綴られぬもの――6

 まただ。ダンは口の中で唾が苦くなっていくのを感じていた。

 人の暗部に直面した時、理想は幻想でしかないのだと思い知らされる。そしてそんな理想を信じる自分が、愚かに思えてくるのだ。


「おいラル、起きろ。ラドルファス!」

 オルゼは長髪の男を軽く蹴った。

「やっぱりアンタだったか」

 テオが言うとオルゼはこちらを見ないまま「うん?」と返した。その邪気の無さにダンは余計怒りを覚えた。

「船代を渡した時、アンタの手には豆が無かった。七年も船を漕いでいたなら豆くらいある筈だ。それに俺たちがトリスタンにいる事を知らないと傭兵をけしかけたり出来ないからな」

 テオの声には怒りが見えなかった。表情も変わらない。ノーランの時もそうだった。テオ・ブルーアイズという男が、ダンには時々分からない。お前は怒らないのか。落胆しないのか。ならばお前は何の為に向き合っているんだ――。

「俺に手出ししない方がいいぜ」

 動こうとしていたヴォイドが止まった。テオと違って話し合いに応じるつもりなどヴォイドにはない。目の前にいるのは国王の殺害未遂という大罪を犯した者たちだ。それでもヴォイドが止まったのはオルゼの危険性を感じ取ったからだった。脅しではなく、何か強大なものに裏付けされた自信がその笑みに張り付いている。

「どういう意味だ」

「命が惜しけりゃあな!」

 オルゼが丸太を拾い上げ、勢い良く水に投げ入れた。

「うわっ」

 今度はテオたちの船が傾く。いつの間に括り付けたのか落とされた丸太と船が繋がっていた。

「またな、記録作家さん!」

 今にも船から放り出されそうなテオたちを尻目にひらひらと手を振り、オルゼの船は橋の向こうへと消えた。



「ハァ……クソッ」

 結局仲良く河に落ちた三人は岸へ上がり、揃って服を絞った。

「どうする」

「止めに行く」

 ダンの問いにテオは食い気味に答えた。いや、独り言だったかもしれない。テオはぼたぼたと水を滴らせながら一人王宮のある方を見つめていた。その目を見た時、疑問が燻っていた頭の隅が晴れたような気がした。

 そうだ。幻想と知ってこそ、理想を追い求めるのだ。何の力も持たぬこの男が迷いなく奔走するように。ただ――真実の為に動くように。

 ダンは濡れた髪をかきあげ、大人しく待っているナイトレイドの馬を呼んだ。




「では、私はここで」

 紳士が扉を開け、頭を下げた。馬車から降りたルシカとロゼは揃って怪しげな空模様を背負った城を見上げた。

 濁った青は昼か夜かも曖昧だ。天候が味方してくれないというだけで不安がチリチリと大きくなる。テオが側にいない事も関係しているかもしれない。ルシカは息を吸い、背筋を伸ばした。

「じゃあコルルとレインをお願いします」

「お任せを」

 紳士を乗せた馬車を見送り、二人は城の入り口へ向かう。

「テオたちは間に合ったかな」

 ロゼはストールを巻き直して言った。

「この先に王様が無事で立っていれば間に合ったという事さ」




      *




「本気で言っているのか?」

「調録式に続いて晩餐会まで中止にすればハウイエが気を悪くする。陛下のご意志だ、やらざるを得ん」

 詰め寄るダンを牽制しながらヴォイドが言った。

 城に着いてすぐにヘンドリクセンと話したヴォイドは広間の横にある小部屋で待つテオとダンに会が予定通り行われる旨を伝えた。どんな時も冷静さを欠かぬ側近は少し悔しがっているような素振りを見せた。

 テオは次々と広間に入って行く人々を見遣った。晩餐会が行われる大広間は既にいっぱいだ。

「こうなる事も読んでいたんでしょう」

 広間に運び出す燭台や椅子が詰め込まれたこの小部屋は扉は無く、外から一段下がった造りになっている。ダンは短くため息をつき入口にもたれた。

「この中でどうやって見つけ出すんだ?」

「警備には伝えてある。だがあまり固めると……」

「裏をかかれる。ところで、オルゼの素性は分かりましたか」

「いや、馬車の客たちから事情を聞けるのは会が終わってからになる」

「アンタは陛下の側にいなくていいのか?」

「陛下にはナイトレイドがついている」

 ナイトレイドの実力は証明済みだが、それでもダンは王が正気とは思えなかった。するとダンの考えを読んだようにヴォイドが付け足した。

「私と彼は表裏一体だ。彼が守りに付くなら私は攻めに転じる。陛下に手出しなどさせるものか」

 おやと別の声がして三人は同時に振り返った。

「こんなところで何をしておいでかなヴォイド殿」

 口元に薄く笑みを浮かべたレーゲンが、燭台を手に立っていた。窪んだ黒い目が明かりの少ない部屋でさらに引き立ち、正装に身を包んでいてもどこか死の気配がしそうだった。

「人手が足りなくて手伝いを頼んでいた。貴殿は何の用だ」

「見ての通り、壊れた燭台を取り替えに。何故か私のような者まで駆り出される事態らしいのでね」

「そうか。邪魔なようだから我々は出よう」

「何かありましたかな」

 さっさと出て行こうとするヴォイドの背中にレーゲンが問い掛けた。

「今のところは何も」

 ヴォイドは短く言い、テオとダンを連れて部屋を出た。

「あの男が裏にいるんじゃないのか?」

 廊下の隅に移動した三人は柱の影で立ち話する客に紛れた。

「テオが捕まった時に庁舎で見掛けたが」

「あれには見張りを付けている。フロイドへは別件で来ていたようだ。オルゼ・ポーラーとの面識は無い」

「オルゼの名前を知ってるんですか?」

 テオが顔を上げた。

「ハウイエの招待者リストに名前があった。どうやって入ったのかは不明だが」

「ハウイエの招待者……」

 テオは広間とレーゲンが持って行った燭台が置かれた長机を見た。

「効果があるかは賭けですが……やって欲しい事があります」

 ヴォイドはテオと視線を合わせ、頷いた。



 陽が落ち、整然と並んだ客とテーブルが広間に収まっている。白いクロスの上に置かれたグラスと葡萄酒が燭台の火を映し、じっと待つ人々の視線の先で、男がゆっくりと立ち上がった。

「改めて、ヨルノリアへようこそおいで下さいました」

 ヘンドリクセンが厳粛な声を轟かせた。

「今宵は大切な客人に敬意を表し、その文化にならって食前の祈りを捧げたい」

 そう言って自身のグラスを手に取ると客たちが一斉に立ち上がった。厳かに東を向き、讃美歌の一節を唱和し始める。その様子をテオたちは広間の隅で瞬きもせずに凝視していた。

「いたか?」

「一人。ラドルファスと呼ばれていた男です」

 ヴォイドはテオの指した先を睨んだ。



『儀式?』

 テオが思い付いた策はハウイエに古くからある、食前酒を前にした祈りの儀式を行うというものだった。

『彼らはハウイエの人間ではない可能性が高い。古い文化に詳しくないかもしれません』

『ガラードが着ていたのはハウイエの甲冑だったぞ』

『ハウイエの人間に成り済ましているんだとしたらどうだ? オルゼはヨルノリアの名前だがポーラーの名はハウイエの女性に多い。彼女はヨルノリアとハウイエの両親を持っているんじゃないか?』

 ヴォイドが眉を寄せた。

『あまり現実的な話ではないな』

 昔のハウイエとヨルノリアの関係は今と比べて良いとは言えず、法で禁じられてこそいないが結婚しようなどと考える者はほとんどいなかった。

『おそらく何らかの事情で幼い頃にヨルノリアへ渡り、今回ハウイエへ戻った。そして招待客に成り済ました。ハウイエでは記録の無い人物は作りやすい』

『何故陛下を狙う』

『彼らの正体は死の商人……戦争を起こして儲けるのが目的です』



「私は隙を見て奴を捕らえる。お前たちは残りの二人を探してくれ。どこかにいるはずだ」

 ヴォイドは言い残し、同行する兵を呼びに行った。程なくして儀式は終わり、皆が席に着き食事を始めた。テオは六年前にここを訪れた時の事を思い出した。



『この度はご即位おめでとうございます』

『ありがとう』

 王宮の中で最も豪華なこの場所には先程まで祝福する人々が溢れていた。盛大に飾り付けられた大広間はいつか見た部屋のように、そこに立つ者の孤独を際立たせた。

『……大丈夫ですか』

 微笑んだヘンドリクセンの顔色が悪いのでテオは出て行こうとした足を止めた。

『私の元へ届く皆の声の中には悪いものもある』

 新たな王が口にする理想は美しくも果てしないものだった。

『それらを溢さずに聞こうとすればするほど突き刺さる……これが現実だ』



「テオ!」

 ぐいと強く肩を引かれ、テオは意識を戻した。ダンの視線を追うとハウイエの王と談笑するヘンドリクセンが見えた。そして彼を囲む人々の中に、オルゼがいた。

「クソッ」

 ダンが人の合間を縫って近付こうとする。だがテオたちがいるのは広間の真ん中あたりで、入り口近くのヘンドリクセンまでは距離がある。

 突如ぬっと現れた巨大な影に、ダンが止まった。テオも影――ガラードを見上げる。鎧を着ていなくても巨大な体がオルゼに近付けまいと立ちはだかった。衛兵が気付いて駆け寄ろうとしたがテオは首を振った。ここで騒ぎにしたらオルゼの思う壺だ。その一瞬をついて目的を成し遂げてしまう。

 互いに何を仕掛けるでもない硬直状態が生まれる。このまま時間稼ぎに付き合っていたら先にこちらの手札が尽きる。

「手持ち無沙汰なら私がお相手しよう客人殿」

 割って入ってきたのはナイトレイドだった。今度はヴォイドがヘンドリクセンの側に付いているが、オルゼには気付いていない。ラドルファスは捕まったのだろう、ガラードの仏頂面が硬くなるのを見たテオはするりと脇をすり抜けた。

 ――まだ間に合う。何度も人や物にぶつかりながら走った。左右の視界が直線状にぼやけていく。


『聞こうとすればするほど――』


 テオは僅かに走りを鈍らせた。嫌な考えが脳裏を掠める。もし、そうだとしたら。

 ヘンドリクセンはオルゼに気付いていないのでなく、その声を聞こうとしているのだとしたら――。

 その時、オルゼが懐からナイフを取り出すのが人垣の隙間からはっきりと見えた。


 悲鳴がひとつ、上がった。次々と振り返る人々の視線に射抜かれているのはヘンドリクセンでもオルゼでもなかった。

「ケーキはあっちよ」

 オルゼの腕を掴んでそう言ったのは給仕の格好をしたルシカだった。

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