金色の海の女王 

 扉の前に立っていたふたりの人魚は、状況を確認すると、上体をかがめてフレデリックの遺体を抱えた。ひとりは上半身を持って、もうひとりは下半身を持って。

 どちらも肉が骨を覆うばかりについていたので、人魚たちの細腕で持ち運べるか、という絵図だったが、海の中は無重力。海水の力を用いて、彼女らは彼をなんなく抱え上げた。

 未だあざやかな血をこぼす彼の体は、その色とは正反対に青ざめてさらに白く変わっていく。生きていた頃をわずかでも見知っている彼らは、それを少し哀れに感じた。

 フレデリックを抱えた人魚たちが扉から泳ぎ出ていった後、残されたイザベルが、息ができず苦しみ始めたので、イザベルはくちびるをかすかに丸く開き、ぷわり、と息を吐いた。

 薄紅の泡になったそれは、イザベルの顔のもとまでゆったりとした速度で漂い、彼女の顔を優しく覆った。

 その瞬間、苦しんで顔を歪めていたイザベルは、何かから解放されたかのように、うつむけていた顔を上向け、咳き込むように息をした。

 

「どうだイザベル。楽になっただろう」

 

 得意そうに十六夜がくたびれて倒れる彼女を見下ろし、にやりと口角を上げる。白い片手を、ウェーブを描く腰元につけて。

 イザベルは、はぁはぁと大きく呼吸を繰り返し、胸を上下させる。落ち着くと、涙目で十六夜を睨みあげた。どこか悔しそうだ。

 

「十六夜。貴様……」

「きらっている女子おなごに助けられた気分はどうだ?」

「ロゼちゃん! もう喧嘩売っちゃダメだよー! もう終わったんだって!」

 

 アルベリヒが火花を散らすふたりの間に入り、わたわたと両腕を大きく動かして作り笑顔を浮かべる。泡の中の彼の顔には、脂汗が

 浮いていた。彼も怖いが勇気を出したのだ。くちの横には、無理矢理笑ったことでついたシワが一本、小鼻の横から伸びてできている。

 十六夜とイザベルは、一瞬彼の方をみやると、すぐに互いの顔に視線をうつす。

 

「だな……終わった」


 十六夜はため息と共に言った。そこには何か安堵のようなものが混じっているのを、そばにいたイザベルは感じ取った。


「……」 

 

 イザベルは白い両腕で上体を支えたまま、くちびるを引き結んで十六夜を見上げる。

 

「でもよぉ。どうすんだ? この後。女王様は人間になっちまったし。このコロニーの人魚たちって、自分じゃ何も行動できねーみたいだし」

 

 アルベリヒが腕を組んで言う。

 ジークフリートもそれは思っていた。イザベルのコロニーの人魚はどこか主人の指示を待つ従者気質の者で構成されているように感じる。彼女の従者の中で彼女と近しそうだったカスターニエもそういうタイプの女だった。

 一同が逡巡し、イザベルが瞳を伏せて顔を十六夜から逸らしたその時だった。

 

「イザベル、コロニーの人魚の女王であったあなたは、今日、死にました」

 

 十六夜とイザベルの周囲の者の群れから、ひらりと一歩舞台の上に上がるように、前に出たのは、ブリュンヒルデであった。小柄な彼女をジークフリートは目を瞠って見下ろす。

 つむじの金が薄青の中であざやかに目に止まった。


「ブリュンヒルデ……」

 

 掠れた声で彼女の名を呼ぶ。

 ブリュンヒルデが気付いて彼を見上げた。

 くちを丸く開けていたが、ひとつまばたきを落として、にこりと笑んだ。オパール色の眸に真横に一筋水色の光沢がともる。それは、地上から見上げる空の色だった。なつかしさで、胸がいっぱいになる。その色を持つのは、海の少女だった。

 真剣な顔で、ブリュンヒルデはふたたび前を向く。前を振り向く刹那が何故かスロウに見えて、前髪が耳の横でゆるく編んだ長いおさげの編み込みの入るところまで金色があざやかに眩しく、ジークフリートは、彼女が2度とこちらを振り返らないのではないかというわずかな不安に駆られた。

 

「ローレライの少女人魚……」

 

 イザベルが突然前に出てきたブリュンヒルデに驚き、目を瞠る。

 十六夜も静かにブリュンヒルデを見下ろした。彼女は何も言わなかった。ブリュンヒルデの出方を見守ってくれている。

 ブリュンヒルデは堂々とした態度で、イザベルの目の前まで泳いでいった。彼女のサーモンピンクの鱗が、きらきらとガラス瓶に入れられた金平糖のように煌めく。そして彼女の前でゆらりと止まると、尾鰭を下にして、胸元に柔らかな右手を置いた。右手は、彼女にしかわからないほどかすかに震えていた。ジークフリートからもらった腹巻の柔らかさが、彼女を守ってくれている、と、己に言い聞かせる。


「イザベル、あなたの代わりに、私がこのコロニーの女王になります」


「……なんとっ」

 

 イザベルは驚いてさらに目を大きく瞠った。

 

「ブリュンヒルデ……?」

 

 ジークフリートも驚き、身を乗り出そうとする。ブリュンヒルデは彼の方を振り返り、柔らかく微笑むと、すっと片腕を伸ばして制した。

 

「ヒルデの嬢ちゃん……、何を」


「ブリュンヒルデさん、それってどういうことですか……!?」


 動揺する者たちの中で、十六夜だけが動じなかった。彼女は豊かな胸の前で腕を組み、何も言わずに静かにいだ顔で、ブリュンヒルデを見つめる。ひとみの黒い闇が今は穏やかな深淵を保ち、うるおいを張っている。物事の本質を見極めるすみやかさ。

 その色は、十六夜の髪と、性格とひとしく。

 ブリュンヒルデは、左右声のする青い闇へと顔を向け、ふたたび前を向く。

 

「私のコロニー。ローレライは滅びました。私はその生き残り。海に戻りふたたび仲間と出会うことが目的で、ジークたちに守られながら今日まで生きてきました。私のコロニーを滅ぼしたのは、ジークたちのいた人間の群れです」

 

 アルベリヒは押し黙る。

 ブリュンヒルデは話し続ける。ここにいる全てのものへ語りかけるように。人魚、人間なんの隔たりもなく。彼女の周囲だけにスポットライトが当てられているように、長い金のまつ毛の先が透き通っていた。そこに霜がおりるように、きらきらと細かな泡の粒が降りてゆく。

 

「私も人間と人魚の戦争の孤児です。種族間の争いに、なんの意味もない。ただ不幸なものを生み出すだけ。私のコロニーの仲間も、操られていたとはいえ、多くのジークたちの仲間を殺したわ。その事実は未来永劫消えることはない。それはあなたも同じ」

 

「……」

 

「私はその悲しみを知っている。そして生きている。これからも生きてゆく」

 

「女王を失ったコロニーは、数ヶ月で離散し、滅びる。特に滅びの原因が前の長にあったところは、海での扱いもひどいものだぞ。志強い、ブリュンヒルデのような清らかな娘が新たな王となれば、まぁ、未来はあかるいな」

 

 黙っていた十六夜が言った。わずかに俯いて語るそれは、自身にも言い聞かせているような落ち着きだった。

 

「……しかし」イザベルは戸惑う。

 

 それを見つめていた十六夜は、しばし黙ってから顔を上げた。


「小娘だけで不安だと言うのなら」

 

 右腕を上げると、くいっ、と親指を立てて己を示す。仕草にポーカーフェイスが似合っていた。

 

「私がブリュンヒルデのしもべとなろう」

 

 どよめいていた周囲がしん、と静かになる。

 

「え……?」

 

 開口一番、驚いて目を丸くしたのは、当のブリュンヒルデだった。


「おいおいおい、なんだって……? ロゼちゃんが、ヒルデ嬢ちゃんの従僕になるってぇ?」

 

 アルベリヒは驚いて目を丸くし、身を乗り出してふたりを見やる。


「えぇっ……! どういうことですか……」

 

 ブレンも驚いてくちもとに片手を当てた。

 周囲の人魚たちもかすかにざわついていた。

 だが、ジークフリートだけは、驚くといった感情を見せず、静かに凪いだ横顔で、ふたりを見守っていた。

 

「あなたが、私の……?」


「ああ、そうだ。貴殿が決めろ。ーー女王」


「女王」

 

 十六夜に呼ばれた名前を、自分でつぶやいてみる。

 不思議と戸惑いはなかった。悪くない。しっくりと体に、鱗に馴染んでくる。

 

(これが私の運命だったんだ。これからの使命、私の海を守る)

 

 瞳を閉じる。

 まなうらに、今までの彼女の人生が静かに流れてゆく。別れて、もう2度と会えない人魚たちの、色とりどりの色をした髪や鱗が、虹色に重なって、消えてゆく。

 みんな、幸せだったのだろうか?

 ブリュンヒルデの閉じた瞳から、ひとすじの涙が降りてゆく。柔らかな頬をつたい、顎の下まで到達すると、海に溶けて消えていった。

 うっすらとまぶたを開ける。

 そこにはもう、か弱い少女のおもかげは、残っていなかった。

 ブリュンヒルデは、己にしか分からぬほど小さくうなずくと、十六夜を見上げた。少しも曇らぬそのまなこは、オパール色の虹彩が、ガーベラの花弁のように広がっている。

 十六夜はその瞳孔の中心を見つめていた。

 

「……ロゼ・十六夜・ダルク。ありがとうーーどうか、末長くよろしくお願いいたします。共に、守りましょう。私たちの住まう海を」

 

 ブリュンヒルデがすっと右腕を上げる。腕に添うように白いひとすじの線が走る。

 十六夜はしばし黙っていたが、目を細め、ブリュンヒルデを慈しむように見つめると、瞼を伏せ、うつむいた。そして腰を屈め、彼女の前にひざまずく。

 アルベリヒやブレンは興奮してかすかに「おぉっ」と声を漏らした。

 ジークフリートは静かにただそれを見守っていた。人魚の世界の掟は、まだまだ分からないことばかり、驚かされることばかりだった。だが、彼には詮索する気はなかった。彼女たちが互いに理解して起こしているのであれば、それが全て。

 ふたりの人魚の間に、神々しく、人間が太刀打ちできない、近寄ってはならない、ものが生まれていた。それは、自然に対する畏怖の念とひとしかった。

 ブリュンヒルデは首を垂れた十六夜のまるいまぶたを見下ろしていた。髪と同じ闇の色が、凛と上向いている。うつくしい人魚だと思った。こんなにうつくしい人魚が、自ら己の配下になってくれるというのだ。幸福を噛み締める。

 

「ロゼ。顔を上げて」

 

 十六夜は、言われた通り顔を上げる。利発な白い顔が、真っ直ぐにブリュンヒルデをとらえていた。漆黒の瞳は、中央だけにかすかな炎が灯ったように、赤く燃えている。

 

「女王。貴女あなたにはなむけを」

 

 ロゼは腰の刀の柄に置いていた手をゆるりと上げると、ブリュンヒルデに「こいこい」というように手招きをした。

 ブリュンヒルデはくちをわずかに丸く開け、

 ひゅるりと泳いで十六夜との距離を詰める。

 十六夜は「立ち上がってもよいか」とブリュンヒルデに尋ね、彼女がうなずくと、すっと背筋を伸ばした。纏っていた着物の裾が、ふわりと海中に舞う。

 十六夜はそのまま片腕を上げる。こぶしを握った白い手を、ブリュンヒルデのブロンドのつむじの上でそっと開かせる。

 

「あ……」

 

 はらはらと舞い落ちてきたものは、真珠の粒だった。

 ブリュンヒルデはそれを見上げて、大きな目をさらに大きく瞠る。

 薄紅の真珠の粒は、彼女の髪にふわりと付着する。間隔を置いてついたそれは、みつあみの房のすじに添ってゆく。最後のひとつぶは、房の先にぽつりと置かれた。

 真珠の鈍い光が、ブリュンヒルデの髪の新たな装飾となった。

 くるりとこちらを振り向いたブリュンヒルデは、瞳を眇め、たおやかな笑みを浮かべていた。それは、先ほどまでジークフリートに向けていた健気な少女のすがたとは変わっていた。蝉がそれまで自分を庇護していた小麦色の殻から羽化して、翡翠色の汚れなき体でこれからの生を経ていこうとする準備を迎えた、そんな晴れやかで憂いのあるもの。

 

「お別れです。ジークフリート。アルベリヒ、ブレン。アカネとアオイも。今まで本当にありがとう。あなたたちと出会えたおかげで、人間にも良い人がいるということを知ることができたわ。本当に、本当にーー」


「ブリュンヒルデ」


「ブリュンヒルデさん」


「嬢ちゃん、大丈夫でーじょーぶか? 喋りながら泣いてっぞ」


 皆が見ている彼女は、大きな瞳からぽろぽ涙を流している最中であった。うすく虹色がかったその涙は、まるみを帯びて海水へと溶けて消えてゆく。

 傍にいた十六夜が、ブリュンヒルデの頬のあたりでひとさし指をすっ、と伸ばし、新たに生まれくる彼女の涙を拭ってやる。


「ロゼ」

 

 ブリュンヒルデは顔を上げて十六夜を見やる。泣いたせいか、さらに彼女のオパール色の眸は透明に澄んでいる。


「女王の涙を拭うのも、臣下の役目」

 

 十六夜は淡々とそう言うと、ふたたび腕を下ろした。そこにはすでにブリュンヒルデと命運を共にしよう、という覚悟が、見えるものには月の暈のように白く、淡く見えていた。

 周囲の人魚も最初は動揺していたが、ふたりのやりとりをみていて安堵したのか、こうべを下げて、女王への敬意をあらわした。

 ジークフリートは互いを慈しみ合うように見上げ、見下ろしているふたりを、見つめ、これでよかったんだいう切なさの入り混じった安堵に包まれていた。これまでのことが走馬灯のように思い起こされる。

 ローレライでの人魚たちとの戦い。リリューシュカにそっくりのブリュンヒルデを海で抱き抱えて助けたこと。アルベリヒとの銃を用いた喧嘩。ブレンを縄で縛ったこと。ブリュンヒルデを籠に入れ、クルワズリの街を歩いたこと。双子との出会い。月の夜、浜辺で聞いた十六夜の低く魂に響くようなうつくしい歌声。彼女の夜色の眸に映る、自分の白い肌と蒼い瞳。金色の髪。攫われた双子。波だけが漂う浜辺。ブリュンヒルデに乗って海を泳いだこと、そして人魚の城で起きた戦いのすべてーー。

 

「ジークフリート。目ぇ開けろよ」

 

 いつの間にか瞼を閉じていたらしい。隣に立つ旧友が、己の肩をぽんと叩いたことで、ふっと意識が現実に戻された。

 瞳を開けると、そこは映像付きのともしびが回転する世界ではなく、しんとした薄青い世界が漂っているばかりである。

 

「ああ……」

 

 彼の脳裏にあったか弱く愛らしいブリュンヒルデの姿は、目の前の少女人魚を見た途端に消えた。そこにいたのは、とても小柄で、十六夜の腰ほどの背丈しかないものの、青い光沢を孕む、サーモンピンクの鱗を持った、凛とした風情のひとりの女だった。あのとき結ったみつあみが、彼女の後方へと広がり、海の青氷色をうつして、そのまだらに飾られた薄紅の真珠の粒たちは、ちかちかと反射するようにきらめいていた。

 オパール色の瞳は真っ直ぐにジークフリートを捉えている。彼女がかすかに呼吸をするたび、表面が虹色に揺れて煌めく。

 

「私たちローレライの人魚が、あなたたちにした罪は決して消えることはありません。私は生き残ったものとして、生涯、その罪を背負いながら女王として過ごしてゆきます。……もうお会いできることはないでしょう」


「ブリュンヒルデ……」


「嬢ちゃん、それは俺たちも一緒だ」


「ブリュンヒルデさん、そうですよ。そんな悲しいこと言わないで……またどこかで会えますよね? 俺たちは、海の男なんだから」

 

 泣きそうになっていたブレンは、わざと語尾にあかるさを込めた。

 ブリュンヒルデは男たちの顔を1人ずつ見やり、瞳を大きく振るわせると、桜色のくちびるを噛み締め、目を逸らす。別れの言葉を再度紡ぐのは、彼女にはあまりにも辛いことだったからだ。

 十六夜はブリュンヒルデのうすい背中にそっと手をやる。触れるか触れないか、わからないほどの距離で上下に撫でてやると、ブリュンヒルデは勇気づけられ、彼女を見上げ、ついで彼らを見やった。そこには先ほどまでの不安定さはいささか拭われ、決意新たに眉を寄せ、笑みを浮かべる少女の姿があった。

 

「ブリュンヒルデ……また会おう」


「ええ」


「しっかし、どうやって帰るよ? まさか、まぁた嬢ちゃんとロゼちゃんをビート板にして浜辺まで送ってもらうわけにゃーいかねぇだろうし」


「送っていくぞ」


「へ?」


「いいわよ。お安い御用です」


「えっ、だっ、だって。女王になったんですよね? そんなら、これから随分忙しくなるだろうし、陸の人間にかまけてる暇ないのでは?」


「人魚を舐めてもらっちゃぁ困る。体力は人間の倍はあるからな。それに……」

 

 十六夜は瞳を伏せ、扉の前で体力を使い果たし、眠ってしまったイザベルを見つめた。

 

「イザベルも陸に送り届けなければ、それまでがやつを人間にした私の使命」


「ああ……」

 

 ジークフリートも神妙な顔で眉を寄せ、イザベルの白い裸体を見やった。

 

「だがよぉ。イザベルのことだが、陸で人としてこれからの生を送らせるとして、その後どうすんだ? まさか一人暮らしさせるわけにゃあいかねえだろうし。俺らとは因縁があるからさぁ。向こうも嫌だろうぜ」


「俺らが、あいつの家族になってやるよ」

 

 突然の高い声が、下から響いた。それはアカネであった。腰に両手を置き、らんらんと輝かせた瞳は自信に満ち溢れていた。茜に焦げた茶色が飴が溶けたように滲んでいる。それが海の中で、はっきりと灯っている。皆を励ますかのような色。

 

「はぁ!? 何言ってんだてめぇ。お前が元人魚の親方の家族に、どうやってなるんだって」


「俺らは人魚と心通わすのは得意っ……っていうか、孤独な女となかよくなるのは得意だもんさ」


「……おい、聞き捨てならんな。誰のことを言っている」


 得意げなアカネを、イザベルは腕を組んで睨む。

 アオイも姉の横で、彼女の衣服を不安そうにつまみながらも、必死で顔を上げ、何かを訴えている。


「……ほら。アオイも、あいつの面倒みてやってもいいってさ。俺ら、ずっと2人で逞しく暮らしてたんだ。今更1人や2人増えたところで変わらねえよ。むしろ、家事分担できて嬉しいし」


「はっ! 前向きなこって。見習いてぇぜ」


「だな……アカネ。本当にいいのか」


「いいんだよ。あーあ、女ものの可愛いワンピースとか、今からどこに買いに行くか決めなきゃなーアオイっ」


 笑顔でこちらを見るアカネに、アオイはこくこくと大きく顔を縦に振ってうなずく。2人の好奇心に、大人たちは負けた。


「では一同、準備は良いな」


 十六夜がすっと前へ身を乗り出し、組んだ腕を解いて刀の柄に右手を乗せる。


「行くぞ。陸へ」


 片腕を上げ、彼女の白い指先が示した先は、氷が割れて青い光を見せているような、海面だった。 


 泳ぎ疲れるということは、今はなかった。たぷん、たぷんという水のはね返りが、肌に当たって心地よささえ感じる。ようやく思い通りの泳ぎができているようだった。

 

「気分はどうだ。十六夜」


「ああ、上々だ」

 

 帰りの組み合わせは行きとはやや違うものだった。

 1人に対し、一匹ずつの人魚が供をしてくれる。

 ジークフリートに対するのは十六夜。ブリュンヒルデはアカネ。その他のものに関しては、侍従の人魚たちが背に彼らを乗せて泳いでいる。

 人間になったイザベルは、十六夜が着物の裾をくちの歯を使って破き、それを胸と腰に巻いて、人魚の首に抱きつく形で身を任せていた。白く長い足が、水面から浮かび、また沈んでゆく。その健康的なかたちは、野生化した人間を思わせるものだった。

 皆でゆったりとした速度で泳いでいるのは、何か開放的で、自由で、まぁ気持ちの良いものだった。雲ひとつない快晴が僅かな星々を散りばめて広がっている。もうすぐ夜が来ようとしている。すっきりと冷めた空気が、そよ風となって十六夜の白い頬を撫でる。彼女はそのたびに心地良さそうに切長の黒いまなこを眇めた。


「ああ、気持ちいい……」

 

 心からまろびでた言葉であった。

 ジークフリートもそれを聞いてうすく微笑み、背後から彼女を見つめていた。白い光沢を孕んだ十六夜の黒髪は、空の陽光を受けて、さらにつやを増して靡いていた。海面に沈み、広がるそれは、扇のようだった。彼は指先でその房をひとすくいしてみたい気持ちになったが、やめた。何か、恥ずかしさのようなものが、年甲斐にもなく生まれたからだ。

 

「なんだ?」

 

 十六夜が違和感に気づき、後ろを振り返る。彼女にしてはあどけない表情だった。

 

「いや、別に」


「そうか、ならいい」

 

 そのまま無言で泳ぎ続ける。

 少し離れた距離で、アルベリヒが他の人魚につかまりながら、こちらを見続けながら含み笑いのようなものを浮かべているのが目の端に入ったが、無視する。するとアルベリヒは体制を崩し、人魚から手を離して海に一度落ちてしまっていた。すかさず仲間の助けが入ったようだが。

 十六夜は前を向き、くちもとを海の中へと隠した。横から見える彼女の顔は、二重に薄青い影を作り、筆で描いたような形の良い闇色の眉毛を寄せ、白い眉間にかすかなシワを作っている。何か苦しいのだろうか? 

 

「十六夜」


「なんだ」


「大丈夫か」


「別に……」


「もしかしてお前、カスターニエのことを気にしているのか」


 確信をついた問いだったようで、十六夜はさらに眉を寄せる。横目でジークフリートを見やる。闇色の目の中に、白い真珠の粒のような光が鈍く光っていた。


「……」


「俺も、戦場で多くのものをこの手で殺してしまった。だから、お前の気持ちは

わかる」


「……」


「殺したくて、殺したんじゃない、と言ってもな。それは当人にしかわからない感情だ。複雑なものだ。俺も、永遠にこの感情とは蹴りがつけられないだろうと思っている。何をしていても罪悪感が拭えない。健やかに眠れる日はないのではないかと覚悟している」


「……」


 十六夜はジークフリートの言葉で、僅かな救いを得たのか、眉間のシワを少しばかり緩めた。

 

「カスターニエを殺めたとき」

 

 十六夜は静かな声音で語り出した。

 ジークフリートは黙って聞いていた。


「あの者も肉の斬れる感触が、骨の斬れる感触がした。それが今でも手に残っている。女王を守ると謳いながら、私はもう2度と刀の鞘を抜くことはできないのではないかと感じている。怖いのだ」

 

 十六夜の着物を纏った肩が、小刻みに震えていた。ジークフリートは何も言わず、ただ彼女の肩を掴んでいた手に、そっと力を込めた。すると、十六夜はその手に、海中へと下ろしていた右手を上げて、そっと指先を重ねた。

 十六夜の爪は人の女のものよりも僅かに伸び、くちびると同じ椿の花弁色をしている。そこに空の青がうつり、ほのかな天色にさざめくように輝いた。

 ジークフリートは驚いたが、他のものに見えぬように姿勢をずらし、空を見上げていた。

 

 突如、壊れたホラが吠えるような、大きな音が海底から海面へと鳴り響いた。

 

 十六夜は、はっと顔を上げた。黒髪がたなびき、筋を持って風に乗る。

 

「なんだってんだ! 一体!」


「あ、あれーー」


 ブレンが指さした先を見て、一同は目を丸くした。こんもりと海の水面の一部が盛り上がり、さらに白い泡立ちが見え始める。

 人魚たちが一斉にそちらに気を取られ、踵を返したので、彼女たちの色とりどりの尾鰭がぶわりと上がり、細やかな潮の泡を空へ投げる。

 赤や黄色、青色に瞬くそれらは、刹那的なうつくしさを見せる。

 やがて泡から大砲のように打ち出されたのは、人魚たちだった。それもゾンビのようにおぞましい顔をした。目を血走らせ、肌は青黒く染まり、口が裂けんばかりに剥き出しになった牙は、黄ばんで汚く陽光に照らし出されていた。

  蝿の羽音が重なり、唸りを上げるような声が、徐々に音量を増して聞こえてくる。

 海面に白い波を作り、こちらへ向かってくる人魚たちの様は、悪鬼そのものだった。くちから垂れた唾は、途中から赤黒いものへと変化している。ただれ落ちたそれを、彼女たちが生み出した波が攫っていく。

 

「うわぁあっ!」

 

 アルベリヒやブレンはその光景に恐れ慄き、

 背乗りしていた人魚たちの掴んでいた肩の力を強めてしまう。人魚たちはそれで泳ぎの速度をはやめ、あらわれた人魚の群れから遠ざかろうとする。

 

「何これ……。なんだ、これは……」

 

 ブリュンヒルデは、アカネを乗せていた背を僅かに上げながら、狂気に満ち溢れた光景を見やっていた。

 ぶくぶくと浮かんでくる、血の入り混じった泡たちを孕み、囲まれながら、魔女のように伸びた人魚たちの爪が、牙が、瞳孔のない濁ったまなこが、こちらへと迫ってくる。冷たいはずの海が、人魚たちが出現してくる輪の中だけ、ぐつぐつと湯が煮えたぎるようだった。

 ジークフリートは背筋を伸ばし、人魚たちの姿を呆然と見つめながら、あることを思い出していた。


(フレデリック……。あいつは、死の間際に、何かやっていなかったか? 腕に隠した時計で、何か発射するようなーー)


「あの白メガネ。人魚を狂わす超音波を出しよったか」


 ジークフリートは、はっとした顔で十六夜を見下ろした。

 十六夜がくちびるを噛み締め、嘲笑するように口角を上げた。声は掠れている。瞳には、悲しいような切ない色が、灰色の鈍い光となって浮かんでいた。


「……ロゼもそう思う?」


 ブリュンヒルデも眉間にシワを寄せ、真剣な顔で見やっていた。

 ジークフリートはブリュンヒルデを見た後、こちらに向かってくる人魚たちを見やった。大きく口と手を広げている姿は、殺意そのものでしかない。


「歌を……、歌っているように見える」

 

 ジークフリートはつぶやいた。

 確かに、人魚たちは蠅の羽音が重なるような唸り声を上げて、それが重なっている。聞こえようによっては、合唱のようにも聞こえてくる。狂気を孕んでおり、決してうつくしいとは言えないが、何かものがなしい、切ない歌声。

 灰色の竜巻が渦を巻くように、上へ上へと登っていくが、くねるような重音は、確かな音と定まらないで消えていく。

 ブリュンヒルデは眉を震わせた。ついで出たものは涙だった。悲しみの涙。

 

「あっ、そうだ! アオイくんの声だったら人魚の歌声をかき消せるんじゃないですか?だって彼は『カナメ』なんだから!」

 

 ブレンが救いを見出したように、あかるい声で皆を励ます。

 アカネはアオイに向かって頷く。

 アオイはそれを受けてこくりと頷き、人魚のいる方を見やる。鼻から息を一気に吸うと、腹に一度空気をため、口を大きく開けて声を張った。

 

「ーーーーー!!」

 

 アオイの大声が、潮を含んだ空気を震わせる。そばにいた人間や人魚たちは、片耳を片手で抑え、片目を瞑ってそれがもたらす独特な痛みに耐えた。気を抜くと、耳を潰されてしまいそうになる。

 アオイが声を枯らす。一拍置いて、身を震わせると、「けほっ」と空気の塊を吐いて、喉を押さえて咳き込んだ。

 

「アオイ!」

 

 別々の人魚に乗っていたアカネはすぐにでも弟のところへ行って背をさすってやりたい、というように、体を動かしたが、乗っていた人魚が片腕を回し、首を振ってそれを制す。 怒声のような、悲鳴のような、不確かな不協和音が、あたりにこだまし、海面を縦に揺らす。地震のような振動。水滴が、縦に跳ね、また海面へと落ちて溶けてゆく。

 あまりにも激しいその揺れと、狂った人魚たちの泳ぐスピードに、男たちを背に乗せていた人魚は胸の気持ちが悪くなり、顔を青ざめて体制を崩すものさえいた。

 それを見て十六夜は目を釣り上げて怒る。

 

「だめだ! 今陣を崩しては、相手の思うつぼ。全員殺されるぞ!!」

 

 後方にいた人魚が、その声に、はっと顔を上げる。彼女は背中に人を乗せていないものだった。しんがりを買って出て、皆が安全に泳いで行けるよう、背後に怪しげなものがいれば報告する係。

 真緑の鱗を持つその気高い人魚が、くるりと後ろを振り向き、狂った人魚たちに立ち向かおうとする。だが、背筋を伸ばして鱗を翻した刹那、先頭にいた人魚が歯を剥き出し、白い肩に噛み付いた。

 それからのことは一瞬のことで、一同はただ唖然と口を開けているしかなかった。周囲の景色にワインレッドの雲がうすぼんやりとかかって見える。

 柔らかな肩を噛み砕かれた人魚は、そこからあざやかな血肉の色を剥き出しにして、男に無理やり抱かれた女のような顔をして苦しんで死んだ。最後にあかい細かな泡となって消えた彼女を腹で押し潰し、狂った人魚たちは腕を交互に漕いで不自然な泳ぎ方で進んでいく。よくよく見れば腕も骨張り、皮だけとなって、わずかに残された筋肉のすじが張り付いて見えている。池の蛙を思わせた。

 後方の人を乗せていなかった人魚たち数匹は、果敢な性格の一匹がやられたのをきっかけに、恐怖から隊形を崩してしまった。今まで規律の取れたうつくしい泳ぎを見せていた女たちと思えないほど、がむしゃらに手と尾鰭を動かし、大きく波音を立てながら四方へ散らばっていく。

 

「待て! 陣形を崩しては危うい!!」

 

 ジークフリートの制止の声も虚しく、大きく片腕を振りかぶって、逃げようとする人魚のレモン色の尾鰭を乱暴に掴み上げ、吊るすかのごとく大きく持ち上げると、そのまま勢いよく海の中へ落とす。それを繰り返され、レモン色の人魚はいつの間にかこと切れて、最後に海面から出された時には白目を剥いていた。

 同胞を殺すことに、なんのためらいもない。

 一同の体の芯を、すっと冷えた氷が縦に通過する。

 

「……このままだと」

 

 自分の持てる限りの力を使って泳ぐ人魚たちの背に乗り、巻いた茜色の髪を潮風になびかせながら、アルベリヒは青いくちびるでつぶやいた。

 声は掠れ、乾いている。

 

「全滅だぞ」

 

 ジークフリートも同じことを考えていたので、俯き、前髪で顔を隠すと前歯でしたくちびるを噛み締める。

 ブレンやアカネたちは、もう半泣きになっていた。死への恐怖、それも得体の知れない海の生物に殺されるという恐怖で、小さな足は震えており、その振動が、乗っている人魚たちに伝わり、人魚たちの不安もさらに大きく膨らんでゆく。

 ブリュンヒルデも速度を上げつつ、必死で恐怖の色を顔に出さぬように努めていた。だが、彼女も未だ少女。白かった頬は青氷色をまとった白さへと変化し、くちびるは意図せず、カタカタと鳴っている。

 狂った人魚たちは、後方の人魚たちを全員残酷な方法で殺し、泡へと変えてしまうと、ふたたびこちらへと狙いを定め、泳ぎの体制を整えようとする。

 痛めた喉を押さえ、人魚の背後からちらとその様子を確かめたアオイには、それがどこか楽しげなまつりを行う者のように見えていた。

 十六夜は速度を上げて泳ぎながらも、ずっと1人で何かを考えていた。その考えはやがて決意へと変わり、きつく寄せた眉間から溢れる英気がもれいずる。

 ジークフリートはそれを感じ取り、眉を寄せて十六夜を見下ろす。何か嫌な予感がした。

 

「おい、十六夜……」


「私が残る。みなは先に行け」

 

 十六夜は顔を上げなかった。彼女の目の前にはただ紺碧の海が広がっていた。陽光を反射し、白い光の粒をころがす穏やかな海。彼女を産んだ場所が。


 ジークフリートは目を瞠った。

 

「お前……何を」


「そうだそうだ! ロゼちゃんが残るって……、てめえ、何言ってんだよ!」


「ロゼさん。なんで……」


「ロゼさん……、俺たちと一緒にまた浜辺で歌を歌うんじゃないのかよ!」

 

 ブレンを含む子供たちは、十六夜の方を見ながら皆涙目になっていた。

 ジークフリートだけが、まばたきもせずにじっと十六夜を見つめ続けている。

 十六夜はあえて背後の彼の方を振り返らず、海をじっと見つめた。

 平行に広がる蒼い線。ときおりふわりと吹く風に、ゆらぐ三角の波が、静かに立っている。やがてその水面から視線を剥がすと、皆を慈しむように見やった。

 皆、眉と瞳を震わせながら、十六夜を見つめている。不安げな面持ちに、なぜだか愛おしさが込み上げ、十六夜は眉を寄せ、瞼を伏せてふっと微笑んだ。切なげな笑みだった。

 ふたたび半分瞳を見開いたとき、静かに凪いだまだらな深い黒が、そこに広がっているばかりだった。


「ジーク」

 

 背後を振り返らず、凛と玲瓏な声で己の名を呼ばれ、ジークフリートはうすく開いていたくちびるを閉じた。

 

「私の名を、『十六夜』と呼んでくれたのは、家族が死んでからそなたが初めてだった」

 

「十六夜……」

 

 ジークフリートはかすかに目を瞠る。

 十六夜は顔を彼の方へと向ける。目を眇めて。夜に雨に濡れた樹の幹が潤んでいるような色をした眸だった。うすいくちびるは、半月の形の笑みを宿したまま。

 

「私を呼ぶものは、ずっと『ロゼ』か『ダルク』と言う者しかいなかった。そなたがはじめてだった。十六夜という和名は、亡き姉がくれたものだ。彼女もミドルネームに和名を持っていた。『満月まんげつ』という名だった。彼女が黒い夜に、荒れた日の海面に孤独に顔を出したとき、真上に見えた十六夜の月の黄色い光が、彼女を群れへと導いてくれた。私も、この名が好きだった」


 十六夜は瞳の水面を震わせる。そこにその日に彼女の祖母が見たという黄色い月が浮かんでいるように見えた。


「ありがとう。感謝している」 

 

 陽光がさし、儚げな彼女の笑顔が、しろく照らし出される。眩い笑顔は、今にも消えてしまう陽炎のようで、ジークフリートは右手を伸ばした。だが、その前に、彼女は両腕を伸ばして彼を突き飛ばす。体勢を崩した彼は、

 すぐそばにいたアルベリヒに背後から抱きとめられた。

 ふいのことで目を閉じてしまい、気づいた時には十六夜は消えていた。

 

「おい!」

 

 ジークフリートが体を起こす。

 

「ロゼちゃんっ……。ってうわわ」

 

 てのひらで背中を支える形でいたアルベリヒが、急に彼が剥がれたので体勢を崩してしまい、足をばたつかせて体勢を整えた。

 

「十六夜ーー」

 

 海面を見渡すと、十六夜は飛魚のような泳ぎ方で狂った人魚の群れへと向かっていた。

 ジークフリートの脳裏に、稲妻が走ったようにある映像が浮かぶ。

 モノクロの世界。遠いこの海の上で。

 敵艦を沈没させるために、特攻した父の小

舟。

 

「十六夜!!」

 

 あらんかぎりの大声で、ジークフリートは叫んでいた。十六夜の向かった方角へ体を向かわせようとするも、はっと制止する。彼女がひとりで特攻した意味が、頭の中を一瞬でめぐりーー。

 

 ジークフリートは十六夜の泳ぐ方向から、粘着度の高いテープを無理やり剥がすように

体の向きを変える。俯き、前髪が目にかぶさり、灰色の影をともした表情は見えずらくなっていた。

 

「行くぞ」


「えっ……、おいロゼちゃんほっといていいのかよ!」


 ジークフリートがアルベリヒを睨んだ。

 他の者には逆光となって彼の顔は見えなかったが、アルベリヒにだけは見えていた。そしてアルベリヒは目を瞠り、驚いて瞳を震わすと、顔を歪め、歯を強く噛み締めた。


「行ってくれ」


 人魚の背に体を伏せ、彼女の肩を叩いて前進を促す。

 ブリュンヒルデも顔を歪め、大きく目元に透明な涙を溜めると、人魚たち全員に対して頷き、前進を促した。苦しそうに眉を寄せながら。

 ブレンやアカネたちは泣きながら十六夜の名を呼んでいたが、アルベリヒに促され、子供たちを乗せていた人魚たちはその命を受け、素早く前へ前へと泳ぎ出す。なお暴れようとするアカネを、他の人魚が引き受け、代わりに彼女はジークフリートを肩に掴まらせた。

 彼女たちの胸元から生まれた静かな白い波が、青い海と混じって境が水色になる。胸を支点にして、広がってゆく三角は、均一で、この地獄絵図のような海の中でも、うつくしく映えていた。唯一の救いのようだった。

 ぐんぐんと進む彼らは、悪鬼の人魚の渦から遠ざかっていく。

 ジークフリートは背後を振り返らなかった。

 泳ぎによって生まれた潮風が、彼のブロンドをさらに煌めかせ、燭台にともした金色のほむらが、揺れてはためいている様だった。

 人魚たちにおぶわれ、肩を必死で掴んで振り落とされぬようにするしかないブレンたちは、涙で顔を濡らしながら背後を見ていた。

 十六夜が両手を扇のように広げて、海を滑空するように泳ぎ、人魚たちの群れに迫る。

 狂った人魚たちは、爪と牙を剥き出しにして、彼女に襲いかかる。

 十六夜は人魚のひとりが肩先に触れようとする刹那、しゅん、と海から何かを弾くようにとりだす。

 人魚の鎖骨と胸がまっぷたつに斬れ、スプリングシャワーのようにあざやかな血が一気に吹き出した。

 彼女が取り出したものは、やはり刀であった。

 冷静だが真剣な顔は、まさに東洋の誇り高き武士とひとしかった。

女も、種族も関係なく。そこにいたのは、ひとりのつよい侍。

 

「せぇいっ!!」

 

 大きな掛け声を、腹の奥から響かせるように出すと、十六夜はリズムを取る為に歌を歌い始めた。低く、滑らかなその歌は、かつてジークフリートがはじめて彼女に会ったときに浜辺で聞いていた歌声と同じだった。

 ジークフリートは強く歯噛みし、ブリュンヒルデの白いうなじに顔を軽く伏せた。

 十六夜は人魚たちを指先でちょいちょいと煽ると、怒った人魚たちが彼女を襲おうとする。

 十六夜はくるり、くるりと海の上で身を転がしてそれらをかわし、彼女らをジークフリートたちとは反対の方向へと誘導する。

 歌いながら泳ぎ、悪鬼たちを自分へと向かわせるその姿は、なぜだかうつくしく、見惚れるような凄絶な魅力を放っていた。

 十六夜の白い手が、雪のようにひらひらと舞う。

 やがて仰向けで泳ぐ彼女の胸元に、人魚たちが重なってくずおれるように覆い被さる。

 闇に隠れる一瞬、十六夜のくちもとが、桜の花が綻ぶよう微笑んで見えた。

 

 

「ロゼさーーん……!!!」

 

 アカネが大粒の涙を流しながら背後に向かって叫ぶ。語尾は掠れて切れてしまっていた。

 アオイも顔を赤くして、声を苦しそうに嗚咽を漏らしている。

 十六夜も人魚も海の中へと消えて、しんと静かな凪が訪れる。やがて、水墨の筆を落としたように、じわり、と紅いものがその周辺にだけ広がり、ついで、ぼこぼこと大量の泡が大小とわず生まれ、円を描いて広がっていった。

 ブリュンヒルデは嗚咽を漏らしながら、尾鰭をなんとか動かし、前へ向かって泳ぎ続ける。

 アルベリヒは唖然として絶望した顔をしていた。

 

「くっ……。ふぅっ……」

 

 ブレンも涙を拭うが、拭っても拭っても涙が溢れ、掴まっていた人魚の背に顔をつけてぽろぽろ海へと涙を落とす。

 ジークフリートは誰にも聞こえぬほどに小さな声でただ一言「ありがとう」と掠れた低い声で呟くと、ブリュンヒルデの右肩に置いたてのひらを離し、そっと開くとかすかに震わせ、拳を握りしめた。

 



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