第42話

「運動しやすい上下に底が厚い靴。こちらが一応用意した登山用の杖とスポーツドリンク。頼まれてたのは上下と靴だけでしたけど、良かったらこちらも使ってください」


 世界が終わるまで残り二十四時間足らず。

 小百合は歩の病室に来ていた。小さなリュックから品物を取り出し歩に確認させている。

 歩はひとつひとつ確認し、小百合に頭を下げた。


「助かったよ。自分で服買いに行くのも難しいし、松葉さんがいなかったらこの格好のまま出るところだった」

「本当に行くんですね」

「もちろん。そのために鍛えてきたんだから」


 歩は顔を上げた。

 初めて病室へ来た時とは顔立ちが違っていた。

 およそ三年前、最初に会った時にはやたら色白で病弱そうだと感じた。

 一年前、目標が出来たと語った頃には雰囲気が柔らかく血色がよかった。

 両親に疎まれていると知った直後は蝋人形のように生気がなく青白かった。

 今は輪郭が鋭くなっていた。もともと少なかった脂肪はほとんどなくなっていた。余計なものをそぎ落とした姿はぎらぎらしたまなざしと合わさって刃物のような印象を与える。


「止めないですけど、本当に大丈夫なんですか。前よりも動けるようになったのは知っていますが、それでも体力がないのは相変わらずですよね」

「どうだろうね。体の動かし方も分かってはきたけど、自信があるとは言えないかな」

「それならいっそ真治さんに車で山頂まで連れて行ってもらえば……ごめんなさい、それじゃ意味がないんでしたよね」

「うん、自分の力でてっぺんまで登りたいんだ」


 学園祭の後、歩は強度の高いリハビリを始めた。小百合が来ても病室にいないこともしょっちゅうだった。

 歩は、近所の山を登りたいのだという。

 詳しい理由は話してくれなかったが、山頂に行くことではなく自分で登ることが目的と言っていた。

 歩が持っている靴は学生用の革靴とぼろぼろになったスニーカーだけ。革靴は家に放置されており手元にない。服に至っては寝巻だけである。両親はここ数か月病室へ顔も出さなくなっていた。歩の方から連絡を取るつもりにはなれず、小百合に調達を頼んでいた。

 小百合は頼まれてすぐに靴と服を買っていた。一度持ってきてサイズは確認できたものの、病室に置いていると脱走の予定がバレるので小百合が預かっていた。


「気を付けてくださいね、わたしも自分が靴とか用意したせいで怪我したと思うの嫌ですから」

「大丈夫、どうせ裸足でも行くから」

「その時は諦めてくださいよ。山までたどり着けませんよ。あと大丈夫っていうなら怪我しない根拠を言ってください」


 聞こえよがしにため息をつく。

 前はおとなしい印象だった。いつの間にか決行力が強くなったというか、変な方向に押しが強くなった。必要とあれば自分の病弱そうな姿で同情を引いて人を動かしそうなしたたかさすらある。

 そろそろ時間だ。小百合は丸椅子から立ち上がる。


「ところで松葉さん、今日はいつにもまして可愛いね」

「……そうですか、ちゃんと可愛いですか」


 病室に来る時にはたいがい制服か、動きやすさ重視のパンツスタイルが多かった。

 今日の小百合はブラウンのニットトップスに、足首まである赤色のプリーツスカートをはいていた。顔にはうっすらメイクがされており一目で分かるほど様子が違う。


「これからデート? 頑張ってね」

「デートというか微妙ですけど、はい、頑張ります」


 自分の手荷物である小さなバッグだけを手に取って小百合は出入り口で振り返った。


「今までありがとうございました。さようなら」

「こちらこそお世話になりました。元気でね」


 二人は別れの挨拶を交わした。

 立ち去る小百合の背中を、歩はまぶしそうに見送った。


―――


 きっかけは昨日の夜のこと。

 およそ一年ぶりに帰って来た兄を見送ってからしばし。明日はどう過ごそうか考えていた時だった。

 ぴんぽんとインターホンの音。一階で夕食を食べていた小百合と両親は顔を見合わせた。

 誰も来客の心当たりはない。玄関に一番近い席に座っていた小百合が出迎えに行った。

 ドアアイを覗くとそこには咲希が立っていた。

 インターホンは通話ができる機種だが、慌ててドアを開けた。


「あ、ゆりちゃんこんばんは」

「こんばんは……」


 予想外の事態にうまく言葉が出てこない。

 どうして今ここにいるのだろう。先ほど、秀人が咲希の家に向かったはず。何か忘れものでもしてそれを届けに来てくれたのだろうか。

 うっすら化粧をしている。足元は頑丈そうな靴を履いているが、着ている服は仕立てが良い。活動的な格好もよく似合っていた。

 つい装いを鑑賞してしまったが、顔を見てみると咲希は小百合の後ろを窺っていることに気付く。遅い時間にごめんね、などと言いつつも視線がちらちらと小百合から逸れる。

 いつにないことだ。咲希が松葉家を訪れることは珍しくない。いつもならまだるっこしい挨拶なんかせず「上がっていい?」の一言で済ませる。何か用があるなら話しながらちらちら小百合の向こうを覗き込んだりしない。お邪魔しますと言ってスリッパを取って上がり込む。


「もし家族で団らんしてるとかだったらほんとごめんね」

「いえ、夕食とってるだけなので気にしないでください。それより咲希の様子がヘンなことが気になるんですけど」


 格好からしてデート帰りとかそんなところだろう。まさか健治と様子がヘンになるようなことをしたのかと邪推してみるも、態度を除いて怪しいところはない。

 直截に尋ねてみると咲希は前髪をちょいちょいといじりながら目を泳がせて、やがて観念したように伏し目がちに言った。


「あのさ、秀、帰ってきてるんだよね」

「ああ」


 すべての疑問が氷解した。

 思えばずっと不自然だった。健治と咲希は長い友人付き合いを経て恋人になった。意思疎通はそこらの恋人たちとは比べ物にならないくらいしっかりできているはずだ。関係性を発展させることも容易だろう。

 世の中には結婚式を挙げる十代も増えた。世界が終わる前に華やかな挙式を、と望む恋人たちは少なくないようで、法律で結婚できない年齢でも結婚式だけ挙げたなんて話も聞く。小百合も十代をメインターゲットにした結婚式のフリーペーパーを見かけたことがある。

 咲希はお祭りごとが好きだ。健治は咲希が少しでも喜びそうならいろいろな遊びを提案する。この二人ならとっくにそこまで到達していておかしくない。

 なのに、挙式どころか、この二人はいまだに恋人になった時と同じ付き合い方を続けている。

 二人で遊びに行く。食事をして、雑談をする。日が暮れたら健治が咲希を家まで送ってその場で別れてまた今度。健全過ぎるくらい健全な付き合い方をしている。

 都合が良いと思う一方で不自然だとも思っていた。まさか健治は不能なのかと考えたこともあった。

 今に至り、小百合はあらゆる疑問に答えを出していた。


 健治が咲希と関係を深めなかったのは?

 ――咲希が秀人のことが好きだと思っていたから。

 そう考えているのに付き合い方を変えず一番近くにいたのは?

 ――秀人が戻ってくるまでは自分が守ろうと思ったから。

 咲希が松葉家に来た理由は?

 ――秀人に会うため。

 秀人が家にいると思ったのは?

 ――健治に聞いたから。

 今、咲希が秀人に会おうと思ったのは?

 ――健治が別れを切り出し、松葉家に行くよう言ったから。

 健治が咲希に別れを切り出し秀人と会うよう仕向けたのは?

 ――咲希には好きな人と最期の瞬間を迎えてほしいから。


 小百合はわずかな時間で実際に起きたことを想像した。そしてそれらの考えが正しいと直感的に判断した。

 家に行った秀人とは入れ違いになったのだろう。健治は秀人と会い、秀人が帰ってきていると咲希に伝えた。だからいつもと違う時間に咲希が来た。

 咲希が健治の意図をどれだけ理解しているのか分からない。秀人に会いに来た理由も不明瞭。久しぶりに幼馴染と顔を合わせに来たのか。それとも本当に秀人と最期を過ごそうと考えているのか。

 どちらでもいい。どちらでもなくてもいい。


 ――健治もアイツも何をしているんだ!


 小百合の脳内は苛立ちでいっぱいだった。特に健治に対して。

 咲希が好きでもない男と付き合うような尻軽と思っているのか。秀人のことが好きだと決めつけていきなり放り出すのか。そして恋人の口から秀人に会いに行けと言ったのか。不躾に無遠慮に咲希の行く先を決めつけるのか。

 アイツもなんでそんなにタイミングが悪いんだ、と秀人に対しても苛立ったが、そちらは八つ当たりみたいなものだと自覚があった。


 はあ、と嘆息する。

 結局どんな意図があろうと、どんな流れがあろうと関係ないのだ。

 なぜなら。


「あいつならもう出て行きましたよ」

「……え?」

「父と母が尋ねてましたけど、今日明日明後日はもう帰ってこないそうです」


 あと三十六時間で世界は終わる。明後日まで帰ってこないということは、二度とこの家に帰ってくるつもりはないのだろう。

 小百合が淡々と告げるも、しばらく咲希は反応しなかった。口を半開きにぱくぱくさせて、何か言いたげだが言葉にならないようだった。呆然とするような表情はかつてないもので小百合に不安を抱かせる。

 しばらく経ち、ようやく咲希が言葉をひねり出した。


「うそぉ…………」


 子供の泣き声のように聞こえた。

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