第5話

 気が付くと、机に突っ伏していた。時計を見る。


 「四時過ぎか……」


 あまり時間はたっていなかった。ルールブックも、最初の数ページが開かれたまま。どうやら思っているより疲れてはいるようだ。


(寝よう。集中できないまま読んでも、入らない……彼女が休んでいる以上、今は安全と信じるしかないしな……)


 空調が効いているとはいえ、夏の夜はやはり寝苦しいのか、明日香は半分ほど布団をはだけ、その一部を胸に抱くようにして眠っている。あらためてベッドで休む少女の姿を見て、慧也けいやは緊張の生唾をゴクリと飲み込む。


 この少女の隣に空いているスペースにもぐりこむことに、若干の抵抗と期待が交錯していた。


「いいんだよな……」


 誰に許可を求めるでもなく、一言つぶやいて彼女の隣にそっと横たわる。


 さっきすれ違いざまに香ったシャンプーの香りや、少女独特の甘い体臭にくらっとしつつ、かろうじて自制をしながら背中合わせになる。


 本当に彼女は機械なのだろうか? 体幹部は生身だと言っていた。そもそもこんな技術が人類にあるのだろうか。自分が開発している兵装の基礎理論は、確かに今までの人類の兵器に対する考え方を根底から変えるようなものも含まれている。だが、ここまでの芸術品を作り上げるには、人類の根幹技術は未熟であるはずだ。それは、技術の最先端で研究を続ける慧也にはわかる。


 そう、芸術品なのだ。


 もし、いや、もしではない。実際に目の前で見せられた機械兵装。あれが彼女の体を形作っているものの一部だとすれば、今隣で眠っているこの身体は、芸術品と言っても差し支えないものだ。


 背中越しに体温が伝わり、寝息が聞こえる。あまりにも無防備なその姿は、戦闘時の彼女からは想像しがたい。


「ん……」


 明日香が寝返りを打った。一八〇度回転して、慧也の背中から抱きつくようにしなだれかかる。


(うわ! こら! 胸が当たる! なん……)


 なんてことを、と心中叫びかけて、言葉が途切れた。


 自分の頬に当たっている明日香の二の腕のが持つ、金属特有のひんやりとした感触。その冷たさが、この腕が人の身体でないことを物語っていた。


 思わず慧也はその腕に触れていた。皮膚は白く美しく、弾力もあり普通の女の子の腕に見える。しかし、血の通っていない腕は無機質に、そして無慈悲に冷たい金属の中身を思わせた。


 慧也は目の前にある細い指をした小さな手を握った。少しでも自分の体温をそこへ移そうとするかのように。


 しばらく握っていると、確かにその小さな手は温もりを持つ。しかし、放してしまうとすぐにそれは冷たい無機質な物に変わっていく。当然だが、脈もない。しかし、背中にあてがわれた身体からは体温を感じる。


 心臓は動いてるんだろうか? 


 ふとした疑問が頭をよぎった。慧也はゆっくりと体を起こし、明日香の方に向き直る。無防備な寝顔をさらしながら、小さな胸が寝息に合わせてわずかに動いている。慧也は、心臓の鼓動を確かめようと胸に手を伸ばした。その時。


「慧也様は寝込みを襲うのが趣味なのですか?」


 今の今まで寝息をたてて眠っていたはずの明日香の瞳が、慧也を凝視していた。若干のジト目で、と感じたのは慧也の後ろめたさがそう思わせたのかもしれない。


「え。あ。いや。これは……」


 明らかに少女の胸元へ伸びようとしている手は空中で止まっている。言い訳できる体勢ではない。


「別にかまいませんけど。私には人権はありませんから、何をしようと人道的な罪に問われることはありませんよ? それに、今さらこの身体をどう扱われようと、私には無意味なことですから」


 さらりと、少女は言ってのけた。その言葉は慧也の胸に突き刺さる。


 なんなんだ? この世界は。彼女が生きている世界は。


 慧也は震えた。年端もいかない少女がここまで諦観に達する何があるというのか。


 自身が所属する組織にうすら寒さを覚えると同時に、何とかして深く知る機会を得なければ、と思う。


「するのですか? しないのですか?」


 どうでもいいと言った感じで、明日香は口調だけは丁寧に尋ねてくる。慧也は誤解を解かねばならなかった。


「い、いや、これは、君の心臓の鼓動を確かめようと思って……」


 あまり言い訳になっていないその言葉に、少女は沈黙で答えた。


だが、しばしの間をあけ、彼女の華奢な手が所在無げに宙を漂っていた慧也の腕を取って、自分の胸に導いた。


「え、ええっ!」


 その手の先にあるふくらみは、慧也の手のひらに収まってしまうほど幼い。しかも、寝間着である以上ブラはしていない。慧也の手のひらには、そのふくらみとともに、小さな突起の感触すら感じられた。


「一応、心臓はありますので。存分にご確認ください」


 慧也の驚きにも羞恥の色さえ見せず、彼女はやはり事実だけを語る。


 やわらかい。あたたかい。そして、そこには確かに鼓動があった。


「あ、ありがとう……」


 意味不明な謝辞が口を突いて出る。


「ご納得いただけましたなら、早くお休みください。ゆっくり眠れる日は今日しかないかもしれませんよ? それから、一応あなたは初の合格です。では、おやすみなさいませ」


 慧也の手を放すと、明日香は再びぱったりと眠りに落ちた。


「ご、合格?」


 その言葉の意味を測り兼ねつつ、初めて触れた女性のふくらみに、慧也の意識は再び覚醒した。だが、ルールブックを読破する気力もなく、ただ悶々と眠れぬ夜を過ごす羽目になった。


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