いれずみ

武州人也

刺青

 施術の工程が、全て終わった。

 彫り物師の清治せいじは、脂汗を浮かべ、如何にも疲労困憊といった風に顔を青ざめさせている。その目の前には、背中に大きな百足の刺青の入った色の白い少年が、湯に濡れた背を清治に向けて座っている。




 大江戸にその人ありと称された彫り物師である清治。彼の胸中には、密かな夢があった。

 ――いつか、いつか絶世の美少年が私の目の前に現れて、その肌に己の魂を彫り込ませてはくれぬだろうか。

 そのような過ぎた願望を日々抱きながら、痛がる凡俗共の肌に絵を彫り込む。御目に適う客でないからとって手を抜くような清治ではないが、しかしやはり、日々の施術の中で彼の美少年への渇望は膨れ上がるばかり。空しい憧れの心を胸中に押し込めつつ、清治は饒足じょうそくとは程遠い日々を過ごしていたのである。

 さて、そのような願望を抱く清治の前に理想通りの少年が現れたのは、ある夏の出来事。通りを歩いていた清治の目に、運命の人が留まったのである。その彼は、書生のような姿をして、書肆の前に立っていた。

 その少年は、咲いたばかりの初花の如き艶やかさと、書生らしい理知の眼差しを兼ね備えていた。年の頃は、十五の前後と察せられる。盛夏暑熱の下にあってもその肌が白いのは、太陽でさえも彼に見とれて肌を焼き焦がすのを躊躇っているのだとさえ思える。女子おなごの美しさが月を恥じらわせるのであれば、男子おのこのそれはきっと太陽を気後れさせるはずなのだ。

 ——ああ、願わくば、彼の肌を得て、己の精魂をそこに彫り込みたいものだ。

 その照灼しょうしゃくたる令貌は、立ちどころに清治の心を捕縛した。清治は暑さも忘れてじっと少年を眺めていた。躍り立たんばかりの胸を押さえながら、この稀代の彫り物師は、ただただ少年に淫佚いんいつな欲を帯びた視線を送っていた。だが、少年は、清治の方に一瞥さえくれず、黙ってその場を立ち去ってしまったのである。清治は一声すらかけられなかった。

 あれこそが、永年求めてやまなかった麗しい少年の柔肌であろうと思われた。また、彼とまみえたい。いや、それだけでは不十分だ。彼が自分の所に彫り物を頼みに来てはくれぬか……そう思って、清治は毎日違う酒屋で買い求めた酒を神棚に備えて神頼みを始めたのである。

 

 そうして百日後、神はとうとう清治に憐れみを垂れたのであった。

 その少年は、おずおずと暖簾をくぐり、清治の元をおとなってきたのである。

「私は以前、貴方様にお会いしたような気がするのです」

 少年の声は、ビードロのように透明感がありながら、何処か妖しく危ういものを感じさせた。その昔、墨翟ぼくてきなる賢者が衛の国都の朝歌ちょうかに至った時、その名を嫌って引き返したという逸話がある。今の清治であれば、その時の墨翟の抱いた危惧がよく分かる。音や歌といったものは、時として人を容易に壊してしまう不気味な力を持つことがあるのだ。

「ああ、以前、書肆で見かけたことがある」

 言いながら、清治は改めて少年の顔を見つめている。切れ長の目尻と長い睫毛は冷涼な美をたたえており、目が合った清治は一瞬、不思議とたじろいでしまった。きっと、あまりに理想通りであったせいで気圧されてしまったのだ。

「これを、私の背に頼みたいのです。貴方様にしか頼めません」

 そう言って、少年は一枚の絵を差し出してきた。そこには大きな鳶頭百足とびずむかでが胴をうねらせている様が描かれていた。美麗な少年が醜悪な毒虫の絵を持っている様は、如何にも不釣り合いである。

「うむ、分かった。頼まれよう」

 平静を装いながら返答する清治であったが、内心では歓喜と不安で乱れていた。

 ——私がこのような少年の肌に針を入れるなど、許されるのだろうか。

 いざ理想の美少年の肌が手に入ると、清治の心に怯懦きょうだが巣食った。こんなことでは大仕事を成し遂げられぬ、と、清治は密かに自分を奮い立たせた。動揺を悟られてはならぬ。あくまで平静を貫くべきだ。そうして、清治は少年を畳の上に俯せに寝かせた。

 少年の肌は、絹のような手触りであった。いずれ彼に抱かれるであろう女が、妬ましくて仕方がない。むずかゆい思いに苛まれながらも、一方でこの肌に針を入れて己の魂を注ぎ入れることは、閨房での行いよりも一層艶っぽく感じられた。痛みに耐えかねた少年が上げるうめき声も、清治を昂らせるに十分である。

 段々と、少年の美しい背に、巨大な毒の怪物が姿を現し始めた。多脚長躯の奇虫は、ともすればそのまま清治の腕に噛みついて、その持てる毒を打ち込まんばかりである。清治は肩を強張らせながら、施術に集中した。




 施術が終わった後、少年は痛みによって、そして清治は疲労によって、暫く身動きが取れないでいた。

 ややあって、少年の方が、背を向けたまま口を開いた。

「あの百足は、私の兄の命を奪いました」

 恐ろしい告白であった。極稀であるが、百足によって命を落とすということがあるのは清治も知っている。だが、少年の声色からは、悲哀の色など微塵も感じられなかった。

「そうか。お悔み申し上げる」

 今の清治には、そのような当たり障りのない辞句を返すので精一杯であった。

は、人の命を奪えるでしょうか」

 その時、振り向いた少年と清治の目が合った。少年の目は、呉の専諸せんしょが魚の腹に隠したという匕首ひしゅよりも冷たく鋭いものに見えた。ともすれば、一瞥をくれただけで人を刺殺できるのではないかとさえ思わせる。

 背中に踊る大百足が、彼に力を与えている。清治は、彼の内に眠る悪性を孵化させたのだ。これから先、彼はその神通力が尽きるまで、暴君として君臨するのであろう。

 ――私もきっと、彼のために死ぬのだ。

 百足の毒は、もう清治の体に浸潤しきっていた。

 

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いれずみ 武州人也 @hagachi-hm

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