第19話 先生から先輩へ

『あれ? 生徒の名前も把握してなかったんですか?』


 俺は名前を訊いてきた先生を少し揶揄ってみた。

 先生が「むぅ」と抗議の声が聞こえてきそうな半目を向けてくる。

 大学生の年上の女性で、いつもの講義や待機部屋にいる先生は大学生の年上の女性よろしく、落ち着いたお姉さんといった感じだったのに、今目の前にいる彼女は何だか幼く見えて可愛らしいという形容が当てはまる。

 いつもは降ろしているサラサラの髪をアップにして、上品な柄の浴衣を着ている先生はとてつもなく綺麗で、ドギマギしているのを隠す為に揶揄ったのに、これじゃミイラ取りがミイラになったようなものだ。


 揶揄った事を詫びて、改めて自分の名前を名乗った。


「月城君か。うん! 覚えたよ」


 言ってニッコリと微笑む先生の顔に心臓が激しく跳ねる。


 正直、俺は過去に抱えてしまったトラウマのせいで、今まで女は憎むべき対象でしかなかったというのに、先生の笑顔はそんな拗らせた俺の中にアッサリと入り込んできた。

 拒絶していたはずなのに、決して比喩ではなく途方もなく美しい先生の笑顔が俺の心を焦がしたのだ。


「よし! 何か食べたい物ある? 粉物とか好きかな?」


 年上口調で話しかけてくる声が、露店の灯りに照らされる先生の表情やちょっとした艶のある仕草に、俺は平静を装うだけで必死になっていて先生が訊いてきた内容が頭に入ってこない。


「おーい! 聞いてる? 月城君」

「……え、あ、はい! 聞いてます」

「ホントに~? じゃあ訊いた質問に答えてよ」

「え? えーと……」

「ほら、聞いてなかったじゃん!」

「す、すみません」


 折角の先生との祭り見物だというのに、自分から雰囲気を壊すとは我ながら馬鹿過ぎると後頭部をガシガシと掻いて謝ると、先生は仕方がないなぁと同じ質問を繰り返してくれた。


「粉物は好きですけど、さっき晩飯食ったばかりだから甘い物とかってどうですか?」

「うん、それもいいね! それなら確かそこに――」


 食後のデザートではないがスイーツをと提案すると、先生は嬉しそうに近くにあった露店を指差そうとしたけど「……あぁ、アレはやめとこう」と違う露店に視線を向ける表情が寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


「あ! 暑いしかき氷とかどう? 月城君好きかな」

「いいですね。好きですよ」


「決まりだね」と先生はかき氷を売る露店に向かって下駄をカランコロンと鳴かせる。


「すみません宇治崑時1つと、月城君は何がいい?」

「えっと、それじゃあ……ブルーハワイで」


 露店の親父さんが「あいよ!」の威勢のいい声と共に透き通った綺麗な氷をふわふわの白い山に変えていく。

 器からはみ出る程に盛られたふわふわの氷にそれぞれ注文したシロップをたっぷりかけて「おまたせ! 彼女めちゃくちゃ可愛いから増量しといたよ! 羨ましいねぇ、彼氏!」と容器を渡してくる。

 普段なら誰にでも言ってるリップサービスだと思う所なんだけど、今隣にいるのが瑞樹先生だと本心で言ってるとしか思えなかった……というか本心なんだろうな。

 顔がデレデレだし……まぁ分かるけどさ。


「ふふ、ありがとうございます」


 先生は謙遜するでもなく増長するわけでもなく、ニッコリと笑ってカップを受け取る。

 それだけで、外見を褒められ慣れているのが嫌でも分かった。


「あ、あそこ空いてるから行こう」と近くにあったベンチを指差してまた下駄を鳴かせる先生の後を追って、2人で並んでベンチに腰を下ろした。


「じゃあ食べようか。私かき氷は宇治崑時派なんだけど、お祭りの露店で売ってるのは初めてだよ。ラッキーだったなぁ」


 言って「んー、おいひい」と幸せそうにかき氷を頬張る先生を見て、思わず手に持っていた容器を落としそうになった。

 なんて美しさと可愛らしさが同居した人なんだと思う。

 それに合宿が始まって今日までは落ち着いた雰囲気の人だと思ってたんだけど、今の先生は猫の目の様に表情がコロコロと変わって年上の女性に失礼かもしれないが、とても可愛らしく映った。


「……あの、先生はK大生でしかも現役で合格されたんですよね」

「ん? そうだけど、どうしたの?」

「俺、可能な限りいい大学にいきたいんですけど、今の俺の偏差値でも頑張ればK大いけると思いますか?」


 言ってから改めて自分の偏差値を思い出す。

 ゼミが掲示する大学の偏差値と学校が示す偏差値に誤差があったけど、どちらにせよ現状の偏差値では弾かれる事は理解していた。

 だけど、この先の事は分からない。

 このまま頑張れば光明が見えるのかどうか、それが知りたかったんだ。


「うーん、現状だけの話をしたら難しいと思うんだけど、この合宿が終わってからの模試の結果を判断材料にすればいいよ」

「それって合宿の効果が出るって事ですか?」

「参加者全員が出るかは分からないよ。正直全員が真面目に頑張ってたかと言われたら、首を傾げる生徒もいたからね。ただ月城君は上がると思う」

「え? 俺の事覚えてなかったのに……なんで?」

「うっ……それを言われると耳が痛いんだけど、英語だけじゃなくて凄く積極的に講義を受けてる生徒がいるって、講師達で話してたの思い出したんだ」


 先生はその時に講師の先生達の口から俺の名前が出ていたと教えてくれて、「私も同感だったしね」と付け加えた。

 正直、親父に無理を言って合宿に参加させてもらっているから何でも貪欲に学ぼうと取り組んできたけど、それがこういう評価になるなんて考えてなかった。

 K大を狙うなんてやめた方がいいと言われる覚悟もしていた俺にとって、思わぬ高評価に頬が緩んだ。

 勿論、余裕なんて全くない状況ではあるけれど、決して不可能ではない事を知れたのは大きい収獲といえる。


「それに、ね。月城君はまだ2年生でしょ? 私なんて3年生のこの時期まで似たような数字だったんだよね」

「え!? それでK大を現役で受かったんですか!?」

「うん。自分でもビックリなんだけど、それだけこの合宿の効果があったって事だよね」


 俺がK大を目指す理由は簡単で、単に上の大学から就活すれば待遇のいい仕事に就ける可能性が高いという、なんとも夢の無い理由だ。

 だけど、そうする事によって迷惑をかけ続けた親父に恩返しが出来るというのが全てだった俺に、そんな色気のない進路に誇りを持っていたりする。

 その無謀と思っていた進路に先生の一言で光がさした。

 それはこれまで以上に努力すればK大現役合格も決して不可能ではないと思えた事の他に、もしK大生になれれば先生と同じキャンパスに立てるという青写真を描けたから。


「俺にも出来ますか?」

「無責任な事言えないけど、今の成績が諦める材料にはならないと思う」


 そう言ってくれる先生の目はとても強くて、純粋に応援してくれているのが分かって、それが俺にはとても嬉しかった。

 だから……俺は先生に1つお願いしたい事が出来た。


「先生。お願いがあるんですけど、いいですか?」

「私にお願い? なにかな?」

「もしK大に受かったら一緒にお茶してもらえませんか?」

「お茶? どうして?」

「先生の事を先輩って呼びたいから」


 高校と違って広い大学では偶然知り合いに会う可能性がとても低い事くらいは知っている。

 今この場で連絡先を交換すればそれも容易だろうけど、恐らく頼んでも断られる気がするから頼めない。それなら、同じキャンパスに立てる資格を得る事が出来れば、会うという約束が欲しかったんだ。

 勿論、その約束が守られるなんて保証はない。

 だけど、約束をしたという事実をモチベーションに変える事は出来る。


「ふふ、なにそれ」


 先生は俺の頼みを可笑しそうに笑った。

 そんな先生を見て馬鹿なナンパと同じにされていない事に安堵すると、『ドン!』と大きな音と共に大輪の花が夜空を焦がした。


「あ、始まったね」


 先生の視線が俺の顔から色とりどりに染まる空に向けられた。


「綺麗だね」と言う大きな瞳が虹色にキラキラと輝く先生の横顔から、普段は髪を下ろしていて見えない白いうなじが目に入る。

 その造形が芸術的に美しくて、俺はゴクリと息をのんだ。


「いいよ」


 不意に花火を見上げているはずの先生からそんな言葉が聞こえた。

 先生の美しい姿に意識を持っていかれていた俺には、先生の言う言葉の意味が解らなかった。


「君に先輩って呼んでもらえるの、楽しみに待ってるよ」


 言われてようやく言っている意味が解った俺は、自分から頼んだ事なのにと申し訳なく思う気持ちと、二年後にあるかもしれない幸せな未来に踊る気持ちが同居して「はい」としか言葉が出てこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る