第9話 べろべろの犬通るべからず

 食事の後片付けは、私はお母さんを手伝った。いつもは任せっきりにしていたのが、暗闇では光を当てて上げないと、洗い物をするのも大変だった。

私は懐中電灯を上手く配置すると、洗った食器を拭く係を任せられた。

 お風呂の代わりに、お母さんはタオルをぬらして、体を拭くように教えてくれた。私は暗い中で悪戦苦闘しながら、体を一生懸命に拭いた。こんな経験初めでだった。全てがいつもとは違った生活だった。当たり前のことが、停電一つでできなくなると実感した。

 一番大変だったのは、トイレに行くときだ。明かりの点らないトイレは、恐怖の一言に尽きる。暗いトイレに、懐中電灯一つで入っていると、何かが出てきそうで恐ろしかった。

 その夜は、とうとうお父さんは帰ってこなかった。それで、リビングにテントを張ってその中で寝た。テントに入って懐中電灯の光を照らすと、穏やかな気持ちになれた。

 それでも、私はなかなか寝付けなくて、頭の中で色々と考えてしまう。お母さんは疲れて、すぐに寝息を立てていた。私一人だけが、そこへ取り残されたみたいだ。寝ているお母さんを見ていると、ちょっと意地悪して起こしたくなる。きっと怒るから止めにした。

 布団に潜っていると、戸外の物音が急に大きく聞こえてくるときがある。周りが静かだから余計にそう思える。私はいつの間にか寝ていた。奇妙な夢を見ていた。妙な声が聞こえた。

「何の声?」

「卵だよ」

 三つ子の卵は、すすり泣くように固まって揺れていた。

「どうしたの?」

「親鳥がいなくなって、悲しんでいるんだ」

「親鳥は、どうしたの?」

「大きな鳥に食べられちゃったんだ」

「そうなの。かわいそう」

 翌朝、どんよりとした空で目を覚ました。それは、雨の日とも曇りの日とも違っていた。まるで朝昼と寝過ごして、夕方に起きてきたように薄暗かった。お母さんは、私が家を出るときに、傘と小さな懐中電灯を持たせてくれた。昨日は見なかった懐中電灯だ。

「どうしたの、これ?」

「今朝、見つけたの。靴箱の下に落ちていたの」

「そういえば、玄関はあまり探さなかったね」

「小さいからなくさないでね」

 小さいといっても、私の手にはよく馴染んだ。

「分かっている。じゃあ。お母さん、行ってきます」

 私は頼もしい相棒を得た心地で、登校した。その朝も、みんないつもより急いで歩いていた。今にも、夜が訪れそうな恐ろしい天気だった。

 ゆりちゃんに出会ったときも、太陽は沈みそうだった。いつもなら、まぶしいくらいに輝いた朝なのに、その日はどこかおかしかった。ゆりちゃんも小さな懐中電灯を振って、私にあいさつをした。

「どうしたんだろう? こんな事って、初めてだよね」

 私が、ゆりちゃんと歩調を合わせながら言った。

「うん、うん。これから夜になるみたい」

 ゆりちゃんは、しきりにうなずいた。

「そう、それ。今、言おうと思った」

 ゆりちゃんは、私のおどけた声に心地よく笑った。

「やっぱり、学校休んだ方がよかったのかな?」

「でも、せっかくここまで来たんだから、学校に行ってみよう。何か分かるかもしれないよ」

 ゆりちゃんは見た目の幼さに反して、しっかり者だった。

「そうだね」

 学校に着いたときも、放課後の夕暮れの景色と変わらなかった。校門には昨日より、多くの先生が集まって、登校してきた生徒を誘導していた。一人の先生が、手に懐中電灯の明かりを点して、「おーい。こっちだ。こっちだ」と野太い声で呼びかけていた。

 生徒は教室に入って、みんなが登校してくるまで待つように指示された。先生たちも、これからどうすべきか、まだ決まっていない様子だった。これから夜のように暗くなるなら、まだ明るいうちに生徒たちを帰した方がいい、と考える先生も多かった。

 教室に入ると、昨日よりも多くの話の輪ができていた。みんな熱心に話し合っていた。私はランドセルを置くのも忘れて、その輪の中に入っていった。

「どうしたの?」

「どうしたも、こうしたもないよ!」

 たかしが、少し興奮気味にしゃべった。たかしも、ランドセルを背負ったままだった。

「よそのクラスの生徒が、べろべろの犬に出会ったんだって」

「えっ、ほんとにいたんだ!」

 私は大きな声を上げた。

「あかりは、信じていなかったのかよ」

「そうじゃないけど。それで、どうなったの? 何か質問したの?」

「それがよく分からないんだ。別の生徒から聞いた話で、その生徒も何て質問したか知らないって」

 たかしは、軽く手を振った。たかしが知らないのなら仕方ない。

「ひょっとしたら、質問の内容は誰にもいえないんだと思う」

 たいようくんがうなって、私に視線を移した。

「どうして?」

「たぶん、自分だけの秘密を尋ねたのかもしれない」

「あっ、そうか。そうか」

 ゆりちゃんがランドセルを机に置いて、話に交ざってきた。私は本当は、べろべろの犬など信じていなかった。のけ者にされるのが嫌で、みんなに話を合わせていただけだ。それが、本当にその犬に遭遇した生徒がいるという。一番驚いたのは、私だった。

「じゃあ。この異常な天気は、べろべろの犬の仕業かな?」

 私が考えているうちに、みんなの会話がどんどん先へ進んでいく。私一人が、置いてけぼりを食らって、寂しい気分になった。

「べろべろの犬が、夕方にしちゃったの?」

 ゆりちゃんが、精一杯の声で訴えた。たいようくんが、ちょっと間を置いて否定した。

「それは分からない。だって、べろべろの犬は闇の町に住んでいるから。しかも現れるのは、停電の夜と決まっている」

「でも、誰かが質問したんだ!」

 たかしが鼻息を荒くして叫んだ。

「質問?」

 私は聞いた。私にはべろべろの犬に質問することと、この奇妙な天気が、どう関係してしているのか想像も付かなかった。が、たかしには、それが何となく分かっているらしい。

「そうだ、きっとそうだ。そうしないと、こんなおかしな天気になるはずがない」

 たいようくんが、勢いよく言った。キラキラした目を大きく見開いている。たかしが、たいようくんの顔をうれしそうに見た。二人が会話の中心になって進めた。

「でも、どんな質問をしたんだろ?」

「それは、本人じゃなきゃ分からないよ。それよりも、べろべろの犬が、何て答えたかの方が重要だよ」

 たかしが、たいようくんに答えた。

「そうなの?」

 私は、既にみんなの話に付いて行けなかった。もっと詳しく説明して欲しかったが、話の腰を折りそうで、そうは言えなかった。

「でも、待って。本当に天気を変えることなんてできるのか?」

「分からない。べろべろの犬は神様じゃないからね」

 たいようくんが、たかしに言った。そこで一旦、話が途切れた。みんな少し黙って、あれこれ考えるようだった。

「べろべろの犬って、願い事をかなえてくれるの?」

 私が、みんなの顔を見比べながら尋ねた。

「そうじゃないよ。質問に答えてくれるだけ。でも、その答えは絶対に起こるんだ。ウソは答えないんだよ」

 たかしが、丁寧に教えてくれた。この中で一番、べろべろの犬に熱を上げているのは、たかしだろう。

 そのうち、教室に西村先生が慌ただしく現れ、ホームルームが始まった。西村先生は今のところ、奇妙な天気だが、これ以上は暗くならないようだ。しばらく様子を見て、その日も授業は、午前中だけやることが決まったと伝えた。

 私は授業中も、あまり集中できなかった。他の生徒も同じだっただろう。べろべろの犬のことが、頭から離れないでいた。

 幸い四時間目が終わっても、この異常な天候を、暗闇が塗りつぶすことはなかった。学校の授業は、黒板の文字や図形を眺めるときと、それをノートに取るとき、トイレに行くときが薄暗くて苦労したけど。それ以外は、ほとんど不便はしなかった。ただいつも教室の中に、色を失った静物が漂っていた。でたらめに弾くオルガンのような不安を、みんな抱えてそわそわしていた。私もその中の一人だった。

 停電は、未だに復旧しなかった。教室の電灯のスイッチを、パチパチ鳴らすのも恒例になっていた。

 私はこんな寂しい夕暮れの景色の中を帰ったのは、初めてだった。実際の時間は、まだ正午を回ったところだ。それでも、とおるは少し大人になった気分だとふざけている。が、内心みんなは怯えていた。急に真っ暗になったらどうしようと、びくびくしていた。実際、私もそうだった。

 みんなはできる限り寄り添って、励まし合いながら帰った。その時の話題も、もちろんべろべろの犬が中心だった。

 よそのクラスの生徒の話では、べろべろの犬に出会った生徒は、授業の途中で体調を崩し、早引けしたそうだ。みんながあれこれ聞くから、神経質になって具合が悪くなったのだと、もっぱらのうわさだ。たかしも、その生徒に直接、事情を問い詰めようと思っていたらしい。それで、ひどく残念がっていた。

「俺だって、同じ立場なら逃げるだろうな」

 たかしは多少の不満はあっても、その生徒に同情する口振りだった。

 川沿いの通学路から離れて、歩道橋を渡るときには、みんなバラバラに分かれ、五人の集団になっていた。

 ある大きな屋敷の前に来て、みんな急に足を止めた。互いに、困惑した顔を見合わせた。屋敷には大きな門と、それに連なる高い塀が建っていた。その塀から、見事な松の庭木が、こちらを見下ろすように、頭をのぞかせていた。屋敷の立派な門は閉ざされていて、その門扉にこんな張り紙が貼ってあった。


 べろべろの犬通るべからず


「誰がやったんだろう!」

 たいようくんが怒鳴った。

「通るべからずってことは、どういうことだ?」

 とおるが張り紙を指差して、首をかしげた。

「ここを通っては、いけないってことだろ」

 たかしが、とおるに親切に教えた。みんなは、それぞれうなずいた。

「でも、おかしいな。べろべろの犬が、普通にいるような文句だぞ。それに、犬に文字が分かるのかな? 人間の言葉は、聞き取れるみたいだけどね」

 たかしは眉尻を下げた。私もゆりちゃんも、分からないという表情で見つめ合った。

「それは、どうか分からないけど。でも、誰がこんな事したんだろう?」

 たいようくんが、じっと張り紙をのぞき込んで振り返った。とおるが顔を横に振った。

「分からないな」

「イタズラじゃないの?」

 たかしが、自信ない声で提案した。

「イタズラにしては、ちょっと変だな。こんな大きな屋敷の前に貼ったら、ひどく怒られるよ」

 たいようくんが腕組みした。たかしが向きになって続けた。

「じゃあ、誰が貼ったんだよ!」

「分からないけど、この家の誰かじゃないかな。門の前ってところが、意味がありそうだからね」

 たいようくんが屋敷の塀をのぞき込むように答えた。たかしはまだ納得ができない様子だ。

「でも、べろべろの犬のうわさを信じているのは、俺たち小学生だけだろう。大人が信じるわけない」

「じゃあ、この家に同じ学校の生徒がいるっこと?」

 とおるは張り紙の文字を見つめた。あまり綺麗な文字ではないが、それだけでは判断できなかった。

「ねえ。この家、誰の家か知ってる?」

 私が、何となく気になったことを口にした。

「いや、知らない。少なくとも、僕らのクラスにはいないな」

 たいようくんが横に首を振ると、たかしもようやく落ち着いて返した。

「だったら、やっぱり誰かのイタズラだよ」

「そうだといいけど」

 私は、段々気味が悪くなった。ただのうわさ話だと思っていた、べろべろの犬がどんどん現実味を帯びてきた。そういうのって、ちょっと苦手だ。

 話も尽きて、結局それ以上は何も分からず、私たちはその張り紙の前を後にした。不安だけが、尾を引いた。

 帰宅しても暗い空は晴れなかった。私の気持ちも、その空と同じだった。まだ昼過ぎという時間にもかかわらず、夕方の景色を私は見ていた。玄関の前で、ぽつんと立って眺めていると、自分の家がなんだか小さくなったように感じられた。

 お母さんも心配して、私が帰ってくるのを待ちわびていた。しきりに学校の出来事を尋ねてくれた。私はその日あった事を、詳しくお母さんに話して聞かせた。その日も十人以上が欠席していたこと、生徒たちの間で話題の、べろべろの犬についても話した。お母さんはそんな犬、見たことも聞いたこともないと首をかしげた。

 時計はまだ昼間であっても、二階の部屋には夕暮れが迫っていた。そこには真っ暗闇とは、違った恐怖があった。あらゆる物が押し黙って、じっと動かないでいる気がした。私はすぐに二階から下りてきて、お母さんの側にくっ付いて離れなかった。

 その日もお母さんは、夜の準備に忙しそうだった。懐中電灯が、二つに増えたことはうれしかった。が、小さい方は、すぐに電池が切れてしまうから、必要なときにだけ使うことになった。私は二つ使えないことに、不満をもらした。

 お父さんは、その日も会社から帰ってこられるか分からないらしい。停電は夕方になっても、復旧しなかった。もうこのままずっと直らないのではないかと心配になった。空は夕方までずっと同じ天気が続くと、古い時計が動き出したように、今度は急速に空が暗くなってきた。夜がやって来るという兆しを見せた。

 その日の夕食は、いよいよ私のうちでも、インスタント食品が提供された。レトルトのご飯に、レトルトのカレーをかけた物だった。毎日ラーメンよりは、こっちの方がまあ増しだった。その日も懐中電灯の明かりを頼りに、ささやかな夕食をとった。この暗闇には、少しも慣れなかった。暗い中での食事は、何を食べているのか不確かだった。目で見て食事をするというが、その通りだと思った。その日は分かりやすい食べ物で、まだよかった。カレーライスだと分かって食べていたから、疑いもしなかった。それでも、ちょっと匂いをかいだり、スプーンで慎重に口に運んだりした。匂いも味もやっぱりカレーだった。

 その夜もテントの中に布団をしいて寝ることにした。布団に入っても、頭の上に小さな石が転がっているようで、なかなか寝付けなかった。べろべろの犬が頭から、どうしても離れなかった。べろべろの犬に尋ねる質問のことは、私の頭の中から消えていた。ただこの恐ろしい天候と、不可解なうわさは、早く通り過ぎればいいのにと考えていた。

 翌朝になっても、太陽は昇ったばかりで、沈もうとしていた。太陽がどこにあるのかもよく分からなかった。暗い空は曇っているのか、夜空なのかはっきりしなかった。私はそんな天気の中で、目を覚ました。顔を洗って、さっぱりしたのは顔だけで、頭の中のもやもやは、ちっとも晴れなかった。べろべろの犬が、朝から私の頭の中を駆け回る。

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