第11回 はるちゃんの秘密の部屋はどこに?

3


家に帰ったら、母親の姿がなかった。

徘徊するのは決まって深夜だから最初は散歩に出かけているんだろう、と思っていた。

でも日が暮れ、だんだんと不安になってきた。


母親が徘徊する時はいつもだいたい同じだ。いつも同じ道を歩いている。なぜ同じ道なのかはわからない。


けれど遠くまで歩いて行ってしまうと、また警察沙汰になる。足も弱くなっているからどこかの溝で、転んで立てなくなってしまう可能性だってある。


ヘルパーさんにその旨を書き置きをして僕は自転車に飛び乗った。


お母さん!


自転車を走らせながら、はるちゃんの出世の秘密を思い出して切なくなる。親というものの存在。母親のことを考えると不安が増幅する。


国道250号線をひたすら走った。彼方に母親が手押し車を押して歩いているのを見つけて涙が浮かんだ。幸せでもあったな。


「お母さん! 何しとるん。家から出たらあかんやんか!」


「あら、けい君」


「とにかく帰ろう。また警察呼ばれるで!」


「警察の人、怖いのよ」


「どこ行くんよ! いっつもいっつも!」


それには答えない母親。痴呆が随分とあるけど、説得して、家へ引き返した。タクシーを停める。自転車はチェーン鍵をつけて、閉店している喫茶店に置いた。


タクシーのなかでも母親は黙っていた。母親の手を握った。ひどく冷たく、薄着だ。冷えただろう。


「寒くないの?」


「あんたこそ、そんな薄着で」


「お母さんがおれへんようなるからやん」


「電話が脳にかかってきたからね」


よく母親はそう言う。家の電話ではなく、自分の脳にも電話があって、いつもメッセージがあると。いつものことだったけど、この日は母親はにっこりとして言った。


「リハビリにおいでって」


「リハビリ? たずみ病院の?」


「そうや」


「お母さん、リハビリは火曜日の午前中だけ。夜になっても病院は開いてないし、北村先生もいないし、先生は奥さんにもうすぐ赤ちゃん生まれるから、迷惑だよ。連絡もつかないよ」


「そう赤ちゃん」


北村先生はまだ20代の若くて背が高く、とても親切で、母親は毎週先生に食べ物を買って行った。


母親が少女のように見える。きっとそうだ。80近くになっても女性は少女なんだ。26の若い先生に恋しているんだ。


老いた女性な一途な恋心。僕は微笑み、車窓から外を見た。小粒の雨が降っている。


家に戻り、ヘルパーさんに睡眠薬を飲ませてもらい、母親がぐっすり眠るまで、手を握りあっていた。この手を先生だと思いながら。母親が少女の顔になっていた。


竜巻のような恋心は誰にでも起こるよな。

なあ、お母さん。


少し遅くなった。

おまけにはるちゃんから貰った名刺の地図がわかりにくく、目的の店まで随分と時間がかかった。


店はカラオケ喫茶の「サニー」。

ドアを開けると、ママが明るく客の歌に合わせて踊っていた。しかしはるちゃんの姿はなかった。


ママに問うと、もう帰ったと告げられた。ママもはるちゃんの携帯番号は知らなかった。僕ももう通じない番号しか知らない。


「呑んでいけば?」


「いえ。ありがとうございます」


傘をさして雨の中を1時間ほど歩き回った。だから三角公園のベンチに座っているはるちゃんを発見した時は嬉しかった。はるちゃん、コンビニを袋を持って、ビールを呑んでいた。僕の顔を見ると微笑んで言った。


「嬉しい」


「何が?」


「いなくなった私を探してくれたこと。ちゃんと見つけてくれたこと。けい君なら、ちゃんと私を探してくれると思ってたの。出会いに感謝してる」


「今日のこと?」


「わからん。さあ行こうよ。秘密の場所に」


「どこ?」


「ついてきな。パンダ君!」


はるちゃんは、立ち上がり歩き出した。僕はすぐ後ろを歩いた。秘密の場所はそこからすぐだった。


はるちゃんはとあるマンションの階段を登った。マンションと言っても小さな一軒家に見えた。3階建。


「不動産屋を回ってみて見つけてん。でも私はここに住むんじゃないの。ちょっと面白い物件だったから、不動産屋さんが鍵を隠す場所を見てたんよ。でも高いしなあ。ほら、あった。ガスメーターの裏。入ろ?」


「電気は?」


「ない。けど、蝋燭を隠してる。私、何度か侵入してるから」


ドアを開けてはるちゃんがなかに入った。僕も玄関まで入ったところで気がついた。


僕の今日の靴下には穴が空いている。だから少し恥ずかしくて立ったままいた。


「どしたん? けい君?」


「靴下に穴が空いてるから」


「何よそれ? そんなこと気にしとるん? 可愛いのー。暗くて見えんし、どーぞ」


それからはるちゃんは蝋燭を燭台に立てて、ライターで火をつけた。


二人で並んで空っぽの部屋の壁に持たれながらビールを呑んだ。コンビニの袋にはビールがたくさん入っていた。はるちゃんが言った。


「きっと運命。運命的な出会いは、部屋にもあるし、店にも、人にもある」


「あの人のこと?」


「うん。なんにも好きになれなかった私がいろんなものを愛し始めている。私、もうボロボロだったから」


「おいでよ。好きだよ。はるちゃんの心が」


「そんなこと今言われたら、けい君の胸に飛び込んでしまいそう。でもボロボロだから。ボロボロの私はひとりで、たったひとりで愛を探してたいんよ。私、踊りたくなった。見てて。子供時代のバレエ」


「子供時代も好きになれる?」


「なれない。だから、踊るの」


はるちゃんは立ち上がり、バレエを踊った。それはこれまでの人生で見てきた何よりとても美しい光景たった。何もかもを受け入れ、愛そうとしているはるちゃん。はるちゃんは踊り続けた。


それが運命一夜であることに僕たちはまだ気付いていない。

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