第6話 蛇群来たりて

 警察署の前には黒山の人だかりが出来ていた。

 沈む間際の残光に赤く照らされる人々の顔は、一様にだらしなく口が半開きになっていた。そこから漏れるのは、呻きであり、唸りであり、もはや言葉という言葉ではない。人はあまりの衝撃を目の当たりにすると、語る口を失ってしまうのである。

 彼等の殆どが制服を着た警察官であり、私服の者達も恐らく同じに違いない。一般人に比べれば多少なりとも危険な状況に慣れているはずだが、そんな彼等を持ってしても、その眼前に広がる光景は度肝を抜かれるものだった。

 警察署の入口の前に、赤黒い絨毯が敷かれていた。

 ――いや、絨毯などではない。

 赤黒いそれは、波の如くうねり、絶えず蠢動し、奇怪な鳴き声をあげている。

 それは、蛇だった。

 何百、何千という蛇が、群れをなして警察署の前に集まっているのだった。

 大挙して押し寄せた蛇の前に、警察官達は為す術も無く逃げ出すしかなかった。悲鳴をあげ、怒号をあげ、我先にと外へと逃げ出しホッと胸を撫で下ろして、自分達の職場を振り返り、ようやく状況を認識した。

 蛇に、警察署が占拠されてしまった、と。

 いかに警察といえども、このような状況には対処のしようがない。遠巻きに見つめる以外に出来ることなどなく、助けを呼ぼうにも、何処に連絡をすればいいのかさえ見当もつかなかった。身内の警察ではないだろうし、消防署か、或いは自衛隊の方がいいかもしれないと、悩むばかりで結論は何時まで経っても出てこない。

 彼等に出来るのは、無力に眺めることだけだった。この身の毛もよだつ悍ましい有様を。

 遠い山の端に夕陽が融けて消えようとした、その時、激しいクラクションを鳴らしながら一台の自動車が駐車場に突っ込んで来た。

 急ブレーキによる摩擦の白煙をあげながら停車した車から、二つの影が躍り出る。

 想像を絶する光景に、羽生は愕然として足を止めた。あまりのことに思考が停止してしまったらしい。他の職員達が一斉に彼に目を向けているが、それにも気がついていなかった。

 そんな彼の背中を、僧衣姿の肆鶴が舌打ちついでに張り飛ばした。いきなりの大きな衝撃と痛みに、羽生は情けない悲鳴をあげる。だが、幸いにそれで彼は我に返った。肆鶴に置いて行かれないよう、必死にその後に続く。

 肆鶴は蛇の群れに向かって真っ直ぐに歩んでいく。彼女の前に立ちはだかる蛇達は、彼女の目的を察知すると、警戒も露わに尻尾を鳴らし始めた。数千に及ぶ蛇が作り出すその音は、耳を聾する程の轟音となり衝撃となり、付近のガラス窓に悉くヒビが走った。

 しかし、それでも肆鶴は歩みを止めない。顔を顰めながらも、そこに宿る確固たる意思はいささかも衰えなかった。

 肆鶴は懐からメダルのようなものを取り出すと、それを蛇達に向かって無造作に掲げた。

 次の瞬間、蛇達に異変が起こった。身を固め合い肉の絨毯となっていた蛇達が、一斉に互いの身を離し、肆鶴を避けるように後退したのだ。まるでモーセが紅海を渡った奇跡さながらに、肆鶴は蛇の海を裂きながら進んでいく。

 肆鶴の手にあるのは、灰緑色の丸い石だった。表面には五芒星と炎のような印が刻まれている。彼女が「お守りのようなもの」と羽生に説明したこの石の効果は覿面であり、明らかに蛇達はこの石を恐れていた。

 彼女達の通った後は、すぐに蛇の絨毯が再び道を塞いでしまい、警察署は陸の孤島に戻ってしまう。石の効果は一時的なものに過ぎないらしく、その範囲も限れられているようだった。

 警察署内に入ると、羽生は肆鶴の横に並んだ。ここからは彼の案内が必要になる。そう複雑な構造ではないが、今は一時でも時間が惜しいのだ。回り道をしている余裕は無い。

 受付のカウンター、廊下の床、観葉植物の陰、いたるところに蛇が蜷局を巻き、尾を鳴らして威嚇してくるが、肆鶴達には一向に近づいてこなかった。少なくとも、蛇による直接の害を心配する必要はないらしい。

 中央の階段を登り、肆鶴達は二階の廊下へと辿り着いた。彼女達が目指すのは、『でれみすさいもん』が保管されている部屋である。そこに、この怪事を起こしている元凶がいるはずだった。犯人は、警察に横取りされた物を取り返しに来ているのだから。

 目的の場所は、廊下の奥に位置していた。心なしか数を減らした蛇の中を進み、三度角を曲がったその先で、遂に肆鶴たちは彼女を見つけた。

 固く閉ざされたドアの前に、金髪の少女が立っていた。群青色の肩出しワンピースは事件の夜に彼女が着ていたものである。長い睫毛の下で、黒い瞳が闖入者である肆鶴達を無感情に見つめていた。

 その横には、鍵の束を持った大瀧が案山子のように突っ立っている。憔悴しきった様子で、両目は虚ろだった。

「大瀧さん、大丈夫ですか?」

 思わず羽生が叫ぶが、彼の声どころか姿さえも解らないのか、大瀧は少しの反応も見せない。余程のショックを受けたのか、茫然自失という体である。

 蛍光灯の冷たい光を浴びる黄金の髪の少女――未優の小さい手には、一冊の本が握られていた。降り積もった年月を感じさせる和綴じの本は、その古ぼけた外見とは裏腹に不穏な気配を漂わせている。

 事件の現場に残されていた縄月家の秘伝書『でれみすさいもん』である。既に、彼女は保管室からこれを持ち出していたのだ。操り人形のようになった大瀧に命令させたのだろう。見咎める者などいるはずもない。他の警察官は、全員外に追い出されてしまったのだから。

「久しぶりだね、未優」

 それまで沈黙を守っていた肆鶴が、静かに語りかけた。悪夢のような光景を前にしても、まるで動揺している様子がない。硬直している羽生とは対照的に、その佇まいは泰然自若としている。

 彼女が何者かを理解し、未優は僅かに眉を顰めた。自分を認識したことを確認して、肆鶴はさも大袈裟に溜息を吐いた。

「この様はどういうことだね? 君も呪術の家の人間なら、これがどれほどの失態か解るだろう?」

 呪術や魔術は、普通ならば衆人の目撃するような状況で行使されることはない。それらは神秘であり、また隠秘な力であるが故に、決して世間の表には出ないようにするものなのだ。それは、隠秘的な技術を生業とする者達の暗黙の了解であり、これをみだりに破る者には制裁が加えられることもある。

 表の世界の国家権力機関たる警察署を呪術によって占拠するなど前代未聞だった。あくまでもマイノリティであることを信条とする彼等にとっては自殺行為に等しい。

「これを見たら、お前の父親もさぞ嘆くことだろうよ」

 皮肉げな笑みを浮かべて、肆鶴は揶揄するように言った。

 彼女の口から出た「父親」という言葉に、未優の顔が一瞬、くしゃりと歪んだ。およそ十歳の子供とは思えない氷のように冷え切っていた白い貌に、年相応の少女の表情が浮かびあがる。胸の中で渦巻く感情を表わすように、可憐な眉毛が細かく震えていた。

「……わたしには、これが必要なの」

 未優は、細い両手で本をひしと胸に抱き締めた。誰にも渡すまいとするかのように。声には、悲しみが、怒りが、悔しさが滲んでいた。

 この反応に、肆鶴は微かに眉を上げた。だが、当初の基本方針は変わらない。右手を前に伸ばし、有無を言わせぬ口調で、

「兎も角、それを返せ。そして、この蛇共を退かせるんだ」

 しかし、未優は首を縦に振らない。逆にふるふると横に振り、

「いや。いや、いや、これはだめ」

 強情に拒絶する未優の瞳には、肆鶴に対する怒りすら浮かんでいた。肆鶴は忌々しげに舌打ちをすると、大喝した。

「お前は縄月の家を潰す気か?」

 いかに子供とはいえ、肆鶴の言葉が意味することは解る。それでも、彼女は退こうとはしなかった。むしろ、邪魔をする肆鶴への敵意をさらに燃え盛らせる。

「……はんのこらよ、いざやいくさときたれ」

 肆鶴を睨め上げながら、未優はぼそぼそと何事かを呟いた。歌うように、呪うように。彼女の口から紡がれた呪は、空気を震わし、神秘を起動し、この世界に縄月の呪術を顕現させる。

 何か得体の知れない圧迫感に、羽生は後ろを振り返った。その目が限界まで見開かれたのは、ありえない光景を目撃したからである。

 こちらに向かって、鉄砲水が飛んでくる。否、水ではない。蛇だ。大量の蛇が、激流となってこちらに押し寄せてくるのだ。万に達する蛇達が這いずる音と震動に、鉄筋コンクリートの警察署が地震に襲われているかのように揺れている。

 あんなものの直撃を受ければ、脆い人間の身体などひとたまりも無い。

 だが、肆鶴はいささかも慌てなかった。ただ、身を翻し、真っ向からそれに相対する。怒濤の勢いで殺到する蛇群に向かって、毅然と守護石を見せつけた。

 所詮、たった一つの石ころ――だが、それが奇跡を見せる。

 肆鶴達と激突するかに見えた刹那、守護石が物理的な障壁になったかの如く、蛇群は弾き飛ばされた。それでも勢いは衰えず、行き場を失った蛇群は窓ガラスを叩き割りながら、外へ外へと溢れ出していく。一方、肆鶴には傷一つなく、五体満足で変わらずそこに立っていた。

 自身の術が破れたことを知り、未優は歯噛みした。頬は朱に染まり、血が出る程に唇を噛んでいる。

 もはや優劣は明白だった。いかなる呪術も、肆鶴までは届かない。

 それでも、未優は諦めようとはしなかった。ギュッと本を掻き抱き、離す素振りさえ見せない。何があっても、それだけは死守するつもりらしい。年齢を考えれば、この執念は驚くべきものだった。何がそこまで彼女を駆り立てるのか。

「終わりだよ、未優――」

 未優の方へと足を踏み出そうとした肆鶴が、いきなりグルリと後ろを振り返った。隣にいた羽生もゾっとする何かを感じ、訳も分からず背後に目をやる。床と言わず天井と言わず、舐めるように見回してその気配の在処を探した。

 未優もそれに気付いたらしく、その表情が一変していた。肆鶴に向けたものとは比べものにならない程の憎悪がそこに浮かんでいる。

 ずる、ずる、ずる、と音がした。

 何かの這いずる音。巨大な何かが、床を這い進む音。

 ずる、ずる、ずる、とそれは近づいて来る。

 床にいる蛇を撥ね除け、押し退け、廊下をそれはやって来る。

 辺りには生臭い匂いが漂っていた。胸がむかつくような悪臭が。

 そして、肆鶴が、羽生が、未優が、六つの瞳が見つめる中、ソレは姿を現した。


                                  つづく

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