第11話~実りのない恋に溺れて

 恋に落ちたとき、ひとはそれをちゃんと恋だと把握できるのだろうか。

 彼のことを特別だと思ったから? 彼と一緒にいることが、楽しいと思えたから?


 熱くて甘くて苦しくてつらい気持ちになったから?



 皮膚のどこかで少しでも相手の体温を感じていないと不安になるから。きっとそれがいちばんの答えなのかもしれない。


 航太朗くんは、自分のことをたくさん話してくれたけれど、本当の彼のことなど少しも分かっていないことが悲しかった。


 その日は勤めている会社澤田建設の創立記念日だった、毎年その日は休みになる、小さな祝いの席を用意はされているけれど、2日ほど前から体調が悪いこともあって今年は出席しないことを決めた。

 元々、気乗りはしないし自分の身体も行くのを拒んだのではないかと思うと体調不良ながら嬉しい気持ちになった。


 解熱剤を買いに出た私は、ひいらぎ堂のシャッターが降りていることに気がついた。

 店を開ける時間はいつも11時だと言うことを聞いていたし、昨日の夜に会った時に休むということを聞いていなかった。

 どこかに出かけたのかと思うけれど、私は航太朗君のことを何一つ知らないことに気づく。

 携帯の番号さえ知らないし、いままでどんな恋をしたのかさえ知らない。


 その日 ひいらぎ堂はあの古びたシャッターが開くことがなかったことすら知らずに眠りについた。


 次の月曜日にはいつものように、柊堂には明かりが点っていて航太朗くんもいつものように店の奥の椅子に座っていた、その姿を見てホッとしている自分がいる。


「航太朗くん、もしかして体調悪かった? お店閉めてたから心配しちゃった 」

 私の声に顔を上げた航太朗君はいつものように笑顔で答えた。


「うん、ちょっと会いたい人がいたからね、でもお客さんなんてほとんど来ないし、奏さんくらいだよ物好きなのは」そう言いながら笑った。


 いつもと同じ笑顔に私の心は少しだけ安堵していることに気がついた。

 どこかにふらりと消えてしまいそうだといつも思っていたから。


「私もね、久しぶりに熱が出ちゃって週末はずっと寝てたの、1人暮らしだと体調悪い時は不安になっちゃいますよね、実家は遠いし近くに友達もいないし」

 読んでいた文庫本にしおりを挟みながら「僕がいるじゃないですか、頼ってくださいよ、自炊だってしてるし、お粥くらい作ってあげれるよ」


 そう言いながら携帯電話の番号を小さなメモに書いて渡してくれた。


 渡されたメモを両手に持って大切な物のようにスマホカバーのポケットに入れた。

 彼はどうしてこうも無防備に優しさをくれるのだろう、その言葉や仕草が私の心の中に響いていることを気づくこともないのだろうか。


「ありがとう、今度は頼るね」


 私のことをちゃんと友人だと思ってくれているのは分かっていたし、私自身も暫くは恋愛なんてしたくないと思っていたけれど、心に芽生え始めている小さな想いが花の蕾のように少しづつ膨らみ始めていることに気がつき始めていた。


 私が初めて愛した人には奥さんがいた、お互いに惹かれ合いながらも気付かぬように過ごしていたけれど、ある日お互いの気持ちが溢れて恋に落ちた。


 いつ無くしても良いという、悲しい思いがそこにあって、それでも離れることが怖くて恋に溺れていた。


 いつか失くす恋なのにどうしてしてしまうのだろうかと思う。

 触れてはいけないものに、触れてしまった。その事に後悔もした。

 朝にはわたしを抱いてくれた両腕が、その日の夜には別の人を抱きしめているなんて、許せないし、信じたくないし、死にたくなった。


 私たちはひとつになっても、いつも独りぼっちだったことに気がつく。


 2年ほど続けていたこの悲しい恋を私から終わることを決めた。

あの日街角で子どもを抱いた彼の姿を見かけてから夢が覚めたのだと気がついた。

死んでもいいと思った恋を私は泣きながら手放した。


 







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