天使達の楽園

潮風凛

天使達の楽園

 冷たいコンクリートの床に、脱ぎ散らされた彼女の服が転がっている。

 コートのダウン生地が水に濡れて、溺死した猫の死骸のように力なく落ちている。あれを着て帰るのは大変だろうなと、有栖ありすは自分の眼下でぴくりとも動かない少女を見て思った。なんせ、彼女が着ていたAラインの膝下までのワンピースはもう意味を成していない。小花柄の白い生地に僅かに血が滲んだところで、持っていたカッターで真ん中から切り裂いてしまったから。


「さとちゃん、可愛い」


 行為の間は決して出さない甘ったれた声で、有栖が裸体を晒した少女――クラスメイトの三上聡子みかみさとこに囁く。唇を近づけた丸い小振りの耳は、引っ張り過ぎて変色し僅かに血が滲んでいる。

 耳だけではない。全身の至るところに打撲痕と鬱血。頬は張り手の痕と涙で紅く腫れ、剥き出しの薄い腹には踏みつけられたような足跡が残っている。

 無惨としか言えない姿。それでも有栖は聡子を見て、可愛いと繰り返し囁く。ほつれた長い黒髪が可愛い。紅くなった頬に浮いたそばかすも、目付きの悪い瞳も可愛い。全身にある傷は痛々しいけれど、全て自分が付けたものだと思えば愛しさもひとしおだ。


「でも、やっぱりさとちゃんは気持ちよくなってる時が一番可愛いね」


 近くに転がっているローターを手にとった有栖は、この小さな機械が聡子の内側を犯していたことを思い出してうっとりと目を細めた。今夜は良い気分で寝られそうだ、なんて思う。

 そして、それはきっと聡子も同じだと確信している。何故ならこの状況を、徹底的に痛めつける強姦紛いのプレイを望んだのは彼女の方なのだから。


 *


 有栖が聡子とこのような関係になったのは、今から三ヶ月程前のことだった。

 その日の夜は、秋に入ろうとする季節に相応しくないうだるような熱帯夜だった。その頃から心に鉛を溶かしたようなドロドロしたものを抱えていた有栖は、真夜中密かに家を抜け出して散歩をすることにハマっていた。

 高校生女子が外出するのには相応しくない時間。過保護な親が眉を潜めるような行為。些細だが背徳的でスリルのある行動が、有栖の怠惰な日常をほんの少し刺激的にしてくれる。そう思っていた。

 散歩コースは、家の近くの住宅街をぐるっと一周。そこまで距離があるわけではないが、今にも壊れそうな自動販売機がひとつだけで他にコンビニもなく、街灯も少なければ人も滅多に通らないこの道を有栖は気に入っていた。暗闇の中に沈んで、誰も自分を見つけられない。世界に独りだけ立っているような、そんな錯覚を楽しんだ。

 だがある日、有栖の世界に不躾に飛び込んできた者がいた。熱帯夜とはいえ、肌が透けるほどの薄着。そして何故か裸足で歩く彼女は有栖の見覚えがある顔立ちをしていた。


「さとちゃん? そんな格好でどうしたの?」


 聡子は、有栖の幼少期からの幼馴染だった。母親同士の仲が良く、小さい頃はいつも一緒にいた。今でもうっすらとだが、聡子が有栖の腕を引いて「あーちゃん」と呼んでいたことを思い出すことができる。最も今では、遠い過去の記憶でしかないが。

 二人の関係が変化した一番最初のきっかけは、母親達の不仲だった。何が原因だったのか、今となってはもう分からない。関係が改善しないまま、突然聡子の母親はこの街から消えた。

 聡子の母親と喧嘩してから、有栖の母親の娘に対する過保護に拍車がかかった。文字通り蝶よ花よと育てられ、同時に自分の正しさを娘で証明することに励んだ。勉学や稽古事に長け、古典的で誰にでも好かれる娘になるように母は有栖に求めた。

 有栖は、母の言うことに全て従った。いつもどこか苛立ちを見せていた母が有栖の行動で笑顔になるのが嬉しかった。心が不安定な音を立てるのを無視しながら、有栖はいい子を演じ続けた。

 その間、聡子の身に何が起きたのかを有栖はあまり知らない。いなくなった母親と、あまり家に居着かない父親。大きく変化した家庭環境で何が起きていたのか、家族ぐるみでの付き合いが減った後では分からなかった。

 ただ、聡子は有栖を避けるようになった。小学生の間毎日べったりくっついていた彼女は、中学生になると「さとちゃん」と呼ばれることを嫌った。「あーちゃん」とも呼ばなくなり、友人に囲まれる有栖と露骨に距離を置くようになった。

 母の教育によって「誰にでも好かれるいい子」を演じることが常になった有栖は、唯一自分を嫌って避ける聡子が興味深かった。嫌がられても「さとちゃん」と呼び続け、何かにつけて彼女の傍に現れた。

 一方的な好意。好かれないと分かっているからこその享楽。いつしか聡子に嫌悪の目を向けられることこそ、有栖の心の安定剤になっていた。

 だが、その日の聡子は違った。彼女は有栖を見ると救いを求めるように少し潤んだ両の眼を向けた。唇を震わせ叫ぶように言う。


「お願い、有栖ちゃん!私を叩いて、殴って、ドロドロに汚して、気持ちよくしてほしいの!」


 威勢の良すぎる叫びに有栖が思わず面食らったのは、想像に難くないと思う。


 *


「ありがとう、あーちゃん」


 よろよろと立ち上がった聡子が、濡れそぼったダウンを着て去っていく。

 有栖は何も答えない。無言のまま彼女の小さな背中を見送る。完全に見えなくなったところで、耐えきれなくなったようにうふっと笑いが漏れた。


「私に、お礼を言うなんて」


 なんて馬鹿で可愛いのだろう。先程までの聡子の泣き叫ぶ表情と快感に震える身体を思い出してひとりくすくすと笑った。

 確かにあの日、有栖は聡子に頼まれた。真夜中、見知らぬ誰かにレイプされた時の快感が忘れられないから同じことをして欲しいと。

 聡子があんなに薄着で深夜徘徊をしていたのは、再びレイプ犯に会うことができるかもしれないと思ったからであるらしい。だが中々会えず、我慢できなくなった彼女は有栖に協力を求めた。

 必死に懇願してくる聡子に、有栖は二つの条件をつけた。ひとつは、以前のように「あーちゃん」と呼ぶこと。もうひとつは、会うのは深夜だけ、それ以外の時間はいつも通りにすること。――こうして、二人の関係は始まった。

 有栖は、自分も衣服を整えながらうっとりと目を細めた。知らず、唇が弾んだ声を紡ぐ。


「まさか、こんなことになるなんて」


 聡子は気づいていないようだったが。彼女を襲ったレイプ犯というのは、実は有栖だったのだ。

 ほんの出来心だった。からかっては跳ね除けられるのにも飽きて、もっと酷いことをしたいと思った。何をしようか考えながらいつものように夜道を散歩していた時、偶々聡子の姿を見つけた。きっかけは、本当にそれだけ。

 悪いことにはならないとは思っていた。もし有栖がやったと気づいたなら、多分彼女はもっと自分を嫌ってくれる。気づかなかったとしても、暫くは聡子の怯えた表情を楽しめる。その表情かおを作ったのが自分だと考えるだけで、胸の奥から湧き上がる興奮に心が満たされるだろう。

 だが、まさか気持ちよくて忘れられないからもう一度して欲しいと言われるとは思わなかった。予想外の反応は、しかし想像していたこと以上に有栖を満たした。

 どんなに有栖が手酷く扱っても、聡子は逃げない。泣き叫んでもがいても、また必ずきてくれる。何度でも、有栖は聡子を犯すことができる。何故なら、彼女が望んでいるから。

 やってはいけないという背徳心と、してほしいと望まれている事実の間で、有栖は夢中で聡子の身体を貪った。

 いつでも「いい子」を演じてきた有栖。誰もが彼女を天使のようだと言い、褒めそやし、好きになる。そんな偽りの翼と天使の輪をつけて、今までずっと生きてきた。

 しかし、聡子を犯す時だけ有栖は天使の仮面を外すことができる。翼を毟り、輪を投げ捨てて、有栖は本当の「有栖」になる。聡子を傷つけている時だけ、これが自分だと実感できた。

 なんて幸せなのだろう。聡子が有栖を救ってくれる。彼女の方が、天から遣わされた救済の天使のようだ。もちろん有栖だけの。

 真夜中、たった二人だけで構成された小さな世界を有栖は大切に抱きしめた。夜明けがくるまで。


 *


 有栖に犯されてから約一時間後、聡子は足を引き摺りながらもようやく自宅にたどり着いた。

 父親は、今日も帰らない。聡子は気にせず真っ暗な室内を手探りで進み、自室のベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めたまま、どこか恍惚とした声で呟く。


「あーちゃん……。今日の私、気持ち良かったかなあ……」


 有栖は勘違いしているようだが、聡子は最初に自分を襲ったレイプ犯が彼女だと気づいている。それだけでなく、普段の有栖が、聡子に嫌悪されるのを好んでいることも分かっていた。

 聡子は、自分の家族がグチャグチャになったにも関わらずいつも笑顔でキラキラしている有栖が憎くて仕方がなかった。貴女の母親のせいで家族が崩壊したのに、どうして幸せそうなんだろう。そんな彼女が許せなくて見ていられなくて、露骨に嫌悪し避け続けた。

 だから、有栖が自分の嫌悪の眼差しを喜んでいると知った時は本当に驚いた。そこでようやく、彼女にも何かあったのではないかと考えるのに至った。

 

 ――何があったのかは分からないけど、これで喜ぶならそれでもいいかな。


 もうとっくに嫌悪感はなくなっている。それでも有栖が嬉しそうにしているとわかったから、聡子は彼女を跳ね除け続けた。自分の中から湧き出る未知の感情に戸惑いながら。

 だから有栖がレイプしてきた時、それほど戸惑いはなかった。多分、彼女は自分に嫌われたいと思ってこれをしている。そう、分かってしまったから。代わりに出てきたのは好奇心だ。

 嫌わず受け入れたらどうなるだろう。そう思って聡子は有栖に近づいた。彼女が真夜中の散歩を好んでいることは知っていたから、待ち伏せして恥ずかしさを堪えて叫んでみた。


「でも、あーちゃんとこんなことになるなんて思わなかったよ」


 踏みつけられたお腹を触って、ひとりふふっと笑った。有栖は戸惑いながらも聡子の要求を受け入れ、殴り苦しませながら襲ってくれた。それも、本当に嬉しそうに。

 嫌悪の視線を向けた時以上に見せる喜びの表情に、聡子は感動した。そして同時に気づいた。自分の中にも湧き上がる歓喜。有栖に必要とされる、そんな喜びに。

 今まで、聡子を必要としてくれる人はひとりもいなかった。地味でそばかすだらけ、きつい眼差しを持って生まれた彼女はどこへ行っても遠巻きにされた。母は消え、父は聡子を完全に無視し、家でもいつも独りだったのだ。

 だから、有栖に必要とされるのが初めてだったのだ。それがどんな行為を求められての結果だとしても、本当に嬉しかったのだ。

 好奇心は、いつの間にか依存に変わっていた。聡子に対する有栖の行為は、日に日にエスカレートしていく。それでも聡子に後悔はない。彼女が自分を必要としてくれるから。それがどんなに歪なものだとしても、湧き出る喜びこそ聡子にとっての救いだったから。

 他人ひとは有栖を天使のようだという。聡子もそれは同感だ。けれど他人が考えるそれとは、ほんの少し違う。

 天使は清らかではない。天使は、自らの翼を鮮血で染めることを好む。それでも天使は、孤独な自分を救ってくれる。自分だけを。

 願わくはこの小さな楽園がいつまでも続くことを、聡子は夜明けを迎えようとする空に願った。

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