第041話 カフェ・クリソコラ

 陽が、東の山々から姿を現す頃、膨らんだ泡が弾けるように目が覚めた。

 見慣れた天井がある。

 淡い青を残す空気が満ちている。

 窓の外では日の出前から動き始めた人の気配はあっても、音と音の間隔は長く、しん、とした静けさが漂っていた。

 穏やかな時間の中でもう一度目をつむり、息を吸う。

 一瞬前まで見ていた夢は、肌の上を滑り落ちた羽毛のように消えていった。今はただ微かな記憶として残った優しい感覚を噛みしめ、エネルギーが満ちるのを待つ。

 扉は閉めていても、春の花の匂いは染み入る水のように僕を満たしていた。


 この一年の、朝の習慣は変わらない。

 天気のいい日は窓を開け放ちベッドメイクする。身支度を整え、今日やってしまわなければならないこと――例えば洗濯や掃除を簡単に片づけてしまう。

 元々借り物の部屋だということもあって物の数は少ない。荷物は少し大きめのバックパックひとつに収まってしまう。それでも、そろそろ出番のなくなってきたコートやショートブーツまでは入らないか。


 いつもより少し早めの時間に、僕は三階にあるカフェに下りた。

 早朝にもかかわらず、女主人マスターは既にカウンターに居て、朝のお茶の湯を沸かしていた。軽く摘まむモーニングプレートまで用意されていて、僕は思わず頭を下げる。


「おはようございます」

「おはよう。今日は早いね」

「メンテナンスの業者さんが来る前に準備しておこうかと思い、早めに来てしまいました。朝食も。なのに、もう準備万端なんて」

「そんな予感がしたからね」


 先手を取ったとでも言うように唇の端を軽く上げて、マスターは、ふふふと笑う。

 いつもと変わらない。色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、てろんとした生地の若苗色のシャツをラフに着ている。タイトな膝丈のスカートにサロンエプロン姿。流れるような仕草でゆっくりと蒸して淹れたお茶は、目覚めの体を温めてくれる白茶だ。

 カウンター席に着きながら、そう言えばこのカフェで働き始めた頃は、朝食は取らないと言っていたように思い出す。いつの間にか、すっかり健康的な食生活になってしまった。


 朝食を取りつつ、今日の空模様や最近出した新メニューの反応など、他愛ない話をしている内に薪ストーブのメンテナンス業者が到着した。

 慣れた手つきで煙突を外す。引き取った後で手入れをして、また必要になる秋まで保管してくれるのだという。毎年のことなのかストーブはあっという間に撤去され、運び出されていった。

 ガランとやけに広くなった店の中央を見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。


「ついこの間ストーブを設置したように思うのに。早いですね」

「そうだね。今年は特に、時の流れが早く感じるよ」


 床を掃除しモップで拭いて、夏用にテーブルや椅子を配置し直す。

 開け放したテラスからの涼やかな風が、花の匂いを含みながら通り抜けていった。気温の上りが早い。思ったより暖かい一日になりそうだ。

 テーブルを拭きながら外の様子を見ていると、元気に階段を上って来る音が響いた。いつもできたてのクロワッサンを届けてくれるパン屋のマキさんだ。


「まいどでーす!」


 声と、カランという音と共に扉が開く。ぴんとショートヘアが跳ねた明るい顔のマキさんは、美味しい匂いを振り撒きながら、大きなトレイをカウンターに置いた。

 幾層にもなった三日月形のクロワッサンや色鮮やかなフルーツを盛ったデニッシュは、こんがりとした綺麗なキツネ色と相まって、軽く噛んだ瞬間のパリッとした音すら聞こえてきそうだ。

 たった今食事をしたばかりだというのに、ひとつ摘んで食べたくなってくる。


「今日もいい具合だね」

「はい! 季節に合わせた仕上がりにも、自信がついてきました」


 にっ、と白い歯を見せる笑顔が眩しい。

 そのまま僕に顔を向けたかと思うと、つんつんと腕を突いてイタズラっぽく見上げた。これは何か良くないことを企んでいる顔だ。


「ガーデンの新しいアバター、知り合いに作ってもらったんだって?」

「え……ど、どうして知ってるんですか?」

「りーちゃん情報。すっごいカッコイイって、きゃいきゃい言ってるメッセージ届いてた」


 思わずどもりながら尋ねると、笑って答えた。

 以前いたスタジオのスタッフ、アサミさんから新しいアバターをデザインさせて欲しいと言われたのは、先日ダイブした三次元仮想空間メタバース〝オパール・ガーデン〟からログアウトする間際のことだ。僕の一人立ち記念ということらしい。


 初期に設定した……実年齢とかけ離れた幼いアバターのままだったから、設定し直さなければと思っていた。正直、人のデザインは苦手なので渡りに船だったこともある。

 アバターデザインはアサミさんの得意だし、きっとセンス良く作ってくれそうだと思い、お願いした。


 アサミさんは、「とびきりイケメンに作ってあげる」と、大喜びで答えた数日後、気合の入ったデザインが贈られてきて僕は固まった。しかも既にリラの木の下で出会った――マキさんたちにりーちゃんと呼ばれている彼女に、新しいアバターを用意しているところだと伝えてしまっていた。

 ガーデンに彼女を招待した時、まったく見知らぬ顔のアバターだったら戸惑うだろうと思ってのことだ。今更、隠しておくこともできない。

 いちおう現実リアルの僕から、ものすごくかけ離れた姿というわけではない。ただちょっと、いろいろ……補正が入っている、ということで……。


「見せてよ。見たいなー。玲くんのおニューアバター」

「あぁ、いやその……」

「ちらっと、ね、ちらっと」


 言われて詰め寄られている所に、店の扉が開いた。

 重なる時は重なるもので、珍しくモーニングを食べに来た常連のカナコさんにまで、アバターの件が知られてしまった。

 こうなっては、抵抗しても無駄だ。

 タブレットで貰ったデータ画像を表示すると、カフェに歓声が響いた。マスターまでもが肩を震わせて笑っている。


「なにこれ、いいなー」

「ちょっと! スタジオ・アメトリンの青木 麻実あさみって有名なデザイナーじゃない。知り合い!?」

「あ、いや……以前いた所のスタジオの同僚で……」

「……って。もしかして〝ジーンの家〟の玲って、君?」


 カナコさんが口をぽかんと開ける。

 秘密にしていたわけではないが、あえて話すタイミングが無かった。いや、ずっと、記憶から消そうとすらしていた。けれど今はもう違う。

 自分が携わった物に、自信を持って答えることができる。


「はい。その……そうです」


 カナコさんとマキさんが顔を見合わせる。僕に向き直った表情は、面白いオモチャを見つけた子供のそれだ。結局二人は、戻りや出社時間のぎりぎりまで、僕のアバターやガーデンの話題に花を咲かせて店を後にした。

 過去に向き合おうとしていなかったら、きっとこんなふうに話せなかっただろう。

 もちろん、僕一人の力で成し得たんじゃない。たくさんの人の助けがあったからだ。


 後悔も不安も無く、気負いも無く目の前のものに触れることができる。それはとても幸せなのだと思う。


 いつになく賑わったランチを終えて、お客さんの切れ間にマスターと賄いご飯を取る。

 色と形、味と香り。立ち上がる湯気。作り手のぬくもり。そのひとつひとつをじっくりと楽しみ、記憶に収める。

 ただ漫然と放浪していた頃は、目の前のものを見ているようで何も見ていなかった。意味のあるものだということに気づきもしなかった。


 窓の外に顔を向ける。


 春風吹く花の季節。


 眩しさに瞳を細めても、もう、視線をそらすことは無い。


 マスターが、カチリ、と軽い音を立ててテーブルに茶器を置いた。

 白地に淡い黄色の花びらを散らした、華やかな模様が刻まれている蓋碗がいわん。一呼吸待ってから蓋を少しずらして小さな湯呑に茶を注いだ。

 華やかな香りが広がり、流れていく。


 あの日に貰った最初の一杯、茉莉花まつりかのお茶だ。停滞していた気の巡りを、動かしてくれたもの――。




「飛び立つ準備はできたかい?」




 ゆったりとした声が尋ねる。

 僕は真っ直ぐ顔を向けて答える。


「はい」


 答えてお茶を飲み干し碗を置いた。

 行先を定めた旅人として、僕は風の流れと共に行く。どこまでも。

 

「重い物は置いて行くといい。必要になればまた、取りに来るといいさ」


 頷いた僕はエプロンを外してたたみ、カウンターに置いた。

 小さなテーブルの並ぶ、テラスのある店。その何もかもが今、光の中にある。




「ありがとうございました」




 マスターに見送られ、僕は必要な物だけを持って店を後にする。旅立ちはここに来た時と大きく変わらない。手に馴染んだ自転車とバックパックがひとつだ。


 二階の飯屋「飯屋・赤瑪瑙あかめのう」のスタッフに会釈して、擦り切れ黒ずんた手すりを横に、何度も往復してきた古い階段を下りて行く。

 苔が、まだら模様となって浮かぶ壁に囲まれた中庭。

 赤茶けた色のタイルがモザイク模様に並べられた床。春に芽吹き緑を散らした樹々と花に溢れる古い鉢。揺れる木漏れ日。倉庫の隅に置いていた自転車を出し、僕は手押ししながら薄暗い通路を抜ける。

 石畳の通りは、行き交う人で賑わっていた。


 振り返り見上げた通路の入り口近くに、「Café Chrysocolla」と小さな看板がある。マスターの言葉が記憶の底から蘇る。


 ――ここは、この場所が必要な者なら、誰でも訪れることのできる場所だよ、と。


 いつの日か再びここを訪れた時、マスターは言うだろうか、「いらっしゃい」と。それとも、「お帰り」の言葉と共にエプロンを受け取り隣に並んで、お客さんを迎えるだろうか。


「そのどちらでも、幸せだ」


 自転車に乗り、僕はペダルを踏む。


 見て、聞いて、触れていくもの。それは一杯のお茶のように心と身体からだの隅々にまで広がり、満たし溢れ、力になっていく。

 前へ進むための原動力になる。







END © 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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Café Chrysocolla 管野月子 @tsukiko528

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