第5話 夢幻洞
ボオオオオオン、ボオオオオオン、ボオオオオオン……。
時計が鳴っていた。
のっぽの古式な柱時計が振り子を揺らしながら、午後六時を知らせている。
時計のかけられた壁は墨のように黒く、床もまた同じく墨色である。壁の大部分が本棚になっており、およそ何語とも想像のつかない言語で記された本がぎっしりと並べられていた。規則性無く配置されたガラスケースには、人の頭蓋骨で造られた楽器に始まり、罪人の皮で装丁された聖書、悪魔の右手の木乃伊、不揃いな切り子面を見せる漆黒の宝石、名前も知られていない島の神の仮面……怪奇という言葉では言い表せない、異様なコレクションが飾られている。
外はまだ日も沈んでいないというのに、店内には一切の陽光が入って来ない。天井の淡い電球の光によってのみ照らされた店内は酷く薄暗かった。
その納骨堂じみた陰気さに沈んだ店に、まるで場違いな軽やかな笑い声が響いていた。
「アハハハハ、それはまた災難だったね」
木製の丸テーブルに肩肘をついて笑っているのは、九段肆鶴だった。屋内でも金縁のゴーグルをかけ、今日は黒の法衣に黄袈裟という格好をしている。先日のスーツとは随分と雰囲気が違うが、むしろこちらの方が肆鶴の纏う雰囲気にはしっくりきていた。
彼女と対面する形で、仏頂面の羽生が安楽椅子に座っていた。
肆鶴が店主を務める〈夢幻洞〉は、市内の繁華街の一角にあった。ただし、四方を商業ビルの背に囲まれるという世にも奇妙な立地をしているため、外界の喧噪からは不思議と隔てられている。もっとも、その隠れ家的性質が災いして、訪問者の羽生はいらぬ苦労をする羽目になったのだが。
「少しは呪術というものが理解出来たんじゃないか?」
意地の悪い笑みを浮かべて、肆鶴は言った。
児童相談所の出来事を、羽生は全て肆鶴に話していた。本署の人間には誤魔化して伝えたが、彼女には何も隠す必要はない。むしろこの手の専門家である彼女なら、何かしらの助言をくれるのではないか、という期待もあった。
「それはいいから、本の調査をしてくださいよ」
人を馬鹿にしたような肆鶴の態度に憤慨しながら、羽生はテーブルの上に広げられたコピー用紙の束を指差した。
警察署に証拠品として保管されている『でれみすさいもん』をカラーコピーしたものである。本来はPDFファイルを渡すつもりだったのだが、彼女は電子情報を閲覧出来る媒体を持っていなかったので、わざわざ羽生が資料を作って来たのだ。
催促された肆鶴は軽く肩を竦め、どこかうっとりとした表情を浮かべて、紙の束の表面に細く白い指を這わせた。
「ちゃんと読んでいるさ。もう見当もついている」
一応は真面目にやるつもりはあるらしく、作業に集中するため彼女は軽口を止めた。
古文書を読み解く肆鶴を眺めながら、羽生は彼女の言葉を思い返していた。
迷信に過ぎないと思っていた呪術が確かに存在するものだということを、羽生はもう否定出来なくなっていた。児童相談所に現われた蛇の群れ。それらと会話する何かに憑かれたような未優。頭の良い学者ならば、あれを論理立てて科学的に説明出来るのかもしれない。だが、どんなに理屈のついた言葉で説明されても、羽生はそれを信じられない気がした。
羽生は、己の肉体が、細胞が経験したあの出来事が、紛れもない超常の現象だと理解していた。
それは同じ現場にいた大瀧も同じはずなのだが、彼はまだ葛藤を克服出来ずにいた。羽生より人生経験も刑事としての経験も豊富な故に、これまで生きてきた世界を否定するような出来事に迎合するのが難しいのである。彼の受けたショックは羽生の比ではないだろう。
目に見えて憔悴している大瀧にかける言葉が思いつかず、自然と彼との会話は減っていた。今日ここに行くことは告げてあるが、果たして聞こえていたかどうか。
大瀧のことで物思いに耽っていた羽生だが、肆鶴が書類をテーブルに叩き付けた音で、ハッと我に返った。目を向けると、肆鶴が嬉しげにニンマリと笑っていた。
「思った通りだ。これは『妖蛆の秘密』に間違いない。しかも削除版ではなく、初版本を翻訳したものだ」
言葉の端々から彼女の興奮が伝わってくるが、羽生には何のことかさっぱり解らず、目を白黒させるのが精一杯だ。
無理もない話である。神秘家なら兎も角、一般人はその名前すら聞いたことがないだろう。だが、価値を知る人間にとっては、まさしく大枚を叩いてでも手に入れたい貴重な書物なのだ。
『妖蛆の秘密』とは、ルートウィヒ・プリンという老錬金術師の書いた魔術書である。一五四一年にブリュッセルの異端審問所に逮捕された彼が、獄中にて執筆したのがラテン語原本と呼ばれるものだ。プリンの死後、ドイツのケルンにて少部数が発行されたが、当時の教会によって即座に発禁処分になり、焚書の憂き目に遭ったとされる。書かれているのは、異界の蛇神や古代エジプトの消された神々、プリンが使役したとされる使い魔の召喚方法などである。
「『でれみすさいもん』という妙な名前は、原題の『DeVerimisMysteriis《デ・ウェルミス・ミステリィス》』の音を拾ってつけた訳だ。縄月家が蛇神使いなのも納得だよ。これはそういう魔術書なのだから」
ポカンとしている羽生を尻目に、肆鶴は得々と語り始めた。
肆鶴が縄月宗一から聞いた伝承によれば、縄月家の祖である異人のグロリアを日本へ連れてきたのは、
この森宗意軒が南蛮から帰日する際に、様々な物品を秘密裏に持ち帰ったらしい。異人グロリアもその一つである。元から呪術が使えたことを考えると、彼女は南蛮の魔女だったのかもしれない。何故、彼女が遙々東洋の果てまで森宗意軒に付き従って来たのかは謎だが、折しも当時の欧州では魔女狩りの嵐が吹き荒れていた。それから逃げる為だったとすれば、あり得ない話でもない。
肆鶴の推測によれば、森宗意軒は南蛮滞在中に偶然にか恣意的にか、魔術書『妖蛆の秘密』を手に入れた。その内容に興味を持った彼は、それを日本まで持って帰ったのだ。恐らく森宗意軒とグロリアの共同作業でラテン語を日本語に訳し、『でれみすさいもん』は書かれた。
その後、『でれみすさいもん』――つまり日本語に翻訳された『妖蛆の秘密』は、連綿と縄月家に秘伝書として伝わってきたのである。
「羽生君、縄月宗一の死に様はどんなものだった?」
話に聞き入っていた羽生に、肆鶴は唐突に尋ねた。
虚を突かれた羽生は、つい反射的に答えようとして、寸前で口を閉ざした。報道機関にも詳しく流していない情報なので、部外者と言っていい彼女においそれと教える訳にはいかない。
だが、羽生の反応に肆鶴は確信を得た様子で、更に踏み込む。
「恐らく、血を抜き取られていたんじゃないか?」
肆鶴の口から出たこの言葉に、羽生はギョッとして目を見開いた。彼の脳裏には、あの部屋で見た異様な死体の姿がアリアリと蘇ってきた。折り曲げられ、喉を裂かれ、真っ白になるまで血を抜かれた死体。事件の捜査が進まないのは、全てその現実離れした異様な死体が原因なのである。
警察の人間しか知らないはずのことを、肆鶴は言い当てた。
羽生の驚きを何よりの返答と取った肆鶴は、得心がいったように頷いた。
「やはりか。では間違いない。犯人が使った凶器は、これだよ」
肆鶴は紙束を羽生の鼻先へと突きつけた。鼻白んだ羽生は、動揺しながらも彼女の顔を見つめ返す。その真意を問うように。
肆鶴は紙束を捲り、ある箇所を指でなぞりながら、
「ここ、〈ことつほしよりきたりてわらふ、げだうのへびはそのみうつろに〉とある。これは『妖蛆の秘密』に書かれているプリンの召喚した使い魔のことだ。こいつは獲物の血を吸う怪物で、縄月宗一を殺したのは、この〈げだうのへび〉さ」
被害者を殺したのは召喚された魔物――以前なら一笑に付したであろう解答を、羽生は否定出来なかった。魔術、妖術、呪術……名前など何でもいい。世界の裏側にある理の力を目の当たりにした彼は、それを否定するだけの材料を持っていなかった。
ただ、仮にあの死体を作ったのがその魔物だとして、誰がそうさせたかという謎は残る。凶器は判明したが、まだ犯人も、その犯行動機も明らかになっていない。
「……じゃあ、誰が縄月を殺したんです?」
羽生は呻くように呟くと、テーブルに拳を叩きつけた。俯く羽生を見下ろしながら、肆鶴はフンと鼻を鳴らし、
「さて、呪術師という職業はそれなりに恨みを買うからな。もっとも、縄月宗一は腕利きだ。そういった相手に呪術で挑むというのは余程の自信がないと出来ない」
呪術を操る者は、当然その対抗策にも精通している。下手に呪いをかければ、呪詛返しで逆に殺される羽目になるのだ。縄月宗一を知る者なら、そんな無謀なことをするとは思えないというのが肆鶴の考えである。
「でも、その魔物とやらを使ったってことは、犯人も呪術師なんでしょう?」
開き直ったのか、もう羽生は平然と呪術が在るものとして話している。これ以上自分を混乱させない為に割り切ったのかもしれないが、賢明な判断と言えた。肆鶴はそれを歓迎しているらしく、楽しげに口の端を釣り上げ、
「勿論、そうだろう。素人でも召喚出来るかも知れないが、まず満足に操れない。自分が殺されるのがオチだ。逆に言えば、実力のある呪術師なら恐らく苦労はあまりしない」
つまり、縄月の死が、〈げだうのへび〉の召喚事故である可能性は低いということである。自殺という線も外していい。だとしたら、やはり犯人がいるのだ。
「縄月は何かから逃げていた節があります」
半年前から、縄月は頻繁に転居を繰り返していた。半年前に、彼の身に何かが起こったのだ。契機となる、何かが。
「あいつからは相談を受けていた。妻と娘の様子がおかしいと……それが半年前」
顎に手をやり、肆鶴はその時の彼の様子を思い出そうとした。話をした時の彼の顔つき、態度、言動、仕草、印象に残っているものを、おぼろな記憶の中から探し出す。
「もしかしたら、身内かもしれないな」
ぽつりと肆鶴が呟いた。この一言に、羽生は大袈裟に頭を振る。
「行方不明の縄月薫か、未優ちゃんがやったと? 何の為に?」
「『でれみすさいもん』だ。それ以外に考えられない」
紙の束に視線を落として、肆鶴は断言した。半年前、『根玄庵』の一席で、縄月宗一はこう言っていた。
――「あいつがアレを狙っている」、と。
確かに、事件の現場には、『でれみすさいもん』が残されていた。奪われるのを防ぐ為、彼が守っていたように見えなくもない。少なくとも、死の寸前まで彼が手放そうとしなかったのは確かだ。
だが、それでも羽生には信じられなかった。いくら異常な兆候が見えようと、十歳の少女にそんなことが出来るとはとても思えない。
「あの子が父親を殺したというんですか?」
羽生の声には明らかな怒気が込められていた。テーブルの上で握り締める拳にも力が入っている。彼の脳裏に蘇るのは、事件の夜、パトカーの中で震えていた彼女の姿であり、見開かれた瞳だった。あれは断じて殺人者の姿ではない。
しかし、肆鶴は気にする風もなく、むしろ嘲るように、
「君は呪術師というものを解っていない。年齢などさして関係ないさ。そもそも、アレが本当に縄月未優かどうかも疑わしいんだ」
「……それは、どういう意味です?」
あまりに唐突な、そして不可解な言葉に、羽生も怒りを忘れて間の抜けた顔を見せた。肆鶴は口を曲げて、小さく溜息を吐くと、
「いや、これは言い方が悪かった。私が言いたいのは、あの子が、先祖であるグロリアの生まれ変わりではないか、ということだ」
肆鶴の口振りは大真面目であり、冗談を言っているようには見えない。だが、流石にこればかりは認められないらしく、羽生は呆れた様子で首を振った。
「まさか本気で言ってるんじゃないでしょうね?」
自身の正気を疑われ、肆鶴は憮然として眉間に皺を寄せた。
「本気に決まってるだろう。魔術師や呪術師といった類いはそういった馬鹿げたことをやってのけるんだ。子孫の身体に転生した連中の記録もちゃんと残っている」
九段肆鶴という人間の言うことを何処まで信じていいのか、羽生には判断がつかなかった。自分の知らない神秘的な知識に関しては、大学教授の言うとおり凄いものがあるのだろう。ただ、問題なのはそれが真実なのか虚構なのか羽生自身は確かめる術を持たないということだった。知識がない以上は、信じるしかない。彼女の語る事物の真否ではなく、九段肆鶴という人間そのものを。
「あの子の見た目を隔世遺伝の一言で説明するのは軽率だ。君は話していて気付かなかったか? あの子の中にもう一つの人格があるような気はしなかったか?」
そう言われると、羽生には思い当たる節があった。児童相談所での事情聴取の際、未優は明らかな異変を見せた。カウンセラーは、彼女が解離性同一性障害の疑いがあるとの診断を下している。それは医学的な解釈といっていい。では、魔術的な解釈ならば、どうなるというのだろうか。
「あくまで推測に過ぎないがね。もっとも、怪しいと言えば嫁の薫も大概さ」
肆鶴の語るところによれば、縄月薫もまた呪術師なのだという。呪術師の家系は、呪術師同士で結婚するのが通例であり、彼女の実家も縄月家と同業だった。そうする理由は大きく二つある。一つは、単純に他家がそういった家系を忌避するというもの。これは憑き物筋などに多く見られ、ある種の正当な理由でさえあった。もう一つは、他家の血や技術体系を取り込み、呪術の力を強めるというものだ。より格式の高い家は、ほぼ後者の理由によって婚姻が決まるらしい。
しかし、なかには他家に嫁ぎ、逆にその呪術体系を実家に取り込もうとする者もいるという。
どちらかと言えば、縄月薫はこちらの性質の人間に思えた、とは肆鶴の弁である。
縄月薫と縄月未優。
被害者の妻と娘。
他家の呪術師と先祖の転生者。
どちらが犯人にしろ、その目的ははっきりとしている。
彼女達が縄月宗一を殺してまで欲しかった物。
縄月家秘伝書『でれみすさいもん』。
「だから、まだ事件は終わってはいないんだ」
暗いゴーグル越しに羽生を見つめながら、肆鶴は静かに言った。
「そりゃ、まだ犯人が誰かも決まってないなら……」
訝しげに言い返そうとする羽生を遮り、肆鶴は彼のネクタイを掴んでグイと引き寄せた。息のかかる程の距離に顔を近づけ、強い口調で言い放つ。
「寝惚けるな。彼女達は、まだ『でれみすさいもん』を手に入れていない」
縄月家の秘伝書『でれみすさいもん』は、事件現場から回収された後は、警察署の方で証拠品として厳重に保管されている。
警察の許可がなければ、身内である未優や、行方不明の薫でも指一本触れることは出来ない。
しかし、それで彼女達が納得するだろうか?
警察を気にしたりするだろうか?
諦めるだろうか?
普通ならばそうするしかない。彼女達には国家権力たる警察に反抗する力などないからだ。
だが、彼女達は呪術師だ。表の理でなく、裏の理に生きる者である。
事実、児童相談所の蛇の大群に対して、刑事である羽生と大瀧は何も出来なかった。あの状況では、たとえ機動隊がいたとしても、為す術がなかったのではないだろうか。
「……もし、彼女達がその気になったら」
今更になって、羽生はその危険性に思い至った。慌てて懐から携帯電話を取り出そうとしたが、その瞬間、けたたましい着信音が鳴り出した。画面を見ると、警察署にいるはずの大瀧の名前が表示されている。
厭な予感に顔を強ばらせ、羽生は電話に出た。
「もしもし、羽生です。大瀧さん、どうしました?」
そう呼びかけるものの、大瀧からの返事はなかった。否、確かに電話口で何かを言っているのだが、雑音が酷くて聞き取れないのだ。背後で悲鳴とも怒号ともつかない騒音がしていて、大瀧の声が掻き消されてしまっている。ただ、彼には珍しい焦燥感に駆られた気配だけが、ヒシヒシと羽生に伝わってきた。
まともな返答も聞けないまま、大瀧からの連絡は切れた。
携帯電話を持つ羽生の手は震え、心臓が早鐘を打っていた。
大瀧との通話で、唯一理解出来た単語があった。
彼は言っていた。
「蛇が、蛇が」――と。
つづく
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