第16話

 前島歩は自分が幸福な人間だと思っている。

 優しい両親がいる。わずか一か月足らず同級生だった人が見舞いに来てくれる。

 病気にかかったことは不運だと思う。原因不明で対症療法でやり過ごしているが次第に体は硬直し、やがて歩くことも話すこともできなくなるという。

 罹患当初は平均より体力がない程度だったが、今では歩くのが精いっぱいというありさまだ。長距離歩こうと思ったら介助が欠かせない。

 とても不便だが、考えようによっては不便程度のことでしかない。病気で体は動かしづらいが、痛みや苦しみが常にあるわけでもない。

 歩は成人する前に死ぬだろうと言われていた。

 自分でもそう思う。心筋まで機能不全に陥るか、今のところ不明だがその前に他の内臓が機能しなくなる気がしている。

 初めて聞いた時にはどうして自分ばかり、と思ったのは事実だ。

 しかしよく考えたら歩が成人するよりよっぽど早くに地球が消滅する。余命があと十年だろうが百年だろうが等しく終わりが決まっている。そう考えれば余命があと五年程度と言われても大したことではないように思えた。

 なんなら、隕石は歩をひとりで終わらせないために降ってくるのではないか。そんなふうに考えたことすらある。


 歩の境遇を聞いた人はよく不幸せだとかつらいねだとか言う。中には涙を流す人すらいる。

 そんな人たちに歩は大した感動を覚えない。

 確かに、好きなことをできないのは不運だろう。いろいろ試して好きなことを探したいという気持ちはある。

 けれど不運と不幸は違う。病気は歓迎できないけれど両親に愛され生まれ育ったことだけで幸せだし、両親以外にも優しくしてくれる人がいる。これが幸福と言わずして何なのか。


 現状満たされているからさらなる満足を追い求めようと思える。

 自分を愛してくれる両親に喜ばせたい。自分の最も幸せな記憶を再現したい。

 リハビリは大変だが、そう思えば頑張れる。

 これまで通りの生活を送りつつ、少しずつ目標に近づいていきたい。そして世界が終わる前に目標を達成したい。

 それが歩の願う全てである。


―――


 その日の朝はやけに早く目が覚めた。

 まだ朝食の時間ではない。リハビリをしようにも真治が来るまで時間がある。

 二度寝してもよかったがすっきりと目が覚めていた。せっかくなので本でも読むことにした。

 自分で図書館へ行くことはできないが、読みたい本があれば両親が買ってくるか図書館で借りてきてくれる。母は頻繁に来てくれるので読む本には事欠かない。読み切れないほどだ。

 小説をぺらぺらめくっていると病室のドアがノックされた。

 時計を見ても朝食にはまだ早い。時間的に真治でもないだろう。誰だろうと思いつつ、ノックしてくるなら不審者でもないかと思いどうぞと声をかける。


「おはようございます」


 ドアを開けてそう言ったのは中学校入学と同時に知り合った松葉小百合だった。これから学校に行くのか中学校の制服を着ている。

 ほんの一か月程度、近い席に座っていただけの間柄なのに時折お見舞いに来てくれる。これほど早い時間に来たのは初めてだったが。


「おはよう、松葉さん。今日は早いね」

「ええ、ちょっと。迷惑でしたか」

「いや全然。いつも暇を持て余してるくらいだから、いつ来てくれてもいいよ」


 気を遣ったわけではない。本を読んだりゲームをしたりするのも好きではあるが、もう飽きたところがある。

 同年代とのおしゃべりなんて小百合が来た時でもなければできない娯楽だ。なんなら一日中いてくれたっていい。

 いつもよりおずおずした態度の小百合だが、返事を聞いて胸をなでおろしていた。

 小百合は学生鞄を開き、その中から数枚のプリントを取り出し歩に差し出した。


「これ、昨日のプリントです。忘れてました」

「いつもありがとう。健康だよりに学級通信。……あ、そうかもう受験なのか」

「受ける人も実施する学校も少ないですけどね」


 学級通信に目を滑らせると受験生だからインフルエンザは特に気を付けて、などと書いてあった。

 小百合が言う通り、あと一年で世界が滅ぶというのに試験を開催する学校も受験する生徒も少ない。去年は高校に入ってみたい人がいたおかげでもう少し受験シーズンらしい状態だったらしいが、今年は受験生らしい受験生がいない。そもそもいまだに学校に通っている生徒が珍しい。

 わざわざこんなプリントを仕上げるなんて先生はご苦労なんだか暇を持て余しているのかよくわからなくなって笑ってしまう。

 もしかすると例年忙しかったのに今年があんまり暇な反動で作ってしまったのかもしれない。


「よかったらリンゴ食べる? この間もらったんだけど一人じゃ食べきれないんだよね」


 歩がプリントを眺めている間、ぼんやりしていた小百合に声をかけた。

 いつもなら小百合も適当に本を読んだり学校の話を読んだりしているのだが、今日は様子が違っていた。よく見ると目元が赤っぽく、どことなく寝不足のようだった。

 ベッド脇の棚に乗せていたリンゴを見せると、小百合はこくりとうなずいた。


「包丁かナイフってありますか。剥きますよ」

「大丈夫、リハビリがてら僕がやるから」


 棚の中から小ぶりなナイフを取り出す。ウェットティッシュで手を拭いてからリンゴに刃を入れる。

 歩は果物の皮を剥くのが上手い。隣の病室に祖父くらいの年齢の男性がいるのだが、その人がよくおすそ分けをくれるのである。お見舞いに来る人がそろって差し入れてくれるらしく、ジジイの腹には入りきらん、よかったら食ってくれ、と持ってくる量は確かに多かった。

 歩の体力では刃物の扱いは危ないのでは、と言われていたが真治が交渉の末に使用許可を勝ち取ってくれた。ただし一度でも怪我をしたら再検討ということになっているので自然と集中する。今では果物の皮むきだけなら母より上手い自信がある。

 意外な特技を見せる歩を感心するように見ていた小百合の前に、小皿に盛ったリンゴにつまようじを刺してどうぞと置いた。小百合はどうも、と言ってリンゴを口にした。


「全部食べちゃってもいいよ。僕はこの後朝ごはん来るし」


 歩がプリントを眺めている間中、しゃりしゃりと耳に心地よい音が鳴っていた。

 すぐに読み終わり、ひとつくらいは食べようかと思って皿に視線をやると、リンゴは一切れも残っていなかった。

 思ったより減りが早かった。全部食べていいと言ったしかまわないが、ちょっと意外だった。小百合にはよく食べるイメージがなかった。


「もうひとつ食べる?」

「いえ、大丈夫です。全部食べてしまってすみません」

「そっか。朝ごはんとかちゃんと食べてる?」

「今日は食べるのを忘れてしまいました」

「ところで何かあった?」

「……………はい」


 それとなく聞いてみると、多少言いよどんだものの小百合は素直に頷いた。

 尋ねていいものか、歩は悩んだ。

 しかし普段世話になっている身としては、何かできることがあるなら力になりたい。解決法を提示したりアドバイスすることはできなくても、愚痴を聞くくらいならできる。


「訊いてもいい?」

「わたし、失恋したみたいなんですよね」


 歩はびっくりした。

 小百合の様子を見て嫌なこと、つらいことがあったのだろうと想像していた。

 しかしそれは誰かと喧嘩したとか大切なものをなくしてしまったとかそういう方向だと思っていた。特に失恋という可能性は無意識に頭の中から消していた。

 もしかすると小百合は自分のことを好きなんじゃないかな、と願望まじりの考えを持っていたからだ。歩には一か月程度の付き合いしかない同級生の見舞いに来てくれる理由がそれくらいしか思い浮かばなかった。

 短い付き合いしかないしまさかね、と当初は思っていたが、小百合が見舞いに来始めてから二年以上経つ。歩けるようになってどこかに行こうと誘ってみよう、くらいのことは考えていた。

 それがまさか失恋とは。予想外の衝撃を受けた。


「したみたいっていうのは」

「その、告白したのではなくて、恋人ができたという話を聞いたというか。それもあの野郎が手引きしたみたいというか」


 伝聞系だったことが気になって質問すると、小百合は歯切れ悪くぼそぼそ呟いた。

 いつも丁寧に話す小百合の口からあの野郎と乱暴な言葉が出てきたことも意外だった。


「そっか。それは……つらいね」


 歩はしみじみ言った。

 これまで小百合が自分を好きかもしれないという想像をして楽しかったのは、小百合に好意を抱いていたからだ。

 小百合が失恋したということは小百合には別に好きな相手がいたということであり、歩自身も失恋したような感覚を味わっていた。内臓を締め付けられて胃の中のものを吐き出してしまいたいような異物感を覚えたのは生まれて初めてだった。

 いや、でも松葉さんが失恋したってことはまだチャンスはあるから、と前向きな言葉を自分に言い聞かせる。むしろここからが大事だと思う。ここでうまく話し相手としての地位を築くことができればワンチャンあるはず、と下心をのぞかせないよう細心の注意を払いつつ会話を続ける。


「ところで松葉さんが好きだった人って、どんな人なの?」


 あえて過去形で話をする。終わった恋として手早く処理してほしいのである。


「やさしくて、楽しい人です。幼馴染で、よく一緒に遊んでいました。最近はよく一緒に出掛けてて、うちに遊びに来ることもありました」


 小百合はぽつぽつと語りだす。ひとつひとつ口に出して自らの気持ちを整理しているようだった。

 昔からの付き合いということはそれだけ思い出深いだろうなとか、家に遊びに来てたんだーとか、歩は口に出さないが結構なダメージを受けていた。


「……こう、恋していたっていう確信があったわけじゃないんです。でもわたしにとって、そばにいる楽しくてとどきどきする相手はあの人だけでしたし、恋人ができたと聞いて真っ先に思い浮かんだ言葉が失恋だったというだけで」


 好意を持っていれば即ち恋愛というわけではない。友愛や親愛などなど言葉に表せないほど多様な種類がある。

 小百合の気持ちが恋愛だったか、それは小百合自身にしか分からない。

 その人に恋人が出来たと聞いた時、小百合は不意打ちに頭を殴られたような衝撃を覚えた。前触れはあったが、展開が予想よりも早すぎた。

 未知の衝撃に、無意識で失恋という名前を付けていた。

 それが正しいのか間違っているのか。真っ先にそう思ったということはきっとそういうことなのかな、と思う。

 小百合が自分の気持ちを言語化していく傍ら、歩は小百合に思い人がいたと聞いた瞬間に近いダメージを受けていた。好意を持たれているどころか、一緒にいて楽しくないしどきどきもしなかったらしい。

 気づかれないよう歩は深く呼吸する。あの人だけだった、というのはどきどきする、という部分だけかもしれないし。歩と一緒にいる時に楽しいと思ってくれたことがないと明言されたわけじゃないし。少なくとも嫌っているならお見舞いなんて来ないだろうし、と自分に言い聞かせる。


「ところで、さっき言ってたあの野郎っていうのはいったい」


 これ以上畳みかけられたら心が折れるかもしれない。そう思った歩は話の方向を逸らしてみた。

 小百合はあからさまに嫌そうな顔をした。

 話題のチョイスをミスったか、と思ったが、聞かれたことが不快だったのではなく、あの野郎と呼称した相手のことがよほど嫌いらしい。


「……生物学的にはわたしの兄にあたる人物のことです」


 汚い雑巾を絞るような形相で小百合は言った。

 歩は必死に知恵を絞った。

 家族関係の話題はデリケート、ということは対人関係が少ない歩にも分かる。ここは突っ込んでもいいものだろうか。しかしこちらから話を振っておいてすぐに別な話題に移るのも興味ないくせに話を振ったと思われないだろうか。


「そうなんだ、お兄さんとは仲良くないの」


 一秒間の熟考の末、出した結論は会話の継続だった。

 あまり口にしたくない様子ではあったが、愚痴りたいかもしれないと思った。

 小百合は思い人が幼馴染と言っていた。つまり小百合の兄と思い人も幼馴染である可能性が高い。

 思い人が誰かと付き合うのに手を引いたということは、兄と思い人もそれなりに親しいのではないか。幼馴染の思い人が、小百合と兄の両方と仲が良いということは、松葉家の家族関係はそう悪くないのではないか、と予想した。


「……わたしが一方的に嫌ってるだけです。でもあんまり話したくないです」

「そっか。変なことを聞いてごめんね」


 歩は即座に撤退を決めた。

 口ぶりからすると、きょうだい仲が良くない理由は小百合の感情の問題が大きいのだろう。そして小百合自身、問題が自分にあると理解している様子だった。

 愚痴を言うことで自己嫌悪に陥ることもある。話したくないというなら聞きださない程度の分別は、歩にもあった。

 ふと、遠くからチャイムの音が聞こえた。


「あ、学校……すみません、そろそろ失礼します。片付けは……」

「いいよ、やっておくから。引き止めちゃってごめんね」

「いえ、わたしもいろいろ話してすっきりしました。ありがとうございます」

「こちらこそいつもありがとう。僕はいつでも暇してるから、いつでも来て」

「はい。……あの、それと、今の話は看護師の鈴片さんには」

「分かった。言わないよ」

「ありがとうございます。じゃあまた」

「うん、またね」


 歩は手を振って小百合の後姿を見送った。

 真治が病室を訪れるのはこの後すぐである。


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