第17話

 最近、歩のリハビリに新しいメニューが加わった。

 杖を使って歩く練習である。これまでは手すりに捕まって歩く練習が多かった。

 中学校に入学した直後にはまだ普通に歩けていたのだが、入学後一か月程度で入院することになった。

 その際に体力が大幅に落ちてしまった。一時期は歩くどころか立つことさえ難しかった。

 今でも病気は進行しており筋肉の機能は低下している。

 しかしながら、リハビリすることで筋線維が切れた場合は普通に再生する。つまり筋トレすることで筋肉量は増えるのだ。筋力が落ちていく症状を、筋肉の量を増やすことで補うという不可思議な状態だった。

 これまでのリハビリの成果として、歩は立つことができるようになった。手すりに掴まれば歩くこともできる。

 今度は歩の目標を考え、固定されていないもの――つまりは杖を使って歩いてみる段階に差し掛かっていた。

 開始した初日は杖に体重を預けることさえ難しかった。杖に体重をかけることでバランスを崩し転んでしまうことも度々あった。

 一週間練習に専念した今では短い距離なら歩けるようになった。

 目標は山道を歩くこと。歩きたい道が病院の床と違い土であること、斜面になっていることを考えると、まだまだ目標は遠い。

 それでも着実に進歩している。世界が終わる前に必ず目標を達成する。そんな意思が歩を支えていた。


 リハビリがつらい時に思い出すのは十歳の秋。世界の滅亡とか、自分があと数年で死ぬとは知らなかったころのこと。両親に連れられて出かけた日の記憶。

 当時から歩は体力がある方ではなかった。両親と訪れた山は標高も低く斜度も緩やかなものだったが、それでも歩には大変な道のりだった。最初ははしゃいで走り回って、両親に「置いてくよ」なんて言ったりしたが、三十分もしないうちに疲れてしまった。


『おとーさん、おかーさん、もう歩けないよ』

『もうちょっとだ、頑張れ歩』

『一緒に行きましょう、歩』


 その場にへたり込んだ歩の手を、両親がそれぞれとってくれた。

 おんぶしてとかもう歩きたくないとかさんざんぐずった歩を、両親は辛抱強く待ってくれた。背負うなり抱えるなりして行った方が絶対に早かったのに、歩が自分で前に進むのを待っていてくれた。

 当時は両親のことを意地悪だと思っていたが、泣いても喚いても楽をさせてくれないと分かって、しぶしぶ自分で歩き始めた。

両親は歩にずっと声をかけてくれた。疲れて気が散ってしまわないよう、花のことや鳥のことを話してくれていた。もう少し、歩ならいけると励ましてくれた。ほとんど聞いている余裕がなくておぼろげにしか覚えていないけれど、応援してくれていたことはよく覚えている。

 ひいひいぜえぜえ言いながら『もうぜったい来ないから』なんて憎まれ口を叩きながら、なんとか山頂にたどり着いた。山頂とはいってもハイキングコースの終点みたいなもので、ちょっとした出店とベンチ、展望台があるくらいのものだった。両親にねだって買ってもらったジュースを飲みながら、片手を引かれ展望台まで連れていかれた。


 その時の光景は今でも鮮明に思い出せる。

 眼下には自分の住んでいる町があった。歩よりずっとずっと大きな小学校の校舎が豆粒くらいに見えた。自分の家を探してみるが、どこにあるか分からないくらいだった。

 それまで気に留めていなかった周囲の風景が目に映るようになった。イチョウやモミジの鮮烈な色彩があった。なぜこれまで気に留めていなかったのか不思議なほどの鮮やかさだった。

 展望台は上下左右を木に囲まれていた。そこから見る景色は極彩色の額縁に彩られた絵画のようだった。

 歩は言葉もなくそこに立ち尽くした。

 生まれて初めて感動という経験をしたのかもしれない。

 自分の手元すらおろそかになってジュースを取り落とすまでぼんやり風景を眺めていた。

 ばしゃ、という音と足元の冷たさで正気に戻った。

 「しょうがないやつだな」と父は笑って歩の足を拭いてくれた。母は三人分の飲み物を買ってきてくれた。景色の見えるベンチに三人で並んで座り、温かいお茶を飲んだ。


「ここからは町が良く見えるだろう」

「うん。すごかった」

「そうだろう。父さんも初めて来たときには驚いたよ。自分が知っている場所は町の中でもほんの少しだけなんだって」

「うん、うん! 僕もびっくりした。学校があんなにちっちゃいんだ!」

「やっぱり親子だな。父さんも昔、同じことを思ったよ。歩の名前はそのまま歩くと書く。学校でもう習ったな?」

「もう漢字で書けるよ」

「そうか、えらいぞ。歩の名前はな、この広い世界をどこまでも自分の足で歩いて行けるように、と思ってつけたんだ。歩が生まれた時から、いつかここで話をしようと決めていた。父さんの夢をかなえてくれてありがとな」


 父の手が歩の頭に置かれた。隣で母は静かに微笑んでいた。

 風が冷たくなってくるまで静かに座っていた。

 言葉はなかったけれど、不思議と満たされていた。


 それが歩の一番大切な記憶。

 歩くのは楽しいことばかりじゃない。つらいことだってある。

 けれど歩いた先には何か素晴らしいものが待っているかもしれない。

 あの時、父は夢をかなえてくれてありがとうと言った。

 今度は歩が自分の夢をかなえたいと思った。

 父が夢をかなえたあの場所で。

 そう思えばどれだけリハビリがつらくても大したことはないと思うことができた。

 きっと父も母も喜んでくれるはずだ。


 やるべきことは十歳の頃と変わらない。

 一歩一歩、足を前に進めていく。

 走ることはできずとも決して止まらないように。

 そしていずれ望んだ場所にたどり着く。

 きっとそれが父の願ったこと。歩の願うことだから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る