咎人(とがびと)

Tohna

彷徨う魂

第1話 天国への階段

 周りの景色がスローモーションで動いている。不思議だ。景色には色がない。


 夜だからか?


 いや、何かで読んだことがある。


 人間は、生命の危険を感じると神経が研ぎ澄まされ、ある機能を増幅させる代わりに優先順位のより低い機能をカットすることがあるのだと。


 つまり、オレは今まさに死の淵にいるわけか。


 オレは得意なはずのバイクの操作を誤って、空に投げ出された。


 スローモーションではあるが、外灯の支柱とガードレールに向かって確実にオレの身体は近づいている。何とか体勢を整えてみようとする。


 しかし、無駄な足掻きだった。


 もう一つ思い出した。


 人間は事故で最期を迎える時、恐怖からか痛みを感じることをシャットダウンするために失神するとかだったな。


 もう一つおまけに思い出したが、人生の終わりに見るという「走馬灯のように人生」は駆け巡らなかった。


 その代わりに恐らくは0.1秒に満たない短い時間に、浮かんでは消えたのは、有紀あきの笑顔だった。


 すまない。有紀。


 近づく外灯。


 遠のく意識。


 オレはお前を遺して逝くのかもしれない。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 東京消防庁の災害救急情報センターから杉並消防署高円寺出張所に無線が飛んだ。


「救急情報センターから高円寺出張所、近隣住民より入電、五日市街道でバイクの単独事故発生。要救護者1名、現場出動願います。バイクから投げ出され、外灯に激突。頭部からの出血が見られる」


「高円寺了解。出動します」


 救急隊長の山﨑が大きな体躯をゆらしながら振り向く。


「さてと仕事だ。無線から類推するに、おそらは高エネルギー外傷だがモトキ、準備は?」

 山﨑は部下のモトキ、川上元紀に段取りを促した。


 モトキは救急標準課程を終了したばかりの二十歳ハタチの救急機関員だ。


 配属されてきたモトキを見て、山崎は背が高いだけで線が細い根性なしと思っていた。

 

 まあ使い物にならないだろう、と思っていたが、相手を見据える眼力の強さと、どんなシゴキにも耐える精神力を持つこの若い隊員をかわいがるようになっていた。


 モトキは既にロードアンドゴー(現場到着から5分以内に観察、処置を終えて搬送することを言うオペレーションのこと)に備えた出動準備を終えていた。


 モトキは、無線から流れる要救護者の容態をすぐに把握して、即座に対応していたのだ。


「隊長! ロードアンドゴー準備終わってます。「ハイメディック」への搬入も完了! いつでもどうぞ!」

 山崎とモトキはハイメディックに乗り込み、運転手のモトキはイグニッションを捻った。


 最新の救急設備を持った、このトヨタ製の新型高規格救急車は、つい数年前に導入されたばかりのものだ。多くの救急救命を期待されている。


「よし、出よう」

 モトキは呟いた。


「まだ生きててくれよ。俺たちがすぐに行くからな!」

 隊長の山﨑とモトキ、ストレッチャーを準備していた人呼んで「百戦錬磨の救命士」沢田が乗っているハイメディックはサイレンを鳴らして、都道318号線を南下していった。


現場げんじょうまであと1キロです。でも、雨が雪に変わりましたね」

 と、モトキ。


「最悪の状況で最高の仕事。これが俺たちのモットーであり、スタンダードあたりまえだ。モトキ。しっかりやろうぜ」

 沢田は今朝から剃っていない顎の無精ひげ摩りながら言う。


「隊長、現場付近です」

 高円寺駅から降りてきた都道三百十八号線が青梅街道にぶつかり、その先が五日市街道になる。


 すぐに緩やかに右カーブしたところで、バイクがガードレールを乗り越え民家の塀にぶつかって倒れていた。その十メートルほど手前に人だかりがあり、車が通れない状態になっている。


 群集は救急車を見つけると、誰ともなく手招きを始め、救急隊を受け入れた。


「こっち、こっちだよ! 早く! 息はあるみたいだ。すごく苦しそうだから早く助けてあげてくれ!」

 タクシーの運転手が大声で叫ぶ。


 要救護者の手前でハイメディックは停車した。山﨑と沢田が要救護者の観察と処置のために勢いよく飛び出してきた。


「すみません、この事故を見た方はいらっしゃいますか!?」

 山崎は叫ぶように群集に質問をした。


 一方の沢田はすぐに救護者の観察に入る。


 若者が応える。


「その人の後ろ走ってました。カーブを普通に走ってたんですが、何かを避けるようにしていきなり後輪が滑って、まだ、雨がちょっとしか降ってなかったんで、すぐ滑ったタイヤがグリップして反対方向に投げ出されたんだ」


(いわゆるハイサイドか。あそこまで飛んだって事は、結構スピードが出てたんだな。)


「沢田、観察終った? どう!?」

 山﨑は沢田に要救護者の容態を尋ねたが、ヘルメットを脱がせた救護者の前で、沢田があろうことか立ち尽くしている。


「バカヤロゥ! お前なにやってんだ?」


「モ、モトキ」


「モトキぃ? モトキがどうした!」

 口から吐いた鮮血で顔は汚れていたが、その顔はストレッチャーを運んでこようとしている救急機関士のモトキそのものだった。


 山﨑も一瞬呆けに囚われたが、すぐに気を取り直し、


「沢田ぁ‼ 何言ってんだ! モトキはあっちでメインストレッチャー用意してるだろうが! 息が浅く早い。気道確保が先決だ」


「ロードアンドゴーですね?」


「そうだ。高濃度酸素投与! モトキ! 搬送先は?」


「まだです。近隣に4病院ありますが、受け入れ困難」


「早くしろ。ねじ込め! 一刻を争うぞ!」

 厳しい顔でモトキは車載の無線で病院と連絡を取っている。しばらくすると表情が幾分緩んだように見えた。


松庵まつあん労災病院、ICU受け入れできるそうです!」

 混乱していた沢田もいつもの迅速な処置作業に戻ったようだ。


「隊長! フレイルチェストの応急処置終わってますよ!」

 頭部のみならず肋骨を数本骨折しているため、呼吸困難を併発していることをフレイルチェストというが、高濃度酸素を吸引させる処置を行っていたのだ。


「よし、搬送だ。松庵はちょっと遠いな。おい、ほかはダメだったのか?」


「ダメでした。方南総合も、堀ノ内区民病院も」


「都政もまだまだだな。チッ!」

 山﨑は吐き捨てるように言った。


「俺達が現場でどんなに早く観察して処置しても、結局、亡くダメになってしまうこともあるんだ」


「隊長、とにかく急ぎましょう。雪が大降りになってきました」


「よし、出せ」

 サイレンを再び鳴らしたハイメディックは、五日市街道を西に進み始めた。


 沢田はバックボードで固定された救護者のバイタルサインを測定している。


「まずいっす! 体温がどんどん下がってきている。脈動も弱いです」

 いくらか薄いグレーの空からは、絶え間なく大きな結晶になった雪が、降り続いていた。

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