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 ぼくは自室から転がり出るようにしてアパートから走り出した。いつの間にか風の匂いが違っていた。吸い込む空気が蒸れた、夏の匂いがした。電動モーターサイクルで何ヶ月ぶりかの大学構内を走り、走り抜けた。第一講義棟の角を曲がって駐輪場に乱暴に自転車を投げ出し、ぼくは自分の足で走った。

 葉桜の下に、響子がいた。ショートカットの彼女だった。

 響子がこちらを振り向いた。

 ぼくは両手を膝について荒い息を整えていた。頬を伝って汗が地面にしたたった。

 ぼくは顔をあげて響子の顔を見た。

「ひ、久しぶり」

「うん」

「さ、さっきはありがとう」

「うん」

「そ、それで――」

 ざあっと風が鳴った。葉桜が大きく、揺れた。熱い風だった。

 響子が短い髪を押さえ、下から覗き込むようになっていたぼくには彼女の顔がよく見えた。薄紅をひいたように、響子の頬は紅潮していた。

 そうなのか――とぼくは思った。いま初めて響子の顔を見たような、そんな気がした。だからぼくは素直に言っていた。両手を膝に置いたままの、不恰好な状態でぼくは言っていた。

 どうだ、ECHO、これがぼくなりのアクティブなエコーロケーションだ。

「それを、言って欲しかったんだよ」

 響子はぼくの言葉に目を細めて、ぷいとそっぽを向いた。

 ぼくは少し脱力して地面に膝をついた。でもまだ始まったばかりだ、とぼくは顔をあげて響子に話しかけようとした。

 その、ぼくの視界の隅では大きく茂った葉桜の向こうから、夏の空を泳いでクジラ様の雲が立ち上がっていた。



【了】

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エコーロケーション 川口健伍 @KA3UKA

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