お姉様と恋敵

第25話 退学

 渉と瑠璃子は日曜日の日課であるふみの家庭教師に向かっていた。家庭教師が終わればふみと紅茶を飲み、歓談をする。最近はふみも瑠璃子に素で接するようになってきた。そんな変化が渉にとって少しだけ嬉しかった。

 歩いていると山手では珍しい瓦屋根の家が見えてくる。そこがふみの家だ。瑠璃子は嬉しそうに駆け出す。そんな瑠璃子を微笑ましく渉は見守る。掃き掃除をしている女中に瑠璃子は声をかけた。

「ごめんなさい。ふみお姉様はいらっしゃいますか」

 女中はちょっと困ったような顔をしている。

「まだ戻ってきていらっしゃらないのです。今宇喜多さんを呼んできますから、少々お待ち下さいませ」

 女中は家の中に駆け込む。瑠璃子は訝し気な顔をしている。

「お姉様、お出かけ中なのですって」

「そうなんですか。まさか逢引だったなんてことないですよね」

 その時だった。見覚えのある花緑青の車が軽快な音を立てて走ってくる。その車は二人の前に停まる。中から出てきたのは噂の人物、ふみであった。ふみを降ろしたその車はまた軽快な音を出して走り去っていった。

「ご機嫌よう。お二方」

「こんにちはふみさん。どこに行かれてたのですか」

「それは、乙女の口からは言えないわ。さぁ家に入りなさいな」

 三人は家の門をくぐる。すると、女中に呼ばれた宇喜多がふみの傍に駆け寄ってくる。

「お嬢様。この宇喜多、心配致しましたぞ」

「すまないね、宇喜多。用事が長引いちゃった。ああ、宇喜多。これ、奴さんからの贈り物だって。この中から一つ選んでおやつに出してよ」

 ふみは鞄から本を一冊取り出す。どうやら料理本のようだ。

「この宇喜多。お嬢様のためなら八丈島まで泳いでいく所存」

「やめてよ、宇喜多。そろそろいい歳なんだし、僕のために無理をするのはおよし」

 廊下を談笑しながら、歩く。瑠璃子とふみは渉の話題で盛り上がっている。渉は恥ずかしくなり、頭を掻くが、誰もその様子を見ようとはしない。やがて、離れにあるふみの部屋に着いた。

 渉は二人のために作ったノートを渡して、国史の教科書を開く。今日は楠公の話だ。南北朝時代については先人達が論争を重ねてきた。歴史観に関わると弾圧もされた。その話も渉は丁寧にしてゆく。渉は学者の末席に属している。政府の歴史観に対する論争への弾圧など不快に思っていたからだ。

 やがて小難しい話になると瑠璃子は頭を揺すり始め、ふみに至っては渉の前で堂々と机の前で突っ伏した。渉は瑠璃子の肩を叩く。

「瑠璃子さん。起きてください」

「起きていますよ……まだ」

 渉は瑠璃子の耳元で囁く。

「起きないと、ふみさんの目の前でそのふっくらとした可愛い唇に口付けしますよ」

 瑠璃子は顔を真っ赤にしてノートを大急ぎでめくり始める。次はふみだ。ふみの肩を揺らしながら、大声で名前を呼ぶ。しかし、ふみは起きない。それどころか、渉の手を払い除ける。こうなったら仕方ない、最終手段である。

「お父様をお呼びしますよ。ふみさん」

 ふみが飛び起きた。渉を恨むように見る。

「君、ついに僕のことを脅すようになったね」

「仕方ないでしょう。まだ一時間のうち、三十分も経っていないのですから。サァ、まだやりますよ」

 渉は二人が寝ないように気をつけながら、二人は寝ぼけ眼を擦りながら、渉の講義を受ける。渉は噛み砕きながら丁寧に教えていく。その様子を庭から見る者がいた。ふみの父親だ。ふみの父も国史に興味があったのだ。庭の石に座り、ノートを開いて熱心に聞いていた。

 渉が銀時計を見ると三十分経っていた。

「ふみさん、瑠璃子さん。今日はこの辺で終わりにしましょう。来週は楽しい楽しい応仁の乱の話を致しますね」

 ふみは伸びをする。瑠璃子は小さくあくびをした。

「やれやれ、やっと終わったね。さてでは食堂に向かおうよ」

「ええ、お姉様……」

 勉強から解き放たれた子供たちは元気になる。渉はその様子を微笑ましく見守っていた。

 三人は食堂に入る。するとそこには先客がいた。宇喜多とふみの父だ。宇喜多は一礼し、食堂から出て行く。

「やぁ、石田くん。今日の講義は貴方がそんなことを仰るのかと色々と驚きがありましたな」

「いや、どうも……お聞きになられていたんですね」

「私も国史が好きでしてな」

 宇喜多が紅茶とカスタードプリンを持ってくる。今日のおやつのようだ。

「おっと宇喜多。今日はハイカラだな」

「奴からの贈り物にありました」

「そうか……。しかし食べ物に罪はない。食べようじゃないか」

 カスタードプリンにはカラメルがかかっており、固めの食感と甘さが絶妙にあっているものであった。一早く食べ終わったふみの父は関羽のように長い髭を撫でながら言う。

「石田くん。今日は君に一つお願いしたいことがあってね。よろしいかな」

「ハイ。俺で役に立てるなら喜んで」

「実はね、うちの商会が発足してから五十年経ったんだ。それで各家からお金を集めて本を出そうと思ってね。君にその本を作る一員に加わって欲しいんだ」

「俺なんかが……よろしいのですか」

「君が良いのだ。君の卒業論文を読んだよ。徳川時代の横浜の百姓についてだったね」

「いや、恥ずかしい」

「ちょっと時代はズレてしまうし、君の専門ではないが引き受けてくれないか」

「ぜひ、よろしくお願いします」

 渉は深々と頭を下げた。ふみの父は穏やかに笑う。

「それともう一つ、お知らせがあってね。申し訳ないのだが、ふみの家庭教師はもう終わりで大丈夫だ」

「それはまた……何故ですか」

「ふみの退学が決まったからだよ」

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