母親の境界

逢雲千生

母親の境界


 目を開けると、何もなかった。


 いや、正確には、何も見えなかった。


 自分の手を見ているはずなのに、どれだけ顔に近づけてみても見えないし、目に当たるほど手のひらを近づけても、まったく何も見えない。


(ここは、どこなんだろう……)


 辺りを見渡すように首を動かしても、上を見ても下を見ても、左右を見ても後ろを見ても、黒いとしか言えない状況だったのだ。


 不思議と、怖いという感情はなかった。


 ただ、ここはどこなんだろう、とだけ思うことしかできなくて、気がつけば当てもなく歩いていた。


 歩いても歩いても、足の裏にも肌にも感覚がない。


 服は着ているけれど、どんな色でどんな物なのかまでは、触れた限りではよくわからなかった。


 暑さも寒さも感じず、ただただ歩いて行くだけの空間で、ふと何かが光った気がした。


 チカチカと輝く方へ歩いて行くと、突然、いきなり光が増えたのだ。


「わっ……」


 私が、自分の声が出たと驚いたように、またたく光もピクリと動いて私から離れていく。


 幼い頃に、家族で見たほたるりの光景が広がり、かすかな光があちらこちらに動いて飛んでいた。


 蛍、かと思ったが違う。


 光の一つが近づいてきて、思わず手を差し出すと、光はゆっくりと手のひらに載った。


 けれど、虫特有の足は無く、ただ光る球体という感じだったのだ。


 手を引いて、もう片手の指でつつくと、球体はピクピクと動く。


 けれど逃げない。


 撫でたりつっついたりと繰り返しても、球体はピクピク動くだけで、逃げる素振りは見せなかった。


 手のひらの上で、ふわふわと動く球体は、淡いりんかくで光るだけで、その様子に笑みがこぼれた。


 ああ、可愛いなあ。


 ふと、そんな言葉が頭をよぎった。


 その瞬間、それまで何も感じなかった自分の頭が強く痛んだのだ。


「痛い……痛い!」


 手のひらに載っていた球体は、私に振り落とされるように軽く飛び、私は必死に痛む頭を押さえる。


 感じたことのない痛みにうずくまるが、うずくまっている感覚も、膝を床につけている感覚もない。


 ただただ何も感じないのに、頭痛だけは恐ろしいほど強く感じるのだ。


「痛いっ、痛いいいっ」


 自分が今、何をしているのかはわからない。


 けれど、めちゃくちゃに暴れてはいるのだろう。


 淡く光る球体達が離れていき、どんどん道が出来ていくのだから。


 痛い、痛いと涙が出て、音が鳴っているような感覚だけが私を責める。


 足も手も、何も感じないのに、どうして頭だけが痛いのだろうか。


 どうして私はこんなところにるのだろうか。


 どうして私は、こんな物体に囲まれているのだろうか。


 そんな疑問が頭をよぎった。


 痛い痛いと歩きながら、どんどん出来ていく道に沿うように進んでいくと、ふと、向こう側に光が見えたのだ。


 周囲を飛ぶ光よりも強く、眩しいくらいの光は、私が進むたびに強くなっていく。


 あれは何だ。


 あれは、いったい……。


 ふらふらとよろけながら、一歩ずつ進んでいくと、目の前の光が強くなるたびに、周囲を飛ぶ光が弱まっていくのに気がついた。


 光が強くなると、周囲を飛ぶ光が少しずつ減っていき、私の姿が少しずつ見えてくる。


 痛みを我慢して後ろを振り返ると、そこにはたくさんの光がふわふわと、私を見つめるように浮かんでいた。


 気がつけば足が見え、穿いていたスカートのすそが見え、カーディガンのすそも見える。


 また進むと、頭痛は治まっていき、片手を下ろすとそれも見えた。


 ようやく我慢できるほどの痛みになった時、私のそばには、光る球体が一つしかなかった。


 球体は綺麗に輝いているけれど、私が歩くと追いつけないのか、だんだん後ろに行ってしまう。


 立ち止まると追いつくけれど、途中で動くのをやめ、私と距離を保ったまま浮かぶだけになってしまった。


 私は振り向いて球体を見つめる。


 その後ろには暗闇があり、そこには無数の光がチカチカと輝いている。


「……戻りたい?」


 そんな言葉が出た。


 自分でもよくわからなかったけれど、なぜか聞かなければいけない、そう思ったのだ。


 一つだけになった光は、ふわふわと浮かびながら、悩むように上下に動く。


 しばらく動いていたけれど、動きを止めると、私の方に少しだけ近づいて後ろに戻り始めた。


 ゆっくりと暗闇に戻る光に、私は思わず手を伸ばした。


「待って! 行かないで!」


 来た道を戻ると頭痛も戻ったが、それ以上に私は、あの光を捕まえなければと、そう思ったのだ。


 痛む頭を押さえながら片手を伸ばす。


 伸ばした手は何度もくうを切ったが、あと少しで暗闇に戻るという瞬間、私は光を捕まえたのだ。




!」


 目を開けると、同時に母の声が聞こえた。


 ぼんやりとした視界の中で、誰かが私を覗きこんで名前を呼び続ける。


 誰かに手を取られ、強く握られると、私は小さく「ここは……」と言えた。


 その声に母は泣き崩れ、私の手を握っていた兄は、手を額に持って来ると、声を押し殺して泣き出した。


 走る音が聞こえ、誰かが扉を開けたかと思うと、父が大きな声で「亜佐美!」と叫ぶのが聞こえた。


 遅れて、知らない声が次々と聞こえ、私はようやく、ここがどこなのかわかった。


 白い空間に、保健室で嗅ぐ消毒液の匂い。


 そして私を覗きこむ白衣の人達は、私に手のひらをかざして振りながら、いくつか質問してきた。


 それに一つ一つ答えると、彼らは最後に「ここは病院ですよ。わかりますか」と聞いたので、私はうなずきながら「はい」と答えた。


 思わずお腹に手を当てると、まだ泣いている母が手を重ね、涙を流しながら笑った。


「大丈夫。赤ちゃん、まだいるよ」


 その言葉で、やっと私は全てを思い出せたのだった。




 私は気を失う前に、付き合っていた男子に振られた。


 原因は予想外の妊娠で、あと少しで高校を卒業するという時期に発覚してしまったからだ。


 相手は真面目な人で、さすがに育てようとは言ってくれないだろうけど、せめて子供の存在を認めてほしいとは思っていた。


 子供のことは、私の家族には話したけれど、苦い顔をされたので、それ以上は話し合えなかった。


 せめて彼氏にだけは、と思って話したのに、彼は真っ青な顔で子供のことを否定してきたのだ。


『知らねえよ。俺、だって子供なんて、ちゃんとしてたのに……ありえないだろ』


『でも、事実なんだよ。ちゃんと検査薬で何度も調べたし、明日家族と病院に行ってくるから、それで確実になるだろうから、だから私、あなたにだけは先に教えておきたかったのよ』


 彼氏は気が弱く、けれど真面目で正義感が強い人だった。


 だから、今は受け入れてもらえなくても、彼なら認めてくれるだろうと、それから話し合おうと、そう思ったのだ。


 しかし、そう上手くいくはずもなく、彼は混乱したまま家に帰り、彼の家族に全てを話してしまったのだ。


 おかげでお互いの家族がにらうほどの責任の押し付け合いになり、相手の親は、私がわざと子供を作ったのだろうとまで言ってきた。


 それどころか、本当は別の人の子供で、それを彼氏に押しつけようとしているんじゃないかとまで言ってきたので、さすがに私も怒ったのだ。


 期待していたわけではないけれど、あまりの言いように涙が出て来た。


 彼の親にこうしようと立ち上がった時、急にめまいがして、それからすぐ意識を失ってしまったのだ。


 まだ安静にしていなければいけない時期なのに、ストレスと怒りで流産しかけたらしく、私の目が覚めるまで、大勢の人が見守ってくれていたらしい。


 お腹の子供は無事だったけれど、私は貧血と寝不足で目を覚まさなかったため、家族はみんな、倒れそうなほど心配してくれていたそうなのだ。


 けっきょく、子供を産んで、私が育てることになった。


 相手の親はうるさく言ってきたけれど、養育費も面会もいらないと告げると、笑顔で帰って行ったのだから最悪だった。


 別れた彼氏は、それから何度か連絡をくれた。


 子供は元気か、とか、いつ頃出産になる、だとか言ってきたけれど、彼に返信することは二度とないだろう。


 学校には内緒で、残りわずかの学生生活を無事に過ごし、私は進学を遅らせて子供を出産した。


 はじめは大学に行かないと言ったけれど、両親から強く言われ、また兄からも言われ、一年空けての受験をしたのだ。


 結果は無事合格。


 その後は成人式で子供を紹介し、友人達から父親について聞かれたりもしたけれど、私はその話題に一切答えなかった。


 彼の両親との約束もあるけれど、下手に同情されたり、彼との仲を取り持たれたりしたくなかったからだ。


 私と彼が別れたことはみんな知っていて、今でも、彼の方が私に未練があるようだと言ってくる人もいる。


 彼からの連絡は相変わらずだけれど、彼に対してはもう、何の感情もないのだ。


 あの時に見た夢のことも、無事に会えた我が子のことも、もしかしたら繋がりがあるのかもしれないけれど、深く考えたことはない。


 なるようになったのだから。


 けれど、時々は思い出してしまうのだ。


 あの時に見た、無数の光の存在を。


 そんな時はいつも、私は我が子を抱きしめている。


 笑う子供を力一杯抱きしめて、そのぬくもりを感じながら、こう伝えるのだ。


「生まれて来てくれて、ありがとう」


 ただ、それだけを。








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母親の境界 逢雲千生 @houn_itsuki

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