第16話 寿司三昧の16皿目

「部屋へ帰る」


 泣き出してから数分後、頭に載った兄の手を押しのけ、巳茅が立ち上がる。

 そして目を腫らした顔で星乃に向くと頭を下げてこういった。


「ご馳走様でした。ありがとうございます」

「いいのよ、みっちゃん」


 心配そうな表情の文乃に背を向け、扉へ歩き出す巳茅。

 そして扉の前で立ち止まると顔を向けずにこう言った。


「残ったお寿司、もったいないから冷蔵庫に入れててよね、お兄ちゃん」

 

 開閉スイッチを押して廊下へ消えて行った。


「そうだそうだ、もったいない。先輩、ラップありますか?」

「え、ええ」


 文乃が引出しからラップを取り出し、道矢へ手渡す。


「巳茅のヤツ、美味先輩と総長の為に冷蔵庫へ入れとけってさ」


 寿司の載った皿をラップで包み、文乃へ手渡す。


「そっか」


 柔らかな笑みを浮かべた文乃が、ラップに覆われた寿司を見る。


「な、鳴瀬巳茅は帰ったな」

 

 隣の部屋に続く戸から美味の顔が覗く。そんな美味を、寝ぼけ眼でヨダレを垂らした総長が突き飛ばした。


「おっ! このニオイは俺っちと姉貴がかっぱらってきたマグロとかいう魚だな!」

「こここ、このアホウが! パシリの分際で私を後ろからど突くとは!」


 恥辱と怒りの形相を総長に向け、四つん這いの格好で美味が叫ぶ。


「へあ? あー、姉貴いたんすか? おっ、文乃、それが寿司ってやつか?」


 足元の美味を見遣るも、その目はあっという間に寿司へ移る。


「そ、マグロのお寿司よ。先に頂いちゃったけど、食べる?」

「ぶへー! 食べる食べる食べる!!」


 両手を伸ばし、寿司へと駆け出そうとした総長の足を美味が素早くすくい上げる。


「食べるべっ!!」


 宙を一回転した総長が思い切り顔面から床に着地する。


「謝るどころか私を出し抜いて食べに行こうとは、お前のアホウランクをA5に認定してやろう」

 

 吐き捨てる様に言うと、文乃の前に素早く移動する。


「みっちゃん、喜んで食べてたわよ。おかげでこれしか残らなかったけど」


 文乃が申し訳なさそうに寿司の載った皿を美味に見せる。


「それは何よりだ。ん?」


 ラップに覆われた寿司を見た美味が微妙な表情になる。


「これはその、生か?」

「え? マグロは生で食べるものでしょ」

「わ、私は生の肉が食べられない。食べると吐いて全身に水疱瘡が出来る。恐らく魚もそうだ、生はダメだ」

「それってアレルギーでしょ、信じられない!」


 これに文乃は勿論、道矢も驚く――――と同時に美味が人間を食べない本質的な理由がわかった。


 どこにあるかは分からないが、人型土魚の世界では食事、つまり人の肉は生でしか食べない。

 恐らく火を調理に使うどころか生活にも必要が無い為扱わないのだろう。となると不憫なものである。

 人の生肉を食べてはゲーゲー吐いてアレルギー反応に苦しみ、空腹の余りちょくちょく人間界に来ては、ざる蕎麦を食い逃げしていたのもしょうがないといえばしょうがないといえる。


「がははははっ、なんでえ姉貴、生肉食えなかったんすか。あー、そういえば食事の時に母上からキーキー怒られてたっけ。いやいや、そういう訳だったんすね、がはは。姉妹で生肉食えないの姉貴だけっすよ」


 打ち付けた顔面を撫で総長が笑う。


「だ、黙れ! 血のしたたる生肉を食べる野蛮な事を私の体が自然と拒否しているだけだ!」


 総長に赤くなった顔を向け、声高に言う美味。


「でも美味先輩、グルメ雑誌の写真見て寿司は生ものって知ってたんじゃないんですか?」


 道矢が疑問を投げかける。


「うむ、焼いた様なネタを載せた寿司も雑誌にはあったのだ。それは出来ないのか? 鳴瀬道矢」

「それって多分炙り寿司かな。先輩、ここにバーナーってあります?」

「うん、あるわよ。実験用だけどそれでいい?」

「十分オーケーです」


 シャリから外した赤身マグロをバーナーで炙り、再びシャリに載せる。


「どうかな、レアじゃヤバイと思って結構火を通したけど」


 不安げな道矢をよそに、手でつまんだ寿司を口に入れる美味。


「むぐむぐ……うーむ……」


 じっくり噛みしめ、ごくんと飲み込んだ美味が指を舐め、こう言った。


「不味くは無いが、美味くもない」

「あちゃあ、やっぱりか。赤身だから焼き過ぎるとパサつくんですよ」

「ふむう、そうか、やはり寿司は生で食べるのが一番なのだな。むう」


 向かい合って難しい顔をする二人を見ながら総長が声を上げた。


「がははっ、こっちの寿司はとんでもなくウメーっすよ姉貴! そんなメンドクセー食い方した挙句不味いとかご苦労なこってす」


 口からシャリの破片を飛ばして笑う。

 それを横目で睨んだ美味が歯噛みした。


「私はいい様に笑われるのも何より許せん。鳴瀬道矢、何とか美味しく工夫出来ないか」

「何とかって言われても……んー」


 知恵を絞る道矢の頭に、ビッグでカラフルな巻物が思い浮かぶ。


「あ! これはいいかも」


 研究室から飛び出す道矢。数分後に戻って来たその手にはマヨネーズと一味唐辛子の小瓶が握られていた。


「カリフォルニア巻って邪道だと思ってたけど、今回はいいヒントになりましたよ」


 炙ったマグロの上にマヨネーズを絞り出し、美味の好きな一味唐辛子を一振りする。


「む、寿司にマヨネーズと唐辛子か。どんな味か想像出来んが」

「結構イケると思いますよ」


 手にした炙り寿司を少々不安気に見た後、口に運ぶ美味。


「うむ、……む……むむ!」


 口を動かす度に笑みがこぼれる。


「これは美味いぞ、鳴瀬道矢!」

「よっしゃ! 成功ですね。じゃあ残りの寿司も炙りますよ」


 シャリから外したマグロをバーナーで火を通す道矢を、嬉しさと照れくささが混じった表情で美味が見詰める。


「へえ、ちょっと私にも一つ頂戴よ」


 文乃が返事を待たずに炙り寿司を摘むと半分だけ口に入れた。


「むぐむぐ……ふん、食べた事無いからどうかと思ったけど、こんなもんね。生の方が圧倒的に美味しいわ」


 小さく鼻を鳴らした文乃が食べかけの寿司を自分の小皿に置いた。

 それを見ていた道矢がバーナーの火を止めた。


「ちょっと、それ何ですか?」

「それ何でしゅか? じゃない! 口に合わないから置いたのよ」

「食べかけを戻さないでください、もったいないじゃないですか」

「生憎私は無理してマズいものを食べる口は持ち合わせてないの。いいじゃない、それっぽっちの寿司位」


 ここに巳茅が居たら慌てて食べかけの寿司を自分の口に放り込んでいただろう。 何故なら食べ物を粗末にする者を兄は何より許せないから、性格が豹変してしまうのを知っているから。


 パンッ!


道矢が勢い良く手を叩いた。


「……それっぽっちの寿司位……うーん……うん? 今それっぽっちって言った? つーかマズいの食べる口は持ってないとかも聞こえた気がしたよーな? あれー、俺の耳おかしくなってんのかなー?」

 

 眠そうになった目を文乃に向ける。


「ちょっと……何よ、私に文句でもあるっての?」


 道矢の“食べ物粗末にしたらブチ切れるぞスイッチ”など知るはずも無い文乃だったが、明らかに様子が変わった事に小さく狼狽していた。


「文句あるっちぇの? じゃねーよ。つか、文句ありまくりなんだよ。美味先輩と総長が苦労して持ってきたマグロを一口食ってポイってお前何様だよ、父ちゃんの力で御馳走食ってる口が偉そうな事言ってんじゃねーよ」


 墨汁が詰まった様な目で吐き出される呪詛のような言葉に、

「な、何よ!……何であんたにそこまで言われなきゃならないのよ!」

 と声を張り上げる文乃の目には薄っすら涙が浮かんでいた。だがそれにも口調を変えずこう続けた。


「おいおい、俺の話聞いてる? つーかその食べかけの寿司、ちゃんと食べようって思い直した?」


 隠す様に涙を拭った文乃がキッと睨んだ。


「聞いてるわよ! でも食べようなんて思い直したりしないから! ええ、思い直すもんですか!」


 漆黒の闇にチカチカ点灯する一つの街灯、それがついに球切れを起こした様に、道矢の目から微かな光がすっと消える。そして――――ブチ切れスイッチが入ってしまった。


 道矢の人差し指が滑らかに持ち上げる。


「お前……ファザコンだろ?」


 ピクッと体を震わせた文乃が息を飲み、握った右手を胸に当てる。


「な、な、何を言って……」

「母ちゃんと別れた父ちゃんを励ましたくて勉強とか頑張ってきたクチだろ。テストまた学年一位よ、ピアノコンクールまた優勝よ、クラシックバレエも最優秀賞取ったわ、どう? お父様、お母様が居なくなっても私がいるわ。そう、私を見て」

「や……やめ……」


 両耳を手で塞ぎ、左右に顔を振って涙を飛ばす文乃など目に入って無いかの様に、一定の音調で喋り続ける道矢はまるで暗黒の悟りを開いた法師の様。


 これには美味と総長も青ざめた顔でただ見ているだけであった。


「で、自分がファザコンだってのを誰かに気付かれるのを何より恐れている。学園中の男子じゃ自分に釣り合わないとかアピールしまくってるのもそれなんだろ? 秘書の真似事して父ちゃんにくっ付いていくのも寄ってくる女に目を光らせる為だろ? お前は父ちゃん以外誰にも心を許していない、自分の心を鋼鉄の檻で覆ってやがるんだ、誰も入れさせないこの研究所みたいにな」


 道矢は相手の口を見てどんな傾向の人間か判別する能力がある。

 だがいったんキレるとその能力が攻撃的に先鋭化してしまう。相手の触れられたくない心の隙間に容赦なく刃を突き刺し、えぐってしまうのだ。


「ひぇっく! ひゃっく!……ひど、ひどいわ……えへっ、えへへっ……えひゃはははー!!!!」


 突如狂った様な笑い声を上げた文乃が巨乳を大きく揺らしながら駆出し、研究所の別室に飛び込んだ。

 素早く扉は閉まり、何重にもキーロックされる音が響く。


 壮絶なものを見てしまったという顔で美味らが扉を見詰める。


「な、鳴瀬道矢、いくら何でも言い過ぎではないのか?」


 美味の言葉に答えず、無言のままテーブルに屈みこんだ道矢が文乃の食べかけの寿司を手に取り、口へ放り込んだ。


「むぐむぐ……」

「おい、道矢……オメー大丈夫かよ?」


 総長のあからさまに不安な声に反応する様、道矢がむせ始めた。


「うえっ!……げほっげほっ! 何だよ総長、食べてる時に声掛けないでよ……って、あれ? 何で俺寿司食ってんの?」


口を押さえてた手に目をやり驚く道矢。


「……鳴瀬道矢を怒らせてはいけない様だな、アホウ」

「そうっすね姉貴、殴られるよりダメージでけぇっすよアレ」

「うむ、私もあんなドギツイ事は言われたく無い」


 顔を合わさず頷く二人。


「そういえば先輩は?」


 キョロキョロ見回す道矢に本当の事を言えるハズも無い二人は慌ててこう言った。


「な、何か知らないが高笑いしてあの部屋へ消えたぞ」

「そ、それよりよ、もっと寿司作ってくれよ道矢」

「いいよ……って、もうネタが無いんだった」

「ヴェ、何だよ。全然食い足りねーぞコラァ」

「コラァじゃなく、総長がほとんど食べたんでしょ」

「ヴッ!……さーせん」


 こりゃ怒り心頭になるな、そう思った道矢がちらりと美味へ目をやった。


「なら出せばいいだろう、アホウ」

「出すって何をっすか?」

「アホウ、お前もあのクソ寒い冷凍庫からマグロのブロックを何個か持ち帰っただろうが」

「んん~? あーあー、そうだった。すっかり忘れてたっすよ」


 自分のシックスパック腹筋をポンと叩く総長、そして両手の指先を自分の口に突っ込むと、思い切り左右に引っ張った。

 人を飲み込めるのではないかと思う程大きく開かれた口に、道矢が一歩引く。

 そんな大きく開かれた口の中に、まるで風呂掃除でもする様に身を乗り出して顔を入れる美味。


「はら見ろ、あったぞ」


 ショートウルフヘアにヨダレを付けた美味が口の中から保冷バッグを取り出した。


「どうりで腹ん中が冷や冷やしてると思ったぜ」


 総長が両手を放すと同時に口は縮み、元のサイズに戻った。


「どれ鳴瀬道矢、これで炙り寿司を作ってくれないか」

「う、うん」


 受け取ったヨダレまみれの保冷バッグをじっと見詰め、数時間前巨大な口から美味が保冷バッグを吐き出した事を思い出す。


 当人の顔の十倍広がる口に仰天した事。

 両手で抱える大きさの保冷バッグを、その華奢な体にどうやって収めたのか考えた事。


「おい道矢ー、何ボケーっとしてんだよ」


 総長の声に、我に返った道矢がベトベトした保冷バッグを開ける。


「うわ、ほとんど解凍されちゃってる! こりゃ全部火を通さなきゃダメだ」

「結構だ、私は生はダメなのだから。早く頼むぞ鳴瀬道矢」

「俺っちも生は食ったから焼いたのがいいぜ! ほれほれ、ちゃちゃっと作りやがれ!」


 美味と総長が急かす言葉を矢の様に浴びせる。


「ちょっとフライパン取って来るから」

 

 たまらず道矢は廊下へ飛び出す。


「まったく、少しは休ませてくれよ」


 そう呟いた後、いやいやと小さく首を振り苦笑する。


 自分の料理を通して、二人の人型土魚が人間の食文化に馴染んで来ている、その事が嬉しくも不思議な気分にさせたからだ。



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