第36話

 幸子は再びベランダのほうを向き、目の前の棟の中心にある部屋を見る。

 そこの灯りはとっくに消えていた。

 母は朝早くに起きて、ビルの清掃のバイトに出かけていく。そのため就寝がすこぶる早い。

「あんたじゃなくて、私は父さんと居たかったよ。自分と似た父さんに」

 でも、もういい。そんなことも、もう考えたくはなかった。

「もう、どうでもいいけどね」

 幸子はベランダを囲っているコンクリに足をかける。太一の部屋は最上階の十四階にある。ここから飛んで、助かることはあるまい。

 きっと大丈夫。死ねる。

 幸子は足下のコンクリを蹴って、強く飛び出した。

 瞬間、恐怖に包まれる。それは久々に幸子が「私」を取り戻した瞬間だった。

 幸子は笑いながら、夜の闇に落ちていく。

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東京天使 梅春 @yokogaki

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