第18話 浴槽

 部屋の一つ一つを確かめ終わったあたしは、物置部屋をあたしの部屋に決めた。


 あたしはその部屋の中に立てかけてあった古いマットレスを床の上にたおすと、その部屋に置かれていた掃除機でほこりを吸い取った。棚の上に置かれていた洗い済みのようにみえるシーツをその上にかけた。二つあるベッドルームのうちあまり使われていないと思えた部屋から毛布を持ち出し、マットレスの上にかけた。


 これで寝る準備は整った。今が、昼なのか夜なのかあたしにはわからなかったが、体力も回復していないあたしはとても疲れていた。だから眠りたかった。


 問題はあたしだった。お風呂に入って着替えたかった。このままの格好で寝るのはとても不快でいやだった。食事をしたので、歯もみがきたかった。この家でお風呂を借りたとしても、着替えるものがなかった。今から着替えの入っているリュックをとりに戻る気力と体力は今のあたしにはなかった。


 幸い地下の家の中は寒くなかった。あたしは少し考えてから浴室にいくと、浴槽のお湯の栓をひねった。どこかで何かが唸るように動く音が聞こえた。最初は水が出ていたが、しばらくするとお湯にかわった。あたしは水の栓もひねり、熱さを加減した。


 もし女の人が寝ている部屋で何か音がした場合、聞こえるように浴室の廊下に面したドアを少し開けておいた。それから着ているものを脱いでそばにあったかごに入れた。体のところどころに浅黒いあざができていた。


 できるだけそっと足を浴槽に入れると体をお湯に沈めた。


 あざになったところが浴槽の縁に触れると鈍いいたみが体をかけ登ってきて、あたしは顔をしかめた。両手でお湯をすくって顔にかけた。頬のすりきずがしみてあたしは、さらに顔をしかめた。


 お湯の中で体を伸ばすと深いため息をついた。まるで天国にいるみたい、あたしはそう思った。あたしはあたしを救ってくれた女の人の顔を思い浮かべた。そうすると、胸にあたたかいものがこみ上げてくるのを感じた。


 あたしはそばにあった石鹸で体を洗った。髪の毛を洗うのに横に並んでいるシャンプーを使いたかったが、そこまでするのはずうずうしいような気がした。ちょっとためらってから、あたしは髪の毛も石鹸で洗うことにした。


 まっすぐに肩まで伸びた黒い髪を大切にしたかったけれど、今のあたしには清潔が何ものにも代えがたかった。きっと乾くとごわごわになってしまうだろうけれど、しかたがない。


 自分を洗い終わってから、あたしは疲れきっていたけれど、脱いだ服をより分けて洗えるものだけをかごから出し両手で抱えると、それらをお湯を抜いた浴槽の中へつっこんだ。そしてお湯をかけながら石鹸でできるだけていねいに洗った。


 あたしはアンダーシャツとパンツとジーンズと靴下といっしょに再び泡だらけになった。


 浴槽に栓をしてお湯をはりなおし衣類を濯いで、できるだけ固くしぼって浴槽の縁にならべた。洗濯物がならんでいる様子をみて、あたしは鼻歌がでそうになった。あたしはもう子どもじゃないので、お湯に浮かべるカエルやお船なんかはいらなかった。


 でもお湯をばしゃばしゃ跳ね飛ばしながら浴槽の中で笑いころげるのはとても気持ちがよかった。へとへとだったのになんでこんなまねをしてしまったんだろう? おかげで浴槽の床をモップで拭かなきゃならないはめになってしまった。


 お湯からあがると棚にあったタオルで体を拭いた。


 あたしには着替えるものがなかった。裸のままで、半ば眠りながら、洗面で靴下とジーンズを干した。それからドライヤーをみつけると、そこにあったスツールに座りこみ、まず最初に髪を乾かした。


 髪の毛はやっぱりかさかさになってしまった。鏡をみると、あたしの口元はちょっとへの字に曲がっていて、眉と眉の間にしわがよっている。あたしはしばらくの間、自分で自分に言い聞かせなければならなかった。口元と眉のしわが元にもどったこと見届けてから、あたしはパンツを手にとった。


 パンツは固くしぼってあったので、まるで棍棒のようになっていた。


 あたしはそれを丁寧にもとに戻して広げると、ドライヤーにあてて乾かした。パンツは強い西風を受けて港から出発する船の帆のように膨らんだ。


 あたしはくすくす笑った。パンツの次はアンダーシャツの出番だった。ちょっと期待したけれど、アンダーシャツはそれほど膨らんではくれなかった。乾かしている間、何度もあたしは眠りこんでしまった。そのたびにドライヤーの熱い風が手の甲や指にあたり、びっくりして目が覚めた。


 まだよく乾いていなかったけれど、パンツを履いてアンダーシャツを着た。


 暖かくて気持ちよかった。もう限界だった。歯はもういいや、ここには叱るフロレンもいないし。あたしは這うように物置部屋にもどると、マットレスのシーツと毛布の間に体を潜り込ませた。


 眠りはまたたく間にやってきて、あたしを夢のない世界へ連れ去った。

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