第51話 ディックとサァラ③

 や、と約束の場所でディックが手を上げているのを見たので、サァラもまた、手を振った。小走りに近づくと、今朝仕事に出る時とはうって変わって、よそ行きの格好になっている。もっともディックのよそいきなのだから、たとえそれが穏やかな色合いのスーツでも、何処かくたくたくに着崩してはいるのだけど。


「どうしちゃったの? いきなり外で食事しようって」

「うん、ちょっとね」

「ちょっとねちょっとね、ってディック」


 そして彼女は自分自身のあちこちに目を走らす。


「そういう格好をする様な所に行くならちゃんとそう言ってくれないと困るのよ? んもう、それに私卿仕事帰りだから……」


 そうだな、と言いながら、ディックは彼女の手の中にあったデザイン帳や資料の本が入ったバッグを採る。


「ねえ、別に私怒ってる訳じゃないのよ?」

「うん判ってる。でも、どうしても、今日はそうしたかったから」

「……」


 彼女はいつもと違う相手の口調に戸惑う。毎日一緒に暮らしている相手なのに。

 いや、毎日一緒に暮らしている相手だからこそ、戸惑うのかもしれない。出会った時ではなく、出会ってしばらくしてから、相手の一つ一つの挙動にときめいた時の様に。


「……うん、そっちまではいいわよ」


 小さなバッグまで持とうとした彼に、サァラは首を横に振る。


「それより、何処で食事するの?」

「ん。ちょっと……」


 こっち、という様に、彼は空いた方の手を彼女に差し出した。



 店は待ち合わせの場所からはそう離れていなかった。時々二人で行く様な店と雰囲気はよく似ていたが、彼女がまだ入ったことの無い店だった。

 上が丸くなった扉をくぐると、少し高い、白いごつごつとした天井が彼女の視界に入った。入り口と同じ形をした、オレンジ色の枠取りをされた窓。壁にはやはりその色の灯りがぽつぽつ、と点る。

 決して空いてはいない店内を、ディックは迷わずに一つのテーブルへと進んで行く。そこには既に一人の女性が席についていた。彼が席を間違えている訳ではない。では知り合いなのだろうか。

 丸いテーブルには四つの椅子があったが、その一つに荷物を置き、ディックは彼女に座る様にうながした。二人が座るのを見計らったかの様にウェイターがオーダーを取りに来る。そしてゆっくりと一礼して下がったのを確認すると、ディックはサァラに向かって言った。


「紹介するよ。これ、俺のおふくろ」

「お…… かあさま?」


 唐突な言葉に、サァラは思わず口を押さえる。


「アナ・Eです。よろしくサァラさん」

「こ、こちらこそ……」


 にっこりと笑うアナに彼女は思わず全身から汗が吹き出るのを感じる。


「実はこのひと、今度近くに…… と言ってもさ、隣りの隣りのコロニーなんだけど、引っ越して来るって言うんで、……で、まあ、どうせなら、俺もサァラに一度会わせたいなあ、と」

「逆でしょう? あなたの可愛い奥さんを私に見せたいのじゃなくて?」


 くすくす、とアナは笑う。ディックは馬鹿やろ、と「母親」を軽くこづく。


「……えー、……だからさ、ついでに…… って言うと何だけど」

「何?」


 もう何言われても驚かないぞ、とサァラも思う。


「籍入れない?」

「は?」


 さすがに彼女も、それには驚いた。今の今まで、そんなこと決して口にされたことはなかったのだ。一緒に住んで、楽しくて、それだけで充分だとは思っていたけど。


「……だけど、それは……」

「だから、このひとも連れてきたんだってば。…………仕事の方でも、お前、ちゃんとこっちの籍あった方が、楽になるし」

「それはそうだけど」


 あれから彼女は、何とか、プレイ・パァクの関係の仕事の端にありつくことができた。彼女の熱心さは、周囲のスタッフの中でも評判が良かったし、嫌味のないデザインのセンスは、強烈とかインパクトという言葉とは無縁だったが、遊園地の中で、誰もが使う場所には欠かせない部分だった。

 この仕事の場所は自分に合っている、とサァラは満足していた。だが、その仕事は永遠ではないこともまた、彼女はよく知っていた。いつか、この集団は解散するだろう。そして今度は、自分でも大きな仕事を探すのかもしれない。

 そんな時に、ちゃんとした戸籍があるのと無いのとでは、信用に格段の差がある。


「でも、何で今なの?」


 何でかな、とディックは曖昧に笑った。


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