければすぐに結婚ができそうな気はする。
わたしの話題はこれだけで、あとは藍美の話をきいた。夜の営みの話を聞かされるといつも吐きそうになる。
その店に二時間滞在し、あしたもお互い仕事だから二軒目に行かずに別れた。
「藍美、幸せになってね」
そう言うと藍美は頬を光らせて笑った。藍美に幸せになってほしいのは、これ以上嫌な感情でわたしを見ないでほしいから。それだけの理由だ。
電車に乗ると疲れがどっと押し寄せてきた。向かいの扉の前で愛し合う姿を見せつけるカップルに向かって怒鳴りたい気持ちを抑えた。思うだけで決してそんなことはしない。
誰に対しても「恋愛感情がない」ということは人間としての大きな欠落なのかもしれない。高校時代に、藍美に相談したとき「ほんとうに好きなひとに出会ったことがないだけ」と言われてしまった。大学の友人にも、職場のひとにも異口同音で同じ答えが返ってきた。朝陽だけは「そういうひとがいてもおかしくないよ」と言ってくれた。だけど、「ほんとうに好きなひと」とは一体何だろうとずっと考えている。
自分が他人を愛せない、他人から愛されることを望まない人間だと知ったのはいつからか、覚えていない。自分は女という性自認はある。だけど、自分にとって男も女も、どちらでもないひともすべて「恋愛対象」にはならなかった。かといって自己愛がめちゃくちゃ強いわけではない。恋愛をしないのであれば性別なんて別に要らないんじゃないかと思う時期もあったが、いまは、周りの女性を倣って、女側に寄ることにした。朝陽と出会わなければ女側にも寄らなかったかもしれない。
家に帰ると朝陽がソファに寝ころんでテレビを観ていた。朝陽は元気だ。よかったと心底安心した。
「おお、おかえり。きょうはどこ行ってたの?」
「藍美に会ってた」
「ああ、重森かー。ごくろうごくろう。疲れただろ」
「まぁね」
朝陽は藍美がどういうひとで、会うとわたしがどういう気持ちになるかをよく知っている。きのう、朝陽がどうしていたのか訊くかどうか迷った。朝陽を干渉するつもりはないし、いろいろ言う権利はわたしにはない。
藍美とその外国人の彼氏の悪口を朝陽と一緒に一通り言った後、部屋の雰囲気が柔らかくなったと察した瞬間に「そういえば、きのう、ってかきょう何時に帰ってきたの」と訊くと「ああ」と急につまらなそうな顔になった。
「ちょっと、バーで知り合った子といい感じになったから、始発まで一緒に居た」
そういうことをきいてもこころの中はまったく荒立たない。
「ミシマじゃないんだ?」
わたしがそう言うと、人間に発見された害虫みたいに一瞬動きが止まった。
「ミシマじゃないよ。はじめて会った、もっと若い子」
一途になれと言うつもりは毛頭なかった。朝陽が荒れ始めたのはここ一ヶ月くらいだから、彼らの間に何かがあったことは想像に容易だ。ただただわたしは友人として朝陽が心配だ。
「てか、まだ始発まで遊んで帰ってきてちょっと寝て仕事行くなんて、よくそんな体力あるよね」
「自分でも驚いてる」
朝陽は健康的な顔をして笑った。
「無理すんなよ」
「わかってるって」
単純に朝陽に傷つかないでいてほしいだけだ。
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