ウルフカットの女

笛吹 斗

ウルフカットの女

 満員のライブハウスのステージ上には、まったくいけ好かない女が立っていた。

 女はわざとらしく腕を掲げ、姦しい観客を順番に指差しするようにして黙らせると、つれない顔でアコースティックギターを掻き鳴らす。ポロリと溢れ落ちたエロティックな音色に、女も男もなく観客は皆彼女に恋をしているようだった。熱っぽいため息さえ聞こえる程だ。実際、彼らの大半はもうすっかり濡れているに違いない。

 彼女のギター捌きは実に丁寧で、その手つきはまるで愛しい恋人を愛撫するかのようだった。時に焦ったく、時に情熱的に、彼女は自らの音楽と深く愛し合っているのだ。

「何よ、気取っちゃって。私のことはあんなにテキトーに抱いたくせに」

 私は壇上の女に酷く腹が立った。

 今夜はやけに喉が渇く。左手に持ったカップを口に運ぶが、ワンドリンクのファジーネーブルはすっかり空になっていた。そのことが余計に私を苛立たせた。

 全部あの女のせいだ。

 あの夜、私はあの女に抱かれた。それも下町の汚いアパートの一室で、あの女は私を一晩雑に抱いて捨てたのだ!

 私は怒りで震える手で財布を取ると、売店で小銭をばら撒いて酒をあおった。酒なんてどんなに薄くても一杯飲めば酔い潰れてしまうくせに、今夜は無理をしてでも二杯目を飲み干したかった。

 既におぼつかない足取りで観客の最後列に戻ると、私はまた背伸びをした。私はかなり背が低い方なのだが、こんな日に限って大柄の男が多いのがまた憎い。波立つ観客の頭に見え隠れするステージには、辛うじてお洒落の範疇はんちゆうにおさまるダーティなウルフカットのシルエットが揺れていた。

 最初に断っておくが、彼女の歌を性懲りもなく聴きにきているのは、別に何か未練があるからではない。今日は本当にすることがなくて、仕方なく部屋で惰眠を貪ろうとするとどうしてもあの女の顔がチラついた。それがあんまり腹立たしいものだから、ちょっと邪魔をしてやろうと思ったのだ。私に気がついた途端に、歌詞の一言、サビの一音、コードの一つでも飛んでしまえ! しかし、そんな私の思惑とは裏腹に、壇上の女は相変わらずギターとラブロマンスを演じていた。まったく二人芝居もいいところだ。こちらの存在に気がつく様子など微塵もない。放っておけば彼女は本当にギターと籍を入れかねないだろう。

 適当に気の抜けた歌声がまたいやらしく、彼女の熱い吐息が首筋や耳を掠めるような心地がして、全身の肌がふつふつと粟立っていた。クラクラするとでも言おうか、この火照りは果たして不慣れな飲酒のためか、それとも──? いずれにせよ、今夜の私にとっては腹立たしいだけのものだった。

 今夜この場所へ来たのは間違えだったかもしれない。余計な考え事に付けて、不意にあの夜の出来事が生々しいまでに思い起こされた。

 これだけは言っておかなければならない。私は断じて誘われれば誰とでも寝るような軽い女ではない。しかし、その時に覚えた興奮ときたら凄まじくて、男女問わず人間関係に冷めきっていた私にとってそれは、人生において極めて稀な誘惑だったのだ。

 初めて出会った女の挑発的な指遣いと歌声は鮮烈だった。退屈な物語を歌いつつも、時折覗かせる肉欲を孕んだ眼差しがさも意味ありげに語りかけている。いや、実際に意味はあった。あの女はどこまでも狡猾こうかつだったのだ。彼女は気まぐれに、されど周到に、満員の観客の中で一際背の小さな、けれども一等実りの良い私を見出し、誘い出したのだった。

 意を決して閉店後のライブハウスの裏口で待ってると彼女が現れた。さびれた街頭の灯りを人影が覆い隠したかと思うと、次の瞬間、第一声もなく私は舌を絡め取られていた。咄嗟に拒もうとした腕は壁に押さえつけられた。初めて、他人に舌を入れられた。

「私のとこに来なよ」

 放心する私はその甘言にただ頷いて、繁華街をギターケースを目印に彼女の背中をついていった。次第に人がまばらになると、夜道をいいことに彼女はしきりにキスをし、私のふくらみを弄んだ。

 彼女の部屋は、都内にしては街灯の少ない路地を縫い進んだ先にある築何十年のアパートの一室だった。まさしくミュージシャンの名に恥じない暮らし向きである。

 鍵を開ける間、私はほんの三、四歩くらい彼女と距離を取って立ち竦んでいた。すると、彼女は私をからかうように薄い笑みを浮かべた。

「ふーん。誘われたら、そうやってついて来ちゃうんだ?」

 私はムッとして一度帰る素振りをしてから、今にも泣き出しそうな気分になったので、結局彼女の背中に手をかけた。彼女はそれが忌々しかったのか、やれやれとため息をついて私を乱暴に抱き寄せた。

 玄関がどこなのかも分からないまま靴を脱ぎ捨てて踏み入ると、獣の巣を思わせる暗い部屋にはのぼせそうな程に彼女の濃厚な匂いが漂っていた。何か特定の生活の匂いではない、彼女自身が日々放つことで刷り込まれた生来の匂いだ。

 衣服か寝具かも分からない布地の上で立ち尽くしていると、背後で部屋の扉が閉まる音が響いた。その音が段々と小うるさくなり、やがてサイレンの如く激しい耳鳴りに変わるのが分かった。恐らくは、生物に例外なく備わった本能が危険を察知したのだろう。

 まずい、と思った時には手遅れだった。

 まんまと罠にかかった羊は、なす術なく、ウルフカットの長髪から覗く妖艶な唇に噛みつかれた。小さな体を押し倒し、大きな体で覆いかぶさって、細く喘ぐごとに身ぐるみを一つずつ剥ぎ取っていき、やがて遊ぶものが無くなると今度は血の通った肌を隈なく口付けた。彼女は暗闇の中でも私の身体の秘密を的確に言い当てていった。その獣はかなり乱暴な手つきで、獲物を一晩中好き勝手に喰い散らかしたのだった。

 そうして窓の外がうっすら明るくなった頃、微睡の中で見た光景は忘れもしない。散々果てさせられた余韻の中で泣きじゃくる私を放置して、あろうことか、彼女は裸のまま自分のギターの手入れを始めたではないか。私はその執着ぶりに呆気にとられた。

「ねぇ、ギターのどこに惚れたの?」

 彼女はしばらく考える素振りを見せると、半ば私を嘲るように舌をチラチラと見せながら応じた。

「なんかエロいじゃん。この首筋とか、腰つきとか。それに、良い声で鳴くんだ」

 私の目は露わになった彼女の産まれたままの姿に釘付けになった。彼女は私とは対照的に、幼女のように肋骨が浮き出るくらい痩せていて、胸も随分と貧相なものだった。しかしながら、彼女は作られたスレンダーと言うより、というような野性的な肉付きをしているのだ。それ故に、貧しさの中に隠しきれない美しさがある。これを衣服でひた隠しにして、末端は硝子細工のように端正で脆弱な女の子の形をしているのだから恐ろしい。

 長いまつ毛が瞬くのを合図に、彼女がしなやかな指を弦に滑らせると、知らない音色が溢れ落ちた。暗がりに覗く色白の肩には骨に沿って汗が伝い、横顔には確かなエクスタシーが滲んでいた。カーテンが小さく揺らぎ、不意に射した日の光が彼女の秘部を照らし出すと、朝露がテラテラと光り輝いていた。その様相があまりにおかしく、素晴らしいまでに卑猥で、私はそれだけでひとりでに達してしまい、そのまま気を失ってしまった。それは不思議と、これまでになく安らかな眠りだった。

 ようやく目を覚ました時、彼女は自分の支度を済ませていた。こちらが彼女の導線を目で追っても当人はこちらを見ようともしないので、私はなんだか不安になった。

「どこかへ行くの……?」

 彼女は何も答えなかった。私は立ち上がろうとして自らの醜態に気づき、顔を真っ赤に染めてタオルに蹲った。下腹部のジクジクとした痛みが快く、まだどこか熱に浮かされているようだった。

「あなたって乱暴。あと、それに……綺麗」

 きっと気が動転していたのだ。我ながら不用意なことを口走ったと思う。

「私、ただ抱かれるだけの子に興味ないよ」

 彼女は乾いた口調でそう言い残すと、ギターケースを背負ってさっさと部屋を出て行った。私はひとり置いていかれてしまった。

 その時に思い返してみれば、結局のところ彼女は私の首から下の部分にだけ随分と夢中だった。それはもう凄まじい程に。かと言って幻滅する訳ではないが、私は衝動的に自分の唇に噛みついた。

 見渡してみると、あらゆるところが無頓着で、ガサツで、汚い部屋だった。化粧品が部屋中で散見され、衣装ケースは飽和し、下着は散乱し(私のものもある)、インスタント食品のガラがあちこちに積み重なっている。綺麗なものは住う女とギターぐらいのものだろうが、それも今は去ってしまった。私は掃き溜めにでも追いやられた気分で、訳も分からず欲情してしまい、そのまま惨めに涙を流しながら何度も自慰に耽った。そうしてようやく彼女の部屋を出たのだった。

 私を遊んで捨てた女はといえば、今まさに壇上で愛に訴えていた。

 こっちの気も知らないで。まったく愛だ何だと、このご時世になんてクサイ歌詞だろうか。そんなのイマドキ流行るものか。そんなものより、あの夜の私の胸の柔らかさで一曲作った方がよっぽど良いに決まっている。結構自信はある方なのだ。

 彼女は尚も巧みに弦を捌き、味わい深さを増す音色に詩を乗せていく。何も知らない観客はただ魅了され続けるばかりだ。私はちょっとハラワタが煮えくり返る思いがした。

 〝愛してる〟なんて、本当は誰にも言ったことがないくせに。アンタが本当に愛せるのはギターだけ。時には、私みたいに肉付きのいい女の子を好きなだけ食べたいだけなんだ。もう全部分かってるんだから。

 ──あぁ私はなんて面倒な女だろう。

 私はギターなんかに嫉妬している。あの指に、声に、唇に、毎日抱かれ愛されるあのギターが羨ましいだけなのだ。

「最後は新曲です」

 彼女が言い放つと、観客は名残惜しそうに囃し立てた。ピックを高々と掲げ、彼女が奏ではじめたメロディには、どういう訳か心当たりがあった。その音と共に想起されたのはあの光景だった。脳裏に焼きついて決して忘れることのないあの光景。あられもない姿でギターを掻き鳴らす彼女の美麗な様相だ。相変わらず歌詞はクサイが、リズムに乗る彼女の腰遣いはいつも以上に刺激的で、ギターは破廉恥な程に鳴り、唇は彼女の本性について雄弁だった。あるいは、私だけがそう思うのかもしれなかった。

 彼女は不意にステージ上から手を伸ばし、指で空中を下から撫で回すような淫らな仕草をしてみせた。私はその間、間違いなく彼女と目が合っていた。切れ長でやや鋭く、私を性的に挑発するようなハイライトの瞳。ついに私の怒りは頂点に達した。

 あの時と同じだ。最初に彼女を見た、あの時と。

 彼女はこの期に及んでまた私を誘惑したのだ。そしてそれは残念なくらい功を奏しているのだった。

 この酔いはきっと酒のせいではない。今すぐにでもまさぐりたいと身体が熱く、瑞々しい。下腹部から押し寄せる激しい波に膝が震える。もう立っているのがやっとだ。

 〝どうせ今夜も鳴かされる〟

 股に冷たい感触を覚え、私は不思議な諦念に満ちた。しかし、冷めるどころか、私は寧ろ沸き上がる劣情のために身震いをした。

 彼女のギターは今夜も愛に擬態する。

 獣の彼女を知ってしまった、羊の私を誘い出すために。

 ただで抱かれてやるものか。今夜こそ、私はそのギターより良い声で鳴いてみせるのだから。

 清い決意と共に口に運んだカップは、やはり空になっているのだった。

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