第26話 理由

 銀食器が落ちる音がする。落としたのは瑠璃子だ。瑠璃子の顔は可哀想な程青ざめていた。じりじりと蛍光灯が音を立てている。

「お姉様が学校を退学されるなんて……何故ですか……」

 ふみは申し訳なさそうな顔をして、父親を盗み見る。ふみの父は驚いたようだ。

「ふみ、お前言ってなかったのか」

「お父様。瑠璃子にどうしても言えなかったのです。瑠璃子、ごめん。実は僕も結婚することになったの」

「結婚ですか……そんなおめでたいことなのに、何故……」

「相手が相手だからよ。その……あんたも良く知っている人よ」

 ふみは躊躇う。瑠璃子はおずおずと口を開いた。

「ひょっとして加藤正清様ですか……一体何故……お姉様も愛のない結婚はお嫌だと仰っていたではないですか」

「そうなんだけど、色々事情があるのよ」

 ふみは一枚の手紙を懐から取り出す。鶯色の封筒に花が描かれている愛らしいものだ。ふみはその封筒をそっと撫でた。その様子に衝撃を受けたのが瑠璃子だ。瑠璃子は食堂から飛び出して行った。ふみの父がそれを追って行く。食堂には渉とふみが残された。

「追いかけなくていいのかしら」

「それよりも聞きたいことが山ほどありますから」

「僕よりも婚約者を取った方がいいんじゃないかしら」

 ふみの言うことは至極当然だ。しかし、渉はふみを何となく放って置けなかった。剥き出しの刃のような、鋭い空気と廃れた雰囲気が気になっていたのだ。

「ふみさん、今の貴女を放っておけません。どうして加藤様とご結婚されようと思ったのですか」

「ありがたいし、あんたにしか言いたくないけど、今は瑠璃子が先よ。お父様が追いかけてくれたけど瑠璃子が心配だわ」

「そうですね」と渉は立ち上がる。

 瑠璃子はすぐに見つかった。宇喜多が捕まえてくれたのだ。目にいっぱいの涙を溜めた瑠璃子はふみの顔を見るなりぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「お姉さま、お姉さまは何故私に何も言ってくれなかったのですか……せめて一言言って欲しかったです」

 渉はそっと瑠璃子の肩を叩く。

「ふみさんにも色々事情があるみたいだよ。瑠璃子さん、今日は帰りましょう」

「瑠璃子が落ち着いたらちゃんと話すからお待ちなさいな、宇喜多。瑠璃子を送ってっておあげ。僕は渉くんに話があるから」

「渉さん……」

 瑠璃子は小動物のような眼で渉を見る。空よりも深い青い瞳が涙で潤んでいる。その瞳に勝てる者はいない。しかし、渉はふみを放ってはおけなかった。瑠璃子をそっと抱きしめる。

「瑠璃子さん、また後ほどお会いしましょう」

「……分かりました。後ほどお会いできますよね……」

「えぇ、必ず行きますから」

 瑠璃子は宇喜多とふみの父に連れられ、玄関に向かって行った。残されたのは、ふみと渉だ。ふみは渉を連れて、離れにあるふみの部屋へと渉を誘う。ふみは椅子にどっかりと腰を下ろした。

「また……泣かしちゃったね」

「ええ」

「瑠璃子、僕のこと嫌いにならないかな」

 日本人形は哀しげな表情を浮かべている。

「大丈夫ですよ、きっと。あとで俺もちゃんと説明しますから」

「瑠璃子には僕から話したいところだけ話すよ。事情は君にしか話したくないし」

「何故ですか」

「僕も君のこと好きだから。あ、誤解しないでね。家族愛みたいなものだから」

 いつの間にかこの少女は渉のことを認めていたのだ。渉はほんの少しだけ嬉しくなる。

「僕が結婚する理由はね、あの男と契約したからよ。大分親もお見合いだの縁談だの煩くなってきてね。そんなときにあの男が現れた。見ててすぐに分かったわ。あの男も仮面をつけて生きてるって。僕たち、似たもの同士なの。僕も本当の姿は家族と瑠璃子にしか表せない。それに二人とも瑠璃子のことが好きだし。なら、瑠璃子を一番近いところで愛でられるようにしようって二人で約束したの。奴さんは瑠璃子の親友の旦那として、近くで瑠璃子を見てられる。僕は煩わしい結婚の督促から逃げられる。瑠璃子への気持ちへ蓋を出来る。所謂、一挙両得ってやつよ」

「結婚についてはあい分かりました。それで貴女はいいのですか。貴女は瑠璃子さんへの気持ちを蓋をしてしまって。俺は良くないと思います」

 ふみは冷たく渉を見た。蓋をしていた感情に火がついたようだ。

「君に何が分かるんだい。君は男だ。僕は女だ。瑠璃子は君を選んだ。受け入れられないに決まっているだろう」

「それでも、今のままだと瑠璃子さんと永久に仲違いしたままになってしまいますよ。一度瑠璃子さんとお話ししましょう。嫌でも貴女を引っ張っていきますよ」

 ふみは黙ったままこくりと頷く。風鈴が軽やかな音を立てていた。

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