第4話 ぬくもり

 ある朝、目覚めると、フロレンはいなかった。


 あたしは、しばらくスプリングのきしむ古いベッドの上で毛布にくるまり静かにしていた。そばには彼女の痕跡、ほのかな温もりがまだあった。


 窓のない地下の部屋は時間が分からない。あの女は渦巻きバネで動く卓上時計をベッドの脇の粗末なサイドテーブルに乗せていた。夜寝る前にバネを巻くのはあたしの仕事だった。あたしはいつも、寝巻きに着替えてから時計をつかむと、階段を音のしないように駆け上がり、オペラハウスのロビーに掛けられた壁時計の下まで行った。そして手に持った卓上時計の長針と短針の位置を壁時計のそれと見比べ確かめてから、指が痛くなるまで渦巻きバネのノブを回すのだった。


 頭上にある小さなスイッチを押しランプを灯すと、あたしは時計を見た。六時十五分だ。この季節は外はまだ明けていない。しばらくたっても、彼女が戻って来る気配はなかった。宇宙は静止していた。惑星たちは軌道上にあったが、公転することをつかの間忘れているようだった。部屋の中では、心細げに瞬くランプが周囲の闇におびえていた。


 あの女の仕事着が、いつもの場所にかかっているのをあたしはぼんやりと眺めていた。彼女が仕事着の胸に忘れずに着けていた、緑色に輝くブローチは無くなっていた。


 息をひそめながら体の向きを変えると、フロレンがいた場所にそっと手をおいてみた。彼女の温もりは、ひとり、またひとり、何も言わず立ち去ろうとしていた。あの女の匂いだけがまだかすかに残っていて、あやすようにあたしのそばにいる、そんな気がした。彼女がどうしていなくなってしまったのか? そのときのあたしにはわからなかった。多分、今もわからない。


 ベッドから起き上がると部屋を出て、管理人に見つからないようにそっと階段を登り、ホールの廊下の突き当たりにあるトイレで溜まったものを体の外に出した。部屋に戻ると、いつだったかフロレンがこっそりと運び込み部屋の片隅に置いた、すすけたストーブに火を入れ、そこにフライパンを置くと油を引き、卵を焼いた。


 部屋は煙と匂いでいっぱいになったが、かまわなかった。あたしは泣いてなんかいなかった。なぜ泣く必要があるだろう? あの女はあたしにこの世界にいることを、この世界とつながっていることを教えてくれた。それで十分だ。でもどうして心が震えるのだろう? どうしてあの女がもう帰ってこないかもしれないと思うと胸が苦しくなるのだろう? いや、どうしてあの女がもう帰ってこないと思うのだろう?

 

 たとえフロレンがいなくなってしまったとしても、あたしは小さい頃から暮らしてきた場所を出て行くのはいやだった。ここを出ても行く先がなかった。ここにはあたしとフロレンの思い出がいたるところにあった。ここはあたしにとって、家であり遊び場であり学校だった。演奏や上演のある日はお祭りの場所だった。お祭りは年に何回もあった。


 あたしは急いで着ていたパジャマを脱ぎ、厚手のセーターとジーンズに着替え、スリッパをスニーカーに履き替えた。セーターの上にパーカーを重ねた。そして予備の着替えをリュックに詰めると音をたてずに部屋を出た。


 おそらくもうしばらくしたら、あの女が掃除に来ないことを不審に思った管理人たちが、ここへやってくるだろう。彼女のいないところで見つかりたくはなかった。いつだったかフロレンが外出している時に不意にあの人たちがやってきて、人形で遊んでいたあたしを無理やりどこかに連れて行こうとした。彼らは、うす笑いを浮かべながら、ここにいてもおまえに値打ちはないが、おまえをブローカーに売りとばせば金になる、とか言っていた。あたしが部屋のテーブルの足にしがみついて泣き叫び、あの人たちが、あたしをそこから引きはがそうとしていると、彼女が帰ってきて、すごい剣幕であたしをかばって彼らを追い払ってくれた。あの時のことを思い出して、あたしは手の甲が白くなるほどリュックのベルトを握りしめた。


 電灯の消えた廊下は冷たく暗かった。地上のホールに向かう階段とは反対の方向に歩いた。そのはずれにさらに下へと向かう階段のドアがあることをあたしは知っていた。いつだったかフロレンに聞いた時、彼女は首を左右に振りながら、決して降りるな、と言った。そこには人にとってよくないものがいるのだそうだ。


 あたしは信じなかった。


 リュックを下ろし、腰に引っかけておいた小さな電気ランタンを手に持つと周囲を照らして、ドアの取っ手を回そうとした。動かなかった。ドアにはしっかりと鍵がかけられていた。廊下を急いで引き返し部屋に戻ると、フロレンの仕事着の脇にかかっている鍵束をつかみ、あたしは再びドアへと駆け出した。


 背後で階段を降りてくる複数の靴音がする。あの人たちだ! あたしはたくさんの鍵の中から、あてずっぽうに一つを選び、鍵穴に差し込んだ。まわらない。次を試す。これもだめだ。さらに次を鍵穴に差し込む。まわらない!


 後ろの方で、誰かが廊下へ入ろうとドアを開ける軋んだ音が聞こえてきた。震える手で次を試す。だめだ、どうしよう! 


 あたしは、とっさに手に持ったランタンの灯を消し、壁際の配電盤のある辺りに向き直ると、頭上目掛けて闇雲に飛び上がった。精いっぱい伸ばした指先がかすかに配電盤の遮断器ブレーカーに触れる。落ちる瞬間、ジーンズの裾が何かに引っ掛かり、床にしたたかに腰を打ちつけた。


 両手をつき起き上る。もう一度、脚をかがめ、あたしを守ってくれたあの女のことを思って、ありったけの力で床を蹴る。五本の指の一本に遮断器ブレーカーのノブが引っかかった。床に向かって落ちてゆきながら、あたしはそれを押し下げた。


 距離を隔てて、廊下の向こう側で壁際を探っていた手が、廊下の電灯のスイッチにたどり着き、二、三回押す乾いた音が聞こえた。廊下の明かりはつかない。悪態をつく声が響いた。階上へ靴音が登っていく。もう一人は廊下の入り口辺りにいる。


 あたしはうずくまっていた。動けなかった。腰がひどく痛む。それでも少しずつ、下におりる階段のドアの方ににじり寄ろうとした。どこにあるんだろう? 暗がりの中で、両手をいっぱいにひろげ探すが、床に転がっているはずの鍵束に触れることができない。


 階上から戻って来る靴音が聞こえ始めた。あたしは苦痛をこらえ床に這いつくばりながら、震える手で探し続ける。それでも鍵束は見つからない。だめだ! どうしよう!


 ついに向こう側のドアが細く開き、眩しい光が差し込み始める。あたしは探し続ける。狼狽があたしを押しつぶそうとしている。光が廊下の滑らかな壁面に反射する。探し続ける。壁面から跳ね返ってきた光が一瞬、目の前を照し出す。鈍く光る金属片の集合体、鍵束がすぐそこに、まるで何事もなかったように転がっている。その中に黒ずんで光る、あまり使われていないように見える鍵がひとつあるのに気づく。瞬間、あたしの手は動いていた。


 リュックとランタンをつかむと空いたドアから階段を転がり落ちた。ドアはスプリングの力で閉まり、ひとりでに施錠される音が背後で聞こえた。暗闇の中、階段の中程にある踊り場で、あたしはうめき声を上げながら倒れていた。腰はひどく痛んだ。体の骨はどこも折れていないことを願った。踊り場の床は、冷たかった。このままいると急速に体温を奪われ、起き上がる元気すらなくなってしまいそうだった。左頬がヒリヒリと痛んだ。涙が滲んでこめかみを伝い、鉄の床に落ちた。


 廊下から逃げる時あたしは騒々しかった。気が狂った猿のように必死だったに違いない。あの人たちはやってきてここを覗き込むだろうか? 踊り場で、捨てられた紙くずのように転がる、小さな子どもの姿に気づくだろうか? 早く起きないと。けれども、手足を鋲ではがねの板に打ち付けられたブリキ人形のように、あたしは動けなかった。心の底から絞り出した、たったひとつの声。動け! 動け! 動け動け動け動け動け! 体はあたしの声を無視した。動け動け動け動け動け! 意識が少しずつ遠のいて行く。もはやあたしは自分がどうすべきだったか考えられないでいる。


 深い静寂の森が、無慈悲な夜の鳥のように両翼を拡げ、あたしに覆いかぶさろうとしている。光はどこにも見えなかった。

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