第43話

 立ち尽くす咲希に、小百合は秀人が帰って来たもののすぐに出て行ったこと、去り際に咲希の家に寄ると言っていたことを話した。すると咲希は頼りない足取りで自宅へ向かった。

 どうにも気にかかって母から兄の連絡先を聞いた。電話はつながらず、どこにいるかとメッセを飛ばすとしばらくしてから返事があった。


『わりと遠くにいる。どうかしたか』

『咲希に会わなかったの』

『留守だった。咲希に何かあったのか』

『あんたに会いにうちに来ただけ。とりあえず帰ってこい』

『悪い。無理だ』


 小百合は自分のスマホを握りつぶしそうになった。

 本当はこんなメッセ送りたくなかったのだ。メッセが届けば秀人は帰って来る。そうしたら秀人と咲希は最期の時までずっと一緒にいると思ったから。

 しかし違った。秀人は咲希と一緒にいるどころか、咲希と顔を合わせることもなくどこかへ行った。咲希が自分を尋ねて松葉家を訪れたと知っても簡単に帰れないと言った。


 言いようのない怒りが小百合を襲う。なんなんだこの男どもは。

 健治は咲希の気持ちを勝手な思い込みで推し量り、世界が終わる直前になって咲希を放り出した。

 秀人は咲希と会いもせず平気な顔でどこかへ行った。

 なんだ。なんなんだ。こいつらは揃いも揃って咲希と心を通わせられる位置にいたのに、咲希のことが好きなくせに、どうして咲希をないがしろにする。

 妬ましいやら憎らしいやら。とにかく腹立たしい。


 小百合は咲希に対する感情が定まっていなかった。自分が抱いているのが友情なのか恋情なのか、それともまったく違う何かなのか判別することができなかった。だから健治という恋人を得た咲希と積極的に近付こうとはしなかった。

 互いを思い合う相手がいるのに、中途半端な気持ちの人間が割り込んではいけない。咲希の幸せを邪魔してはいけないと思っていた。


 ここになってようやく気付く。たしかに気持ちに確たる名前はついていない。だが間違いないことがひとつある。

 小百合は、咲希が大切だった。

 友達よりも。家族よりも。自分自身と同じくらいに。もしかしたらそれ以上に。

 この気持ちが友情でも恋情でもなんでもいい。抱いた気持ちの根幹は変わらない。


 健治と咲希の仲を邪魔しようと思わなかったのは、それで咲希が笑えるだろうと思ったからだ。一人でいても平気なくせに松葉家をよく尋ねる、寂しがり屋の幼馴染は、自分のことを世界一大切に思ってくれる誰かと一緒にいることで幸せになるのだと思ったからだ。

 どうせ手に入らない。近付こうとして嫌われたらつらい。そんな気持ちがあったことは認める。だがそれは咲希の幸せを思う気持ちに比べたら些細な、本当にちっぽけなものだった。


 小百合は家のドアを勢いよく開ける。

 駆ける。

 ほんの百メートルほどの距離を、コンマ一秒でも早く縮めるために。

 岩井家には明かりが灯っていなかった。真っ黒い闇の中で、他の家の明かりでぼんやりと輪郭がにじむ。

 インターホンも鳴らさずに岩井家のドアノブをひねる。抵抗なく動いたノブを引っ張る手つきは荒っぽくなった。

 咲希は靴も脱がずに玄関に座っていた。

 見上げた瞳には小百合が映っている。

 きっと来たのが秀人だったなら咲希は笑っていた。それくらいに心を預けていた。

 咲希は小百合を見ても不思議そうな顔をするだけだった。

 小百合は黙って咲希に一歩近づき、


「わたしは咲希と一緒にいたいです」


 抱きしめた。

 ためらうようにおずおずと咲希の手が小百合の背中に回される。

 ずいぶん時間をかけて小百合の背中に触れた両手は、ぎゅうっと小百合の服を掴んだ。

 声を立てず、咲希は泣いていた。


 小百合は咲希が泣いていることに気付き、理由を尋ねた。

 咲希はうあうあ言うばかりで要領を得なかった。一度落ち着かせてみると「自分でもうまいこと言えない」ということらしい。咲希自身、情緒が不安定であることに戸惑っている様子だった。

 なんとなく玄関で話していると、咲希の腹がぐうと鳴った。健治と昼食を食べたきり、午後は動き詰めだったので空腹だった。


「とりあえず、ウチに来ますか。夕ご飯ありますよ」

「うん……」


 顔を伏せる咲希の手を引き松葉家へ向かう。長い付き合いなので腹の音を聞くくらい珍しいことではないが、深刻な雰囲気で腹が鳴ったことは恥ずかしかったらしい。

母は急に咲希が夕食を食べに来ても歓迎していた。秀人の分も夕食を用意していたのに、秀人が思っていたより早く家を出たせいで片付かなかったのである。


「咲希ちゃん、何かあったの? ご両親もお家にいなくて寂しいでしょうし、よかったらうちで過ごしてくれていいのよ」

「ありがとうございます。でもお邪魔するみたいで悪いので……」

「わたしが一緒にいるから咲希一人にはならないよ。父さんと母さんは久しぶりに夫婦水入らずで過ごしなよ」

「あら。そういえば秀人には会った? たぶん咲希ちゃん家には顔を出したと思うんだけど」

「タイミングが悪かったみたいです」

「まあ。そんなこともあるのね。また機会があったら仲良くしてあげて」


 母はいまひとつはっきりしない口ぶりだった。また機会があったら、なんておかしなことまで口走っている。

 今から丸二日もすれば地球は滅んでいる。

 秀人は明後日も帰ってこないと言っていた。世界が終わるまで帰ってこないのに、また仲良くする機会なんてあるはずがない。


「お母さん、お父さんも。ごめん、わたしはこれから咲希と過ごします」


 もともと小百合は両親と最期を迎えるつもりだった。

 咲希と過ごしたいとは思いつつも、咲希は健治と過ごすのだろうと思っていた。そんな咲希の邪魔をするのは忍びなく、両親とは仲が良いので、それが自然なことに思えた。

 今になって変わったのは寂しそうな咲希を見たからだ。


 咲希の両親が帰って来ることはない。咲希自身、両親が帰って来ることを望んでいない。

 本当は共に過ごすはずだった健治からは別れを切り出された。

 秀人に至ってはどこにいるかも分からない。帰って来るつもりはないと明言している。

 咲希は知人こそ多いものの特に親しい人は多くない。別格で親しい秀人と健治がおり、周囲は健治に遠慮し、秀人を恐れたという面もある。小百合が知る範囲で、咲希が共に最期を過ごすような相手は思い浮かばなかった。

 小百合は内心で嫌がっていたらどうしようと怯えていたが、咲希の表情は驚いた様子こそあれど拒絶は見えなかった。

 問題は両親だ。急に家族を切り捨てて幼馴染と過ごすと言い始めた娘にどんな言葉をかけるのか。腹に力を入れて身構える。


「うん、いいんじゃないかな」

「そうね、昔から仲が良いものね」


 父は至極あっさりと頷いた。母も笑顔で名案だと言わんばかりに手を打った。

 驚いたのは小百合と咲希である。二人とも、小百合の両親は怒鳴るようなことはなくとも悲しそうな顔くらいするものだと思っていた。

 母は喜色満面である。父は今日の夕飯はファミレスにしようと言われたくらいの軽さだった。そんな薄いリアクションを取るような関係性しかなかったのかと逆に小百合がちょびっと傷付いた。

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