いとし君に永遠を捧ぐ

さかな

本文

 ──夜に美しい女と出会ったら気をつけろ。目を合わせると血を抜かれるぞ。


 それは、黒い森フォレノワールの周辺に住まう者たちの合言葉だった。森の奥深くに住まう女怪は美しい女に化ける悪魔で、特に無垢な乙女を好んで喰らうという。夜な夜な森から出てはさまよい歩き、乙女の血をすする悪魔。人々は彼女を恐れて夜は扉や窓に何重にも鍵をかけ、息をひそめて眠るのが習慣だった。

 だがそれでも被害が無くなることはなかった。定期的に森の周辺の村で襲われる娘が出ては、次の村へ移動していく。奇跡的に命が助かった者は皆、口をそろえて「黒髪の美しい女に襲われた」と話した。

 それゆえ人々は畏怖を込めて、彼女をこう呼ぶ。

 ──黒の死神La Mort Noirと。




 フォレノワールの東の小さな村。親と祖父母を流行病で亡くし、食べるものもろくに見つけられずに、一人の少女が小さな小屋で死にかけていた。ベッドには腐り落ちた両親の遺体が、床には祖父母の遺体が転がっている中で、ネージュ・フルールはただ死を待つしかなかった。

 バケツに溜まった雨水で何とか空腹を凌ぐのも厳しくなってきたある夜。ネージュは不意に目を覚まして窓の外を見た。

 窓の外に何かいる気がしたのだ。窓の外をそうっとのぞいてみれば、それはひとりの美しい女の影だった。


「お嬢さん、こちらへいらっしゃい。私とお話ししましょう?」


 鈴を転がすような声は大変耳障りが良く、またその声は少しだけ母親のものに似ていた。促されるがままに窓の鍵を外したネージュは、うふふ、と笑って手を伸ばす女に抱きかかえられ、そっと外へ連れ出される。ふわり、と甘いにおいがした。


「あなたはだぁれ?」

「わたしは……そうね。ノワール、とでも呼んでちょうだい」


 いとけない幼子に優しく笑いかけながら、女はお願いがあるの、とささやいた。ネージュはその言葉に頷いて、代わりにご飯をちょうだい、とねだった。もう三日も食べていない。ご飯が欲しいの、とむずがる幼子をあやしながら、ノワールは良いわよ、と返事した。


「お腹いっぱいのご飯をあげる。その代わりに、あなたの血をちょうだいな」

「血?」

「あなたのご飯がパンやスープであるように、私のご飯は人間の血なのよ」

「ふうん。痛くしないなら、良いよ」


 ネージュはあっさり頷いた。怖くないの、と聞かれて、ご飯が食べられるならそれでいいと答える。

 人を食べるお化けの話をネージュは聞いたことがあったが、その化け物とは違いとって食われるわけでもない。血をあげるくらいならいいだろう、と思ったのだ。

 ふう、と女の吐息がネージュの首にかかる。ちくりと虫に刺されたようなかすかな痛みのあと、ノワールは優しく首に唇を寄せて血を飲んだ。彼女の言ったとおり、それはちっとも痛くなかった。


「この血……ああ……ようやくみつけたわ」


 ごくりと喉を鳴らして、ノワールがうっとりと呟いた。彼女が血を飲むたび、ネージュの頭はぼうっと痺れたようになっていく。もう夏にさしかかる頃なのに、なんだか酷く寒かった。


(あれ、あたし死ぬのかな……)


 頭の隅で、そんなことを思う。生に執着しているわけではなかったけれど「死」はほんのちょっぴり怖かった。


「私を、この呪縛から解き放ってくれる子……」


 ノワールが呟いた言葉の意味を聞き返すことも出来ぬまま。ネージュの意識はそこでふつりと途切れたのだった。





「ネージュ、おねがい! 指一本で良いからちょっとだけぇ……」

「だめですっ!! あげたら無くなっちゃうじゃないですかー!! 食べ出したら指一本で終わらないから絶対あげませんっ」


 悪魔の住まう森、フォレノワール。その森の名を冠する悪魔にネージュが連れ去られたのは、五歳の時だった。餓死しかけの子どもを見つけたノワールがその血を味見して、あまりに自分好みの味をしていたので殺さず連れ帰ったのである。

 それから十年間、ネージュは卵を産む雌鶏よろしく、ご飯をお腹いっぱい食べさせて貰う代わりに血を提供していた。たまにとっておきのご飯をあげるから指一本ちょうだいとか、痛くしないから腕ちょうだいとか言われるが、丁重にお断りしている。

 すげなく断られても諦め悪く甘えるように伸びてきた四本の腕をべしべしっと払いのけつつ、ネージュは部屋に点々と落ちている衣服を拾い上げ、籠に放り込んでゆく。人間になったときに着た服は脱ぎ散らかさないでって言ったじゃないですか。そう小言をいう少女に、だって窮屈なんだもん、と女怪は床に寝そべりながらそっぽを向いた。これでも最近は脱ぐときに破れる服が半分くらいになっただけ、だいぶと進歩である。

 伸びた黒髪の間からぎょろりとのぞく五つの目に見つめられながら、ネージュは手際よく洗濯と部屋の掃除をこなした。ノワールが時たま蛇のような舌をちろちろ動かしながらしゅうぅと息を吐くのは彼女の機嫌が良いとき、と知ったのは十歳の時である。それまではその音が酷く怖かった。

 軽快な足音を響かせて、ネージュはてきぱきと家事を終わらせていく。時々その音が乱れるのは、部屋を横切るネージュの行く手をノワールが足や太い尻尾を使って邪魔をするからだ。


「ちょっとノワール様、私が通るたびに足引っかけようとしないで下さいよう」

「だってネージュが全然相手をしてくれないんだもん……」

「それはノワール様が毎日部屋を散らかすからでしょう? もうちょっと綺麗にしてくれれば、手間も少なくなるのに……」


 はあ、と何度か目のため息をついて、少女は女怪へ向き直る。蛇のような赤い五つの目に四つの腕、鱗に覆われた体からはえるトカゲのような両足と尻尾、耳元まで裂けた口からのぞく太い牙。人間になったときに残っているのは、床にたれるほど長い黒髪ぐらいだ。これが化けたら絶世の美女になるんだもんなあ。もうちょっとその要素私にも分けてくれないかなあ。そんなことを考えながら、ネージュはちっとも肉付きの良くならない腕をノワールへとのばす。


「なあに、ネージュ。その腕くれるの?」

「あげません。やることが終わったから、食事にしても良いですよ」


 さあはやく、とほっそりした喉元をさらすネージュに、ノワールは嬉しそうに笑って近づいた。毒蛇のような牙が柔らかな皮膚にぷすりと刺さる。とろりとあふれ出した赤い血潮を少しざらついた舌で舐めとられ、ネージュはたまらず熱を帯びた息を吐いた。彼女の唾液には、痛みを麻痺させる成分があるらしく、痛いのは牙が刺さるほんの一瞬だけだ。もっとも、無くなるのは痛覚だけで喉にかかる吐息や舌の感触はそのまま感じられる。そのため「食事」のたびにネージュは零れる声を抑えなければならなかった。


「ネージュ、キスしたい」

「やですよ……自分の血の味のキスなんて」

「ええぇ……こんなに甘くて美味しいのに……ネージュも、人間の血がご飯になれば良いのにね」


 形の良い唇を赤く染め、ネージュの喉元から顔を上げたノワールはとても残念そうな顔をしていた。ああ、また人間の姿になっている。彼女がキスをねだるときは、いつもそうだっだ。そんなかりそめの姿じゃなくて、本当の姿の時だったら断らないのにな、とは未だ彼女に告げられていない。


「……私は、人間のままが良いですよ」


 そうじゃないとノワール様に「食事」をしてもらえなくなるもん、という言葉は胸の内に秘めたまま。ネージュは少し悲しそうに笑ったのだった。





「ノワール様、それでは出かけてきますね」

「はぁい……あんまり寄り道しちゃだめよ。すぐ帰ってきてね」

「供物を回収してくるだけですから、夜までには戻りますよ」


 ノワール様こそ良い子にしてて下さいね、と伸ばされた手にそっと口づけ、ネージュは微笑んだ。ノワールと森で暮らし初めて、早二十年がたとうとしている。

 やっぱり一緒に行こうか、と言い始めたノワールをベッドに押し込めたあと、分厚いローブをすっぽりと被って、ネージュは森の中を歩き始めた。ノワールを畏怖する村人たちは自分たちの村が襲われないよう、定期的に森の入り口に設けられた祭壇へ供物を捧げる。それは食料の時もあれば、衣服や宝飾品の時もある。ネージュの腹を満たすご飯は全て、供物として捧げられた食料だ。

 今までは夜な夜なノワールが近くの村へ血を飲みに行くついでに回収することが多かったが、今ではすっかりネージュが回収役になっている。

 ノワールは最近あまり夜に外出しない。体調が悪いとは言いたがらないものの、以前より眠っている時間が増えた。血が足りないのかと聞いても、私はネージュの血があれば十分よ、と微笑むばかりだ。体のつくりが弱い人間と違い、悪魔は多少の飢餓では死なないだろうが、少しばかり心配だった。


「よし……誰もいない。今日の供物は……っと。おお、果物がいっぱい。パンもある。ラミーヌ村の供物のパン、美味しくて好きなんだよなあ……」


 周囲を見回し、人影がないことを確認してから供物を籠へとすばやく移す。祭壇の周りはあまり人間が近づきたがらないとはいえ、見つかれば何かと都合が良くない。今日もありがとうございます、と感謝の言葉を短く告げて、ネージュは森の中へ戻っていく。


 ──その後ろ姿を、木の陰からそっと見つめるものたちがいた。息をひそめてネージュの去った方向を見つめる影は四つ。いずれもフォレノワール周辺の村に住まう男たちである。


「見つけたぞ、血肉をすする死神……絶対に娘の復讐を果たしてやるからな…!!」


 目配せをしあった男たちはそうかたく誓い合い、ネージュの後ろをそっとつけていったのだった。





 ネージュの足では一日一つの祭壇を回るのが精一杯である。途中休憩がてら果物をかじりつつ、何とか日が暮れる前に帰れそうだと赤く染まる空を見上げて、ネージュは家までの道を歩いていた。

 異変はほんのかすかな物音だった。ざり、と自分以外の靴が地面を踏む音を耳ざとく聞きつけて、ネージュは後ろを振り返る。同時にどすっと腹に衝撃が走った。


「え……なにこれ……」


 痛い。そう思うまもなく、今度は右肩へ何かが刺さった。激痛と衝撃で立っていられず、ネージュはその場に崩れ落ちる。腹に手をやると、何か細くて固いものが腹に突き刺さっている。どろり、と熱いものが手を濡らした。


「はは……やった、やったぞ!! 死神を倒した!!!」


 薄れゆく意識の中で男が上げた雄叫びに、ああ自分はノワールと間違われて襲われたのだとネージュは理解した。ノワールに危害が及ばなくて良かった。でもノワール様にあげる血がいっぱい無くなっちゃうのは嫌だなあ。そう、少女は微笑んで。


「ノワール……さま……」


 もう届かないと知っていても、その名を呼びたかった。

 ネージュの、ネージュだけの「愛しいひとMon cher amant」。

 彼女はあんなに愛していると言ってくれたのに、自分はほんの少しもその言葉を返せていない。

 最後にもう一度だけ、会いたかったなあ。こんなことなら、意地なんて張らずにキスしてもらえばよかった。その願いはもう彼女に届くことはなく。


(ノワール様、あの約束覚えてくれてるかな……)


 ことり。伸ばされた手は誰にも握られることはなく、地に落ちた。






「ネージュ……?」


 まどろみの淵から、意識が覚醒した。今、不意にネージュに呼ばれた気がしたのだ。ノワールは重たい体をのそりと動かし、神経を研ぎ澄ませる。どこからか、ネージュの甘い血の臭いがした。


「なんで……!!」


 愛し子ネージュに何かあったのだ、と頭で理解する前に、扉を蹴り倒して森の中へ飛び出した。早く、早く行かなくちゃ。そう焦る気持ちを抑え、血の臭いを辿って疾走する。だんだんと頭がクラクラするほどに濃くなる血の芳香に、ノワールの思考が焼き切れた。


「私のネージュに手を出したのは誰……?!」


 おおぉん、と咆哮が森中に響き渡る。ほどなくして、ノワールの目に映ったのは四人の男たちだ。彼らが取り囲んでいるのは、血だまりに沈む変わり果てたネージュである。地を滑るようにすばやく近づいたノワールは、鋭い爪のはえた手を鞭のようにしならせ彼らをなぎ倒す。二人は頭を西瓜のように砕かれ、一人はノワールの爪に貫かれ、最後の一人は体をズタズタに引き裂かれて事切れた。


「ネージュ、ネージュしっかりして……!!」


 不届き者を一瞬で始末し終え、ノワールは少女の元へと駆け寄る。そっと抱き上げて何度呼びかけても、血の気を失った唇は動かなかった。


「お願い、起きてえぇ……っ」


 温もりを失った体をかき抱き、慟哭する。信じられない。信じたくない。

 ネージュが死んでしまった、なんて。

 最初はほんの出来心だったのだ。甘いにおいに惹かれてのぞいてみた小屋の中にいたのは、腐肉の中で餓死しかけていた小さな子どもだった。試しにちょっと血を飲んでみたら、ノワールが長年探し求めていた「血」の持ち主で驚いた。悪魔を成敗できる聖女の血。それがネージュの血であった。

 ノワールは、生粋の悪魔ではない。人肉を食べ、血をすする呪いをかけられた「元人間」だ。呪いのきっかけは、もう覚えていない。誰かに復讐をするため悪魔に魂を売り渡した代償だった気もするが、昔のことすぎて忘れてしまった。ノワールが今でも一時的に人間の姿をとることが出来るのは、元が人間だったときのなごりである。

 もう何百年もの間、己の中に巣くう欲望に耐えられずに人肉と血をすすって生きてきた。その生活にほとほと疲れ果て、自分を殺してくれる人間を探すようになった。飲むと悪魔にとって毒になる血がある、と言うのは知っていた。一度はそれと知らずに大変甘美な味の血を飲み、死の淵を彷徨った後に生還した経験があるからだ。その血のことをノワールは「聖女の血」と呼んでいた。

 もっと長期的にその血を摂取すれば、死ねるのではないか。そう考えて、ノワールは次の「聖女の血」を探した。そうして出会ったのがネージュだった。

 ようやく死ねる、と思った。適当に連れ去って育てて、しばらく血を飲み続ければきっとこの呪いから解き放たれる。そう思って、供物として捧げられた食べ物を適当に与えて育てた。

 計算外だったのは、その生活が存外楽しかったことである。人と一緒に生活するのも、人の温もりを感じて眠るのも、人と言葉を交わすのも久しぶりだった。それは決して煩わしいものではなく、むしろ死を望むノワールのボロボロになった心に、安らぎを与えてくれるものだった。このまま血を飲み続けて衰弱し、ネージュに看取って貰うのも良いな。そんなことを考えていた矢先の悲劇だった。

 ネージュの腹と肩に突き刺さった矢を丁寧に抜いてやりながら、そっと目と閉じた少女の髪を撫でる。痛いのは嫌いだと言っていたのに、ネージュの顔はほんの少しだけ、微笑んでいるように見えた。


『──たら……良いですよ』


 不意に、ネージュの言葉が頭に甦る。あれはいつのことだっただろうか。覚えてはいないけれど、いつものように戯れで腕をちょうだい、と言っていたときだったような気がする。ネージュはダメですと断りながら、ふと少しだけ考えるようなそぶりを見せて、ためらいがちに言葉を零した。


『もし……私がノワール様より先に死んじゃったら、私の体を食べても良いですよ』


 あの時は、ネージュの血を飲んで先に逝くのはノワールの方だと思っていたから、あまり真剣に取り合わなかったけれど。


「ネージュ……私が、あなたの体を食べてあげる。そうしたら、これからもずっと一緒にいられるよね?」


 きっと、長年毒に蝕まれたノワールの体は聖女の血肉を摂取するのに耐えきれないだろう。ネージュの体を食べて死ぬ。ノワールにとって、それ以上の幸せはどこにもなかった。

 ──私の愛しい子Mon cher amant

ノワールはそっとネージュに顔を寄せて、その柔らかな唇をついばんだ。せめて、最後は人間の姿で終わりたい。ネージュと同じ、人間の姿で。


「全部残さず、綺麗に食べてあげるね」


 まずはその血を全部余さず飲み干して。つぎに、ご飯をいっぱい食べてるのに全然肉付きが良くならない、と嘆いていた腕と足を。そして柔らかな臓腑を。ぱきり、ぐしゃり、骨もかみ砕いて、全部全部食べてゆく。

 ああ、なんて美味しい。血と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ノワールはただ食べ続けた。

 甘い甘い、聖女の血肉。その麻薬のような甘美な毒が体中を侵す。息が苦しい。手足がどんどん動かなくなってゆき、みしみしと痛みが全身を襲う。

 それでも、ノワールは食べるのを止めなかった。きっと、ネージュはこの何倍も痛かったはずだ。ごめんね、痛かったよね。そう贖罪しょくざいの言葉を告げて、ノワールはネージュの血肉を喰らう。

 ──もはやその痛みさえも喜びだった。毒が体の中に溶けていく。どんどんネージュの血肉がノワールの体と一緒になっていく。そう実感できたから。


 長い時間をかけ、髪の毛一本すら残さず全てを喰らいつくしたあと。ノワールは幸せそうに微笑んで地面に体を横たえた。

 最後にもう一度、愛し子の名を呟いて。この上なく満ち足りた息を一つ吐き、死神はそっと目を閉じたのだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いとし君に永遠を捧ぐ さかな @sakana1127

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説