ブリュンヒルデの歌

 仲間を失っても、彼らの目の前には果てのない海が広がっている。

 ジークフリートはブリュンヒルデの背中にしばらく顔を伏せていたが、やがて上がったそのおもては、軍人としての勇ましさが宿っていた。

 いつしか星空を覆っていた雲が去り、紺碧に白い筆をさっと散らしたような星々がひかり、海に鏡のように映っている。

 あまりにもうつくしい世界を、彼らは無言で漂っていた。

 人魚たちが泳ぐたび、彼女らの胸元を支点として、さぁっ、と小波がたち、水面に溶けるように消えていく。

 幾度かわからぬほど、その小波が消えた瞬間、ブリュンヒルデの頭が1cmほど、かくりと下がった。

 

「おい、大丈夫か」

 

 ジークフリートが心配そうに、背後から首を傾けて彼女に問う。金色の短い髪が、海面側へとこぼれ、星のひかりに鈍くきらめく。

 みつあみが左右に広がり、見える彼女のうなじは、先ほどよりも白さが際立ち、深雪みゆきのようだった。ブロンドの後毛が白を背景に、さらに濃く見え、溶けたバターのように滑らかに星の元に照らし出されている。穏やかになった夜風に、それがそよぐ。


「大丈夫……」

 

 弱々しい声が返ってくる。

 ブリュンヒルデは顔をこちらへと向ける。

 首とまったく色が変わらない。白い雪の色。

 ジークフリートを心配させないよう、懸命に頬の筋力を引き上げ、微笑むさまは哀れであった。髪色と同じ長い睫毛が上向く。きらきらと星のひかりを反射し、金色がましろい顔の中で、ひときわ目立ち、銀の光沢さえ帯びていた。

 

「ブリュンヒルデ……」

 

 弱った少女を見つめ、ジークフリートは目を瞠ると、青いひとみを揺らす。月光が斜めに差し込み、糸水晶ルチルクォーツのような銀色の虹彩を浮かび上がらせる。眉をかすかに寄せ、心底彼女を心配している感情をあらわにした。

 

「おい、嬢ちゃん大丈夫か? ずいぶん青白い顔してやがるが……」

 

 アルベリヒがふたりの様子に気付き、おぶさっていた人魚に頼み、わずかに近寄ってくる。

 

「大丈夫。大丈夫です」

 

 ブリュンヒルデはゆるく首をふり、笑顔を見せるばかりであった。海水に浸ったみつあみが、青黒い海の中で線を描いて左右に金色に揺れている。くらげの足のようで、幻想的であるが、とうの本人は目元に薄い灰色の影を宿している。

 

「大丈夫じゃねえだろ」

 

「そうですよ……」

 

「……ありがとう。でも、休むわけにはいかないから。さっきのようなこともあったし、これから先も危険がないとは限らない。早くあなたたちを陸へ送り届けなくては」


「ブリュンヒルデ。俺たちは海軍の男だ。お前たちが背に乗せてくれずとも、泳ぎは得意。疲れているのなら降りて自分たちで岸まで泳ぐこともできるが」


「だめよ。人魚の城は人間たちに見つからぬよう浜辺から遠くとおく離れた沖の深くに在る物。あなたが考えているよりも、ここは海の深く。陸までは遠いのよ。それに途中で海路がわからなくなってしまったらもともこもない。人魚のアンテナを使って、陸までの路を、私たちは自然と導き出しているのだから」

 

「……わかった」

 

 皆、声に覇気がなかった。

 十六夜の喪失が、皆の心に重い悲しみを背負わせていた。彼女の存在が、どれほど頼りになり、支えになっていたか。

 ジークフリートは白い光沢を孕む、彼女の射干玉の髪を脳裏に浮かべ、瞳をきつく閉じた。


「……ねぇ。うそでしょ……。あれ」

 

 背後から少女の震える声が聞こえる。

アカネだった。

 ジークフリートは目を開き、首を巡らせる。

 アカネが人魚の肩に抱きついたまま、後方から目を逸らせない様子を見せている。月光色に輪郭がうつし出された彼女の小柄な体は、小刻みに震えていた。頬にはみどりの光沢を孕む夜色の髪のすじが、水流紋のごとくたわんだ線をわけて、海水に濡れて張り付いている。

 すっとアカネが右手をあげ、ひとさし指の先で示すもの。

 金色に光るものは、夜空の星か。

 いや、違う。

 あれは人魚だ。人魚のまなこだ。

 アカネの指先が先ほどよりも大きく震えたのをきに、黒い波に乗ってこちらへと迫る人魚たちは吠えた。 

 先ほどの狂った人魚たち。十六夜が全て倒したと思われた者たちの残党がいたのだ。

 数は先ほどよりも多くはないが、怒りが、目に見えて湯気のように立っている。頭皮から抜け落ち、落武者のように残された緑や紫の入り混じったおどろおどろしい髪は、水分を失い乾いていたが、殺気によって毛羽立っていた。 

 彼女たちの髪も、ブリュンヒルデ同様、星のひかりに守られ、銀色に光沢を孕んでいるのが皮肉でもある。


「もう……だめ」

 

 力を失った彼らに、逃げ切るすべはない。

 ブリュンヒルデはがくりと肩の力を落とす。彼女に乗っていたジークフリートも、体を揺らす。

 

「ブリュンヒルデ!」

 

 白い肩を上気させ、吐息を荒くつく少女人魚を鼓舞し、守るように、ジークフリートは細長い指先で撫でてやる。

 狂った人魚たちは吠えながら長い爪の割れた骨張った手をめちゃくちゃに掻きながら海を泳いでくる。スピードこそブリュンヒルデたちよりも遅いような感じではあったが、弱った彼女らが追いつかれるのは、時間の問題であった。

 ブリュンヒルデは、ゆるい速度で懸命に尾鰭を動かしていたが、やがて完全に動きを止める。

 ジークフリートが心配し、何か声をかけようと彼女に顔を近づけた刹那、彼女は海から両手を出して、彼の頬を挟み、額をつけた。

 

「っ……」

 

 ジークフリートは突然の行為に驚く。

 半分溶けるように閉じていたブリュンヒルデのオパール色の瞳が間近にある。そこだけに、この壊れた世界から逃げられるようなうつくしさが広がっていた。彼は彼女の瞳の中へと今だけ溶けて消えてしまいたいような心地になった。水面の虹色が、彼の青を反射させている。

 

「ジーク。聞いて」

 

 吐息のような囁き声。

 

「今から私は、滅びの歌を歌います」

 

「滅びの歌……?」

 

 ほろび。

 ブリュンヒルデに最も似合わない言葉が、淡く清らかな声で紡がれる。

 ジークフリートは目を瞠った。長い睫毛が、彼女の二重の間にあたる。

 ブリュンヒルデは目を眇めた。歳に似合わぬ、聖母のような優しさが滲んでいた。

 彼女は、一つひとつの言葉を区切るように話す。彼の心に、直接てのひらに乗せて送り届けるように。

 分けられた前髪からあらわになっている、まるい富士額に月の雫が宿ったように、淡く光を放っていた。 

 わずかにまぶたを伏せる。

 

「ええ。人魚の歴史に伝わる、古いふるい歌。コロニーの女王になった者にしか、歌うことを許されていない旋律。コロニーが感染病になったり、争いが起きてどうにもならなくなったとき、コロニーの人魚たちを主人が殺すことができる。長い人魚の歴史の中で、この歌を歌った人魚もいたが、引き換えに2度と歌えなくなるもの、命を落とすものもおり、事例が複数あるため、どうなるかわからない」

 

「やめろ。そんな歌は歌うな……!」

 

 ジークフリートは驚き、ブリュンヒルデにより顔を近づける。険しさが増したそれは、彼女の小粒な鼻に高い鼻が触れてしまいそうなほど。

 だがブリュンヒルデは、かすみのように鼻息を漏らすと、くちびるを半月の形にませた。

そして、ジークフリートの頬から両手を離し、

 彼の首に抱きつく。

 急に抱き締められたので、ジークフリートは硬直した。柔らかな羽のような力。細い指先が、彼の金色の刈り上げを撫で、そこに月の雫が落ちたような煌めきをほどこす。

 

「みんな。耳を塞いで」

 

 静かに女王は臣下の人魚たちに告げた。

 人魚たちは、それだけで彼女がこれから何を歌おうとしているのかを察し、瞳をまばたき、伏せて、両手を耳にぴったりとつける。

 

「おい、嬢ちゃんどうしーー」

 

 ブリュンヒルデは夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。彼女は顔を少し上げ、天を見ていた。大好きな星空。大好きな月光。大好きな海。大好きな風。

 銀色と青を深く重ねた世界。彼女の体を包む全て。

 夜の空気は、そのときだけなぜだか、砂糖菓子のような甘みを宿していた。

  桜色のくちびるが、夜のひかりを受けて螺鈿にきらめく。そこから紡がれたのは、ひどく玲瓏で、透き通った声音。全ての者の心臓にふわりと触れ、淡雪のように溶けて消えるが、そのつめたさはやがて熱へと変わりーー。

 


 あの夜空を駆け抜けた向こうには何もなかった

 

 希望も絶望もない ただの更地で

 

 あなたの灰を飲み干した

 

 狂おしい日々は終わり

 

 今日からまっさらに まっしろに

 

 永遠に漂って

 

 死を賜り 光は粒子を帯びて 消えた

 

 消えた 

 


 ブリュンヒルデは歌い続ける。

 狂った人魚たちは、紅い歯茎を剥き出しにして彼女を威嚇していたが、ぴんと張り詰めた糸が徐々にゆるんでいくように、髪の逆立ちがおさまって行った。

 大きく開けていたくちを半分ほど閉じると、女王の旋律に合わせるかのように、低音と高音に分かれてハーモニーを歌い始めた。

 それらは大きな響きをはらむ倍音となり、彼らの頭上を薄雲のように覆い尽くす。

 人間の男たちは唖然とし、くちを半開きにしたまま耳朶に儚くも切なく触れてくるその壮大なメロディに、無意識のうちに聴き惚れていた。

 

 

 歌が終わった。氷と氷がぶつかり、離れるしんとした響きが、ピアノの鍵盤から、指先を離したような、凛と静かな余韻が漂う。

 人魚たちはいつの間にか、海の中に尾鰭をつけ、直立していた。

 やがてその濁ったまなこから、大粒の涙をこぼす。その涙は止めようもないほど、次から次へと溢れ出し、彼女たちの周囲を翡翠色に染める。やがて青筋が幾重も走ったさびついた肌が、暖炉の炎を燃やし切った後の煤のごとく、はらはらと剥がれおち、夜風に乗って海の上を漂い、海面にたどり着くと、じゅう、と音を立てて沈んでゆく。緑と紫の髪は、夜風になびくと、銀色に変わり、先から闇に溶けて消えてゆく。

 残った肉は、徐々に溶け出し、海ほたるのように青く発光する泡となった。


 ブリュンヒルデはまばたきもせずに、周囲に広がる夢のような光景を見届けていたが、やがてまぶたを伏せるとすっと涙をまなじりから流した。

 

「ごめん……。ごめんね」

 

 歌い終えたばかりだというのに、彼女の声は枯れた様子を見せず、さらに水分を含んで凛と艶のあるものへとなっていた。

 滅びの歌。

 女王だけに許された古い歌を奏でたことにより、彼女の歌い手としての質が一段階高いものとなったのかもしれない。

 桃のように紅を帯びた頬の丘陵を、翡翠のひかりをうつした涙が重みを持って、彼女の顎の先へと流れて海へ落ちていく。

 狂った人魚が溶けた周辺は南極の青い氷の割れ目が砕けたように、翡翠のかがやきを漂わせて、海ほたる色に発光していた。

 ジークフリートが周囲を見やると、アルベリヒだけが海に浮かんでへらりと笑っている。

 

「アルベリヒ……?」

 

「ベルツさん……! なんでっ……あなたの背乗りしていた人魚は、狂っていなかったはずじゃ……!」

 

 ブレンたちも、ブリュンヒルデの声は聞こえていなかったが、彼女がやったことを、歌の途中で理解した。狂った人魚を殺す歌を、小さな少女人魚が歌い始めたのだと。背乗りしていた人魚が耳を塞いだこと。狂った人魚は塞がなかったことで。

 アルベリヒの周囲には狂った人魚が溶けた名残とひとしく、翡翠の瞬きがあり、やがて紺に溶けて消えていく。

 アルベリヒは少し笑顔を崩し、俯いてそれを見つめていた。

 顔を上げると、ふたたび笑顔が浮かんでいる。

 

「嬢ちゃんが歌う直前に、俺の乗っていた人魚は、耳を塞ぐふりをして、それを自分でといちまってた」

 

 アルベリヒは笑う。

 彼が無理に笑おうとしていることに、ジークフリートだけは気づいていた。子供の頃からの癖で、無理矢理な笑顔を作る時は、左端のくちもとが少し上がるのだ。八重歯が翡翠のひかりに照らされ、同じ色のきらめきを先に灯していた。

 

「あのこ。イザベルの信者だったんだよな。それに泳ぎの途中でーー狂った人魚が追ってきたはじまりのときーー尾鰭が傷ついて、泳ぐのが苦しそうだった。俺だけがそれに気づいてて、少し話を聞いてやってたんだよ。死ねると思ったんだな。穏やかに」

 

 歌が始まる時、アルベリヒを乗せた人魚は、

「これで我が主人のところへ行ける」と穏やかな笑みを浮かべていたらしい。凄絶な笑みで一度アルベリヒを振り返ったので、彼は驚いて目を丸く開けていた。

 

「あのこ。嬢ちゃんの歌聞いて泣いてた。……俺も泣いたよ」

 

 アルベリヒはさらに笑みを深め、歯を食いしばって顔をかすかに傾けた。確かに彼のまなじりは赤く染まり、涙の粒が浮いていたので、それは嘘ではないことがわかった。

 

 翡翠の森の海を抜け、彼らは陸を目指して泳ぎ続ける。それはもう、一種の使命のようなものになっていた。

 アルベリヒはジークフリートにおぶわる形で、彼につかまっていた。

 

「……すまねえ」


「俺は大丈夫だ」


「ああ、ありがとよ。嬢ちゃん、大丈夫か? 重くねえか」


「……大丈夫」

 

 アルベリヒはあどけない顔でブリュンヒルデの方を見下ろしたが、彼女は顔を上げず、前だけを見て懸命に泳ぎ続けていた。

 だが、先ほどよりも頬とうなじはさらに白く、青くも見える。

 それに速度が落ちていることを、ジークフリートは感じていた。彼女は先頭を切って泳いでいたが、ブレンやアカネたちが乗っている人魚たちに追いつかれ、追い抜かしてもよいのだろうか、いや女王を差し置いてそれは、と周囲が声に出さずとも、そわそわしている様子も感じられたからだ。

 

「大丈夫。だいじょうぶ」

 

 ブリュンヒルデの応えは、彼らを安堵させるようにも、己を鼓舞するようにも聞こえた

 海から覗く白い肩が、なめらかに月の光を受けて蒼い輪郭をみせていた。

 このまま彼女が意識を保ち、正確に泳ぎ続けてくれれば、陸へと無事に辿り着ける。そう予感させた刹那、背後からごぉっと激しい音がなった。それは突然雨雲が舞い降り、俄雨が近くで降ったように。

 

「うわぁっ!」

 

 ブレンが背後を振り返り、目と口を大きく開き、恐怖に叫ぶ。

 ジークフリートは半歩遅れて、うすく口を開き、背後を振り返った。風が彼のブロンドをかるくたなびかせる。

 碧いを瞠り、やがて彼の体は、さらに碧いかげに隠されてしまう。

 聳え立っていたものは、波だった。

 それも、今までに見たこともないほどの高さの。リリューシュカがひとりで彼の帰りを待っている、小高い丘の家。その丘に近いものだった。

 海ほたる色の光を、平行に波の先に持ち、激しくそれを揺らして落ちてくる。

 狂った人魚たちが最期に残した、死を孕んだ贈り物。

 アルベリヒが何かを叫んだ。だがそれは、すぐに落ちてきた波の先に飲まれ、空気をかすかに震わせただけで、すぐに消えてしまった。

 後にそれは、旧友のーージークフリートの名を呼ぶ声だったと気づいた。

 

 轟音が、体を包むように、すぐ耳元で聞こえる。

 ジークフリートは咄嗟に強くブリュンヒルデを片腕で抱きしめ、もう片方の手で、波の力で反対方向へと強い力で引っ張られるアルベリヒの腕を掴んでいた。

 ごぉぉぉぉ。

 大小の細かな泡が、彼らの周囲で渦を作って揺れては背後へと急速に流れていく。

 きつく閉じていた目を、ゆっくりと開く。

 まず見えたのは、吐き出したタバコの煙が水色に染まったような泡が、生まれては消えてゆく光景だった。

  ブレンや双子たち、そして彼らを乗せた他の人魚がどうなったのかわからない。周囲は細かな泡に包まれ、視界が定まらなかった。泡の間に見えるのは、青と黒を水で混ぜて溶かしたような色。

 そして、片腕に抱いた青白い顔をしたブリュンヒルデの小ささと柔らかさ。

 アルベリヒの筋肉質で太い腕の感触。

 それだけが、ジークフリートが認識できる全てだった。

 

(……ブリュンヒルデ……、アルベリヒ……)

 歯を食いしばり、間から息を漏らす。人魚の泡の守護がない海中は、ただ苦しいばかりだった。

 

「……ふっ……」

 

 腕に抱いていたブリュンヒルデの質量が、その時ふわっと軽くなったように感じた。

 ジークフリートは驚いて腕の力をはっと抜いてしまうが、慌てて抱え直す。

 


『ブリュンヒルデ……』

 

 吐息や舌、リップ音を出さず、言葉を紡ぐ。

 青白いと思っていた彼女の肌が、星ひとつない夜空に浮かぶ月光のように淡いひかりを放っている。虹色も混じった光芒にも見えるそれを見て、ジークフリートは肩先から震えが走る。


『お前……、お前は』

 

 閉じていたまるいまぶたを、ふわりと開く。

 覗いたものは、彼が知っている色よりも、なお淡い白が混ざったオパールだった。瞳の表面に、かすみがかかって儚くなっている。

 ジークフリートはそのかすみに震える指先を伸ばす。

 ブリュンヒルデの体は生命の力の限界を迎え、ブロンドの髪の表面、体の輪郭から真珠色の泡となりはじめていた。ぽこぽこと彼女の体から生まれていくそれを、ジークフリートは掴んで戻したいと強く思うが、その願いは儚く消えてゆく。指先が震えて溶けていくような絶望を知る。

 ブリュンヒルデの体はいつの間にか一回り小さくなっており、ジークフリートの片腕からゆっくりと滑り落ちていくように下がり落ちてしまう。それに気づき、彼は強い力で、はっしと彼女を抱き直す。

 

「……っ」

 

 ジークフリートはなんとか海流の激しい流れに逆らい、足を交互に動かし、泳いで天を目指す。天から雲間が切れて薄黄色い光芒が彼らを等間隔でさしている。そのひかりの痛いくらいの眩しさが、彼の碧い瞳を糸水晶のように照らしてくれているのが、今は救いだった。

 彼は瞳を眇め、そのひかりだけを頼りに目指そうとする。

 

『    』 

 

 腕に抱いたブリュンヒルデが、かすかに震えた。彼女は掠れた声で、それでも歌を歌っていた。

 

『ブリュンヒルデ』

 

 ジークフリートはそれを聞いて、こめかみを打たれたように鼻の奥が熱くなる。

 ジークフリートも歌を歌った。

 それは、リリューシュカを寝かしつけるために、よく彼女の枕元で歌ってやっていた子守唄だった。久しく歌っていない。そのことを、歌いながらジークフリートは思い出す。

 目の前が小石を落とされた泉の水面のように霞んでいくのは、彼が泣いていたからだ。

 体が重く、一向に光芒が近づいてこない。

 ジークフリートは焦っていた。

 ブリュンヒルデはもう半分意識を失っている。歌もいつの間にか止んでいた。真っ白な顔。伏せた瞼をかすかに動かし、微笑むと、まなじりから溢れる涙は、虹色を帯びた真珠のつぶとなり、くるくると螺旋を描いて海の中をただ寄って離れていく。


『っ……』

 

 軋むほどに歯を食いしばる。

 海流が彼の胴体を真横から押し、風に吹き飛ばされそうな程に痛い。

 腕を掴んだアルベリヒは、いつの間にか腕がずり落ち、彼と手を繋ぐ形になった。

 アルベリヒの体は別の方向へ引っ張られ、彼を逃さぬよう、手の指が軋んで関節が外れてしまいそうになる。指は真っ白くなり、ついで節がぶわりと滲むような青に染まる。内側で出血しているのだ。

 

『このままでは全員海の藻屑と消える』

 

 ジークフリートが死を予期した時だった。

 

『ジーク』

 

 アルベリヒの声が、長い間聴き慣れただみ声が、なぜか脳内に響いた。

 ジークフリートは驚いて目を瞠る。金の睫毛に、横から吹いた細かな泡がつく。

見下ろすと、ダークホールのようなタール色の海底に、アルベリヒがジークフリートの手を離して揺蕩って浮かんでいた。その顔は、晴れやかに笑んで、いつもの嫌味ひとつぶんも浮かんでいなかった。

 

『アルベリヒ』

 

『ジーク。俺は今までお前に負け続けた人生だった。だが、いつか何かひとつでも、お前に勝ったと思えることをしたいと思ってた。今がそのときだ。その時が来たんだよ』

 

『やめろ。お前、何を言っている』

 

 アルベリヒの笑顔が、さらにぼやけて海に滲む。

 

『今までの俺の人生は、ずっと何かに負け続けてきたように感じていた。でも、今、欲しいものは何もないことに気づけた。ただ、俺だけが、俺を満たすことができたんだ。お前がいて、ブレンがいて、仲間と仲良くやれてりゃあ、それだけでよかったんだな。気付くのが遅かった』

 

 ジークフリートは悟ったようにはにかむアルベリヒを見下ろして、顔を激しく左右に振り、眉を歪ませた。

 

『違う。違う、俺の知っているお前は、そんなお前ではなかったはずだ。自己中で傲慢で、自分のことが一番だと思っている。自分を犠牲にして、誰かを助けるような、そんな男ではーー!」

 

『なぁ、ジーク。お前に託したものがある。後で見といてくれよ』

 

 アルベリヒは聞いたことのないような、優しい口調で告げた。それを最後に、ゴォッと竜巻が巻き起こるような激しい音が鳴る。

 止まっていた時間が、再び動き始めた。

 アルベリヒは八重歯を見せてにかりと笑うと、それが残像となり、壊れた気球が逆にのぼるように、海の底へと沈んで消えていく。

 ジークフリートも逆方向へと強い力で引っ張られ、意識を失う直前で、空へ舞い上がり、白い空間に包まれるのを感じた。


 アルベリヒ、手を離す。にこやかな笑みを浮かべながら海の底へ沈んでゆく。

 ジーク、手を伸ばそうとするが、つめたい海水を掴んだだけであった。

  耳なりがおさまる。

 潮が引いていく気配がする。

 ジークフリートは、うっすらと瞼を開けた。

 切れた夜空のかけらが見える。ぼんやりと霞がかって見えていたそれは、やがてひとつの景色となる。透き通った闇が、視界いっぱいに広がっていた。

 どこかで虫の凛と鳴る声が聞こえる。

 

「……」

 


 ジークフリートはくちを薄く開ける。自分が砂の上に仰向けで倒れているのに気付くのに、いささか時間がかかった。

 ゆっくりと首を巡らせる。つきん、とこめかみに鈍い痛みが走り、やがてそれが頭の中を覆ってゆく。

 

「ぅっ……」

 

 ジークフリートは痛みに耐え切れず、上半身を無理やり起こすと、片手で顔を覆った。


(俺は……生きている) 


 額から目元。頬に手のひらで触れると、濡れてつめたくなっていることが伝わった。痛みと温度が、彼が生きていることを理解させてくれる。

 ふたたび薄く目を開く。

 脳裏に仲間の笑顔が浮かぶ。

 はっと片手を顔から退け、目を開く。

 

「皆は……」

 

 周囲を見渡す。

 アカネとアオイはしばし離れた距離で、横たわっているが、眉を寄せてうめいているので、生きていることがわかった。

 ブレンは双子よりもジークフリートに近い距離で、先に気が付いたのか、身を起こそうと顔を歪めながら動いている。

 イザベルはぺたんと尻餅をつくように浜辺に座り、呆然と海を眺めている。彼女の白い体が、月光に反射するようにぼんやりと浮かび上がっていた。紅色の豊かな髪は、夜風が吹くと金の光沢をまとい背後にたなびいた。

 ジークフリートは自分が心配から、呼吸が荒くなっていることに気づき、一度深く夜の空気を吸った。潮が混じっているそれは、海にいたことを思い出させてくれる。

 

(ブリュンヒルデ……、アルベリヒ)

 

 先ほどまでつめたい海の中で身を寄せ合っていた仲間が見当たらない。緑の光沢を持つブロンドのひかりが、どこかに灯っていないか。

 ジークフリートは手を背後についた。すると、いつの間にか閉じていた手の中に、何か硬いものがあることに気付いた。

 胸元まで上げ、そっと開く。錆びているが、草花の冠模様が彫られた精巧な作りの銀製のペンダントだった。

 無意識に親指で弾いて、中を見る。

 彼は目を瞠った。

 

「あいつ……」

 

 ジークフリートの手は、自然と震えていた。

 少し若いアルベリヒが、彼とよく似た初老の夫婦に囲まれて無理やり笑顔を作って行儀良くしている。

 それはアルベリヒの家族写真だった。濡れてふやけてはいるが、乾かせば閲覧し、保存することになんの問題もないもの。

 ジークフリートは、ローレイライを通過する前に、彼がリリューシュカの写真の入った

 ペンダントを見て、嘲笑してきたことが、ふっと花が香るように思い起こされる。

 いつの間にか、ジークフリートはくちもとに皮肉な笑みを浮かべていた。

 

「あいつ。俺のことバカにしておいて、自分も同じことやってたんじゃねえかよ……。ほんっとうに変わらねえなぁ。おい……!」

 

 ジークフリートはペンダントを、拳が白くなるほど強い力で握りしめ、砂浜をそれで殴ると、やがて糸が切れたように、両手をついて大声で泣き始めた。

 

 彼らの目の前には、月の道を灯した闇色の海が広がっているだけであった。

どこまでも果てしのない海が。

 人間が太刀打ちできない、自然だけが。


 



 


 


 


 


 



 


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