砂の音が聞こえる

潮風凛

砂の音が聞こえる

 友達に貰った砂時計が割れた。

 どこにでも売っている、小さな砂時計だったと思う。ありきたりな、木枠に硝子容器の。中に入っている砂は銀混じりの灰色で、傾ける度に光の粒を放ちながらサラサラと音を立てた。


 ――サラサラ。サラサラ。

 硝子から解放された光の粒が、アイボリーの小さな書物机の上を流れる。


 どうしてその砂時計を貰ったのか、私はあまり覚えていない。誕生日か、クリスマスか、何かのお土産か……。理由なんてなかったのかもしれない。理由もなしに誰かに贈り物をするとか、彼女はそういった些細で悪戯めいたことをするのが大好きな人だったから。


 ――サラサラ。サラサラ。

 時を刻む仕事を奪われた砂が、意味もなく乾いた音を立てる。


 彼女は、キラキラとした太陽のような笑顔で笑う人だ。私よりずっと明るくて社交的で、けれども誰よりも繊細で優美な感性を持っていた。

 贈り物が好きなの。そう言って子供みたいにはにかむ顔を知っている。彼女は、物心のついた頃から共に月日を過ごしてきた私のことを親友と呼んだ。が、私は彼女のことが好きだった。いつからなどという野暮なことは覚えていない。ただ、ずっと恋焦がれていたのだ。

 しかし、彼女には想い人がいた。彼女と同じ会社に勤務する、ひょろりと背が高い男性。彼らは互いを想い合い、既に結婚の約束も決めていた。私は諦めるしかなかった。

 だが、長年胸に燻った想いがそう簡単に消えるはずもない。私は秘めた想いを吐露する代わりに、繰り返し彼女の夢を視た。


 ――サラサラ。サラサラ。

 机に広がった銀の砂漠が、乾いた滝になって床に零れ落ちる。


 アイボリーの机の隅に手をやって、床に落ちようとする砂を受けた。かつて砂時計だった硝子の破片が混ざっていたのか、私の掌に赤い小さな傷を幾つもつける。夜明けを待つ月光の部屋で、その銀と赤だけが輝いているようだった。受け止めきれず溢れた砂と滴る赤い雫を眺めていた私は、そのまま眠ってしまったのだろうか。いつもと同じ夢を視た。


                  *


 そこは、夜の砂漠だった。

 ぽっかりと白い月が浮かぶ、銀の砂漠だ。大小の岩がゴロゴロと転がっている他は、ただ海のように波打つ銀の砂が広がっている。暑いとは感じない。そういえばどこかで、砂漠は夜になると寒いのだと聞いたことがある。確かに足元から這い上がってくるような冷えを感じたが、額を流れる汗の粒とは対照的に全身を襲う震えは寒さのせいではなく、己が今両手で抱えているもののせいだろう。


 ――サラサラ。サラサラ。

 風に舞い上がる砂塵の音。それ以外は、怖いぐらいの静寂。


 私は両手でライフルを抱えて、手頃な岩陰に隠れていた。この砂漠は戦場で、私はひとりの兵士なのだ。私は銃に詳しくないのでこのライフルの種類を知らないし、もちろん現実では扱ったこともない。だが夢の中の自分は、震えながらも当たり前のようにライフルを構えている。岩の向こうにいる、「敵」と呼んでいる人々の命を奪うために。


 ――サラサラ。サラサラ。

 肌に当たる砂の感触が気持ち悪い。霞む視界は周囲が無人であると錯覚させる。


 震える身体に鞭打って、私はライフルの銃口を岩の向こうに向ける。スコープを覗き込むと、舞い上がる砂埃に紛れて彼女が見えた。

 彼女は敵だったのだ。戦場に立つ彼女は普段よりも飾り気がなくて、それがとても綺麗だった。舞い上がる長い栗毛と意志の強い瞳に、私は思わず目を奪われる。きりりとした双眸は涙に濡れていた。小さな紅い唇が何かを呟いた気がするが、私には届かない。薄い胸に守られた心臓に銃口を向け、私は無言で引き金を弾いた。


                     *


 まだ、私達は砂漠にいる。だが時間は大分経ったようだ。

 普段は引き金を弾いて終わる夢がまだ終わらない。夢の続きを見るのはこれが初めてのことだった。

 空にはまだ、ぽっかりと浮かぶ白い月。戦闘は一時的な終結を迎えたようで、静寂に変わりはないが息の詰まるような緊張感は無くなっている。私は深い溜息を吐いた。


 ――サラサラ。サラサラ。

 僅かに吹く風は砂とは対照的に湿り気を帯びて生温い。微かな雨の気配。


 私は、朽ちて風化しかけた巨木の幹にもたれかかっていた。周囲を視線だけで探っても、抱えていたはずのライフルは見当たらない。代わりに、彼女がいた。

 彼女は同じ木の幹にもたれかかり、私の方に頭をもたげて目を瞑っていた。その肌はぞっとするほど冷たく、この距離にいても彼女の呼吸音も心音も聞こえない。私の肩口を濡らすのは、彼女の唇から零れ落ちる血。全身を鮮血でしとどに濡らして、彼女は死んでいた。私が殺したのだ。


 ――サラサラ。サラサラ。

 砂の音は次第に小さくなっていく。時を止めてしまったかのように。


 私は銃口を向けたはずだが、彼女はナイフで滅多刺しにされて死んでいた。ライフルの弾だけでは死ななかったのだろうか。一方の私も全身に傷を負っているようで、生き延びてはいるもの身体を動かすだけでも億劫だった。多分、彼女に抵抗されたのだと思う。彼女は私の敵だったのだから。

 恨みはない。彼女が私の味方の誰を殺そうと、私の何を壊そうと、私が彼女を恨むなど有り得ない。ただ、最期に彼女がここにいることが私の全てだった。私は微笑み、痛む腕で彼女の冷え切った身体を抱きしめた。


 ――サラサラ。サラサラ。

 砂は死者を悼まない。何故ならそれこそ、完成された終わりの形だから。


 どのくらい経った頃だろう。永遠とも錯覚するほどに時が止まった空間に、土足で踏み入れる無粋な足音が響いた。

 複数の話し声が聞こえる。私か彼女か、どちらかの味方が探しにきたのだろうか。

 どちらにせよ、見つかるわけにはいかなかった。私と彼女は敵同士。誰に見つかったとしても、引き離されるのは必至だからだ。

 私は何とか身を起こすと、彼女を背負って歩き始めた。乾き、時の止まった空間を離れる。新たな、二人でいられる場所を探して。


 ――サラサラ。サラサラ。

 どこを歩いても砂の音が止まない。もうこれが夢か現実かも分からない。


 自分の歩く足音が響く。様々な人の声が聞こえていた気がするが、誰かは分からない。もう二度と聞くことができない彼女の声しか、私は興味が無い。彼女のどこか甘さのある明るくはきはきとした声を思い出して、私は僅かに頬を緩めた。


 ――サラサラ。サラサラ。

 何もかも押し流すような砂の音。それは、広がる海のざわめきにも似て。


 多分、上へ上へと上がっていたように思う。気がつくと、私達の目の前には海が広がっていた。

 夜の海は底なし沼のようだ。さざ波の向こうには、魔物の口腔を思わせる不気味な闇が広がっている。水面を揺らす波は静かで、あの砂時計にも似たサラサラという音を立てている。まるで、あの場所からここまでひとつに繋がっているよう。


 ――サラサラ。サラサラ。

 砂の音が誘う。砕け、崩れ、形を失い、ひとつに溶け合うように。


 遠くでは、まだ誰かの声が聞こえていた。私達にはもう逃げる場所も、逃げる力も残っていない。ここを、私達の終着点にするしかなかった。

 だが、何を怖がる必要があるだろう。私はただ満たされていた。彼女と共にあることを喜び、彼女とひとつになることを望んでいた。

 だから、私は彼女と共に己の身を海に沈める。


 ――サラサラ。サラサラ。

 水に舞い上がる銀の砂。奏でる音は、もう聞こえないはずなのに。


 私と彼女の身体が、海の底でひとつに溶け合う。波に晒され、朽ちて、形を失い、長い時を経てひと握りの砂になる。その未来を夢想しながら、私は彼女の冷たい唇に口付けた。


                 *


 六月某日、とあるホテルの屋上プールで二人の女性の死体が発見された。

 うち一人の死因は全身の傷による失血死。もう一人は溺死と推測される。

 後の身元調査によって、彼女らはこのホテルで結婚式を挙げたばかりの花嫁とその友人の関係にあったことが判明した。

 どのような経緯でこの事件が起きたのか、詳しい調査は後日行なわれることになっている。


 ――サラサラ。サラサラ。

 砂の音が、今も響いている。虚構ゆめと現実の狭間で、これは全ての終わりの音色。


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