ブリュンヒルデのみつあみ 

 ブリュンヒルデは籠の中から外を見ていた。

 薄青い空の下に広がるセピア色の街。

 そこに生きる人々の明るい笑顔。動き、仕事をしている様子。

 そのどれもが、海の世界しか知らなかった彼女にとって、新鮮なものだった。


(陸には、こんな世界が広がっていたの)


 ブリュンヒルデは胸の内側に静かな感情が広がっていくのを感じていた。それは、好奇心というものだった。

 頭の中央に、熱い雫を落とされて、それが彼女の体を巡る血潮に染み渡り、広がっていく。なんだか不思議な心地だったが、決して嫌な感じはしなかった。むしろ、長い間眠っていた生命力を、心臓が取り戻したような気がした。


(私が知らない町、人、文化、食事ーーこの世の中にはたくさんあるんだ)


 ブリュンヒルデの大きな瞳が、虹色に輝く。

 ごとり、と籠が揺れて、背筋を伸ばしていたブリュンヒルデは「あっ」と声を上げて僅かに体制を崩した。

 彼女の尾鰭がぱしゃり、と腰の位置まで入れられていた海水を叩いて透明な飛沫を作る。


「すまん。大丈夫か」


 籠の壁の外から、小声でジークフリートの声が聞こえた。声色から、こちらへの気遣いを感じる。

 ブリュンヒルデは幼さの残る右手をそっと口元につけ、壁に桜色のくちびるを直接つけて「大丈夫」とジークフリートにしか聞こえない程の音量で返した。

 壁の向こうで「そうか」という声が聞こえた。心なしか、その声には暖かな色を感じる。

 ブリュンヒルデは微笑むと、尾鰭を自身が苦しくない程度に曲げて、膝を白い両腕で抱いた。そして、そこに顎を乗せる。

 

(兄さん。ニンゲンも、悪い人ばかりではないみたいよ)

 

 海の深く。

 珊瑚の群れの上を明るい兄に手を引かれながら、泳いでいた夏の日の、幼い記憶が蘇る。

 珊瑚は薄紅と橙色を混ぜたような、艶やかな色をしていて、とても美しかったのに、なぜかその棘が怖くて、怯えながら兄の手を強く握っていた。

 海の中は冷たいのに、兄の手は暖かった。その温もりと同じものを、ジークフリートには感じていた。

 

(感じてはいけないのかもしれない。だけれど……)

 

 人間に対し、いまだにどういった距離感で接していいのかが、接することが許されるのかが、わからなかった。

 姉様人魚たちを屠られた事実は消えない。

 こちらも、ジークフリートたちの仲間を殺した事実は消えない。

 なのに、彼らへ感じるぬくもりを、冷たいものとして返すことが、ブリュンヒルデにはできなかった。

 

(どうすればいいの。どうすれば……)

 

 悩みは苦しみへと変わり、少女の小さな胸をきりきりと痛めつけた。富士額には縦に細かな皺が刻まれ、形の良い金色の眉は中央へきつく寄せられる。丸いまぶたもきつく伏せられ、彼女の白い頬に花弁のような形の影を落とした。そのまま額を膝の上につけ、しばらくの間、顔を上げることはなかった。

 

 再び顔を上げたとき、先ほどよりも陽光が白く光って見えた。


(あれ、私……)

 

 茫としたまなざしを、籠から僅かに開いた窓から見る。薄い水色のそれ越しに見る外の景色。それは、なんだかいつも見上げていた、海の中から見る空に似ていてーー。

 するとそこを少女が1人、通りがかった。

 歩く速度が速かったので、ブリュンヒルデの視界に一瞬映っただけであったが、彼女の流れる榛色の髪と、その結い方に、ブリュンヒルデは心奪われた。それは海の世界では決して見たことがないものだったからだ。同じ年頃の少女。全く違う地上と海水で生きるふたりの命が、その一瞬だけ交差した。


「ーージーク」

 

 ブリュンヒルデはじっと外を見つめたまま、気づけば背中のジークフリートに話しかけていた。

 

「あのね。無理だとは思うんだけれど……お願いがあるのーー」

 

 ブリュンヒルデは微かな声でそう告げると、

 海水に浸っていた自分の髪を、一房指先で持ち上げた。それを膝のあたりで、たらりとぶら下げて、じっと見つめる。自分の体の部位で、一番気に入っている、滑らかなブロンドの髪だった。ゆるく曲げると、緑の光沢を放つそれは、亡くなった兄と同じ色をしている。

 

 ジークフリートはブリュンヒルデの願いを聞くと、ゆっくりと速度を落とし、人気のない路地裏で、彼女を地へ下ろすと、籠の蓋をそっと開いた。


「はぁ」

「久々の外の空気はどうだ」


 ジークフリートは立てた膝に腕をかけてブリュンヒルデに尋ねた。


「うん。見慣れない人が多くてびっくりしちゃったけれど、すごく美味しい」

「そうか。そりゃよかった」


 アルベリヒはブリュンヒルデの笑顔を見て、眉を上げて笑う。


「ブリュンヒルデさんのお願いって、なんですか?」


 ブレンが立ったまま不思議そうな顔で彼女に問う。下から見上げると、ブレンと他の男2人の背の高さの違いがよりはっきりとわかる。ブレンはアルベリヒとジークフリートの、肩と腰の中間の背しかなかった。そんな彼でさえも、戦士なのだ。そのことに今更気付き、ブリュンヒルデは、ジークフリートに借りた腹巻の内側に隠した淡い胸がきりりと痛んだ。


「あの……あのね」

「いいですよ。ゆっくりで」


 にこりとブレンが人の良い笑みを浮かべる。

 ブリュンヒルデはそれをまともに見て、心に暖かなともしびが灯るのを感じた。

 

「あのね。わがままなのは、わかっているのだけれど、私の髪」

 

 ブリュンヒルデは両手でこめかみを流れるふたつの房をきゅっと握りしめると、真顔で彼らを見上げる。

 気のせいか頬が熱い。

 

「私の髪を、結って欲しいの」

 

 3人はそれを聞いて、しばらくポカンとした顔をしてブリュンヒルデを見ていた。

 ブリュンヒルデは今にも泣きそうな顔でくちびるを引き結び、強い目力で3人を見上げている。

 

「ブリュンヒルデさん」

「えっなに?

「顔真っ赤ですよ! 大丈夫ですか?」 

「えぇっ、うそ!」

 

 ブリュンヒルデは房から手を離すと、ぱっと両手で己の頬を包んで俯いた。手のひらに、熱が伝わってくる。

 側から見れば彼女の白い頬は、熟れた桃のように濃いピンクに染まっていた。

 その色は、3人の男の心を和ませるのに、ぴったりの色だった。


「で、ヒルデの嬢ちゃんよ。俺らにどうして欲しいってのさ」

「おい、あまりブリュンヒルデをいじめるな」

「いじめてねえよ! 元からこういう嫌味ったらしい声してんだよっ! ごめんね〜」

「ブリュンヒルデ、俺に何をして欲しいんだ」

「おいっ、無視すんなよっ!」

「……髪を……、結ってほしいの……」

「へ?」

「髪を」

「……うん」


 そういうと、ブリュンヒルデはさらに顔を俯け、真っ赤な薔薇のように染まった。

 ジークフリートとアルベリヒは顔を見合わせると、再びブリュンヒルデに視線を向ける。


「なるほどな。確かにクソ長いもんな。嬢ちゃんの髪は」

「女性の髪に対して『クソ』ってつけるの、どうかと思いますけどー」


 アルベリヒが納得しているのを、ブレンが突っ込む。

 ジークフリートはしばらく瞼を半分伏せてブリュンヒルデを見つめていたが、やがて口を開いた。


「……いいぞ。やってやろう」

「え、本当に?」

 

 ブリュンヒルデは、俯いていた顔をぱっと上げる。その大きな瞳はオパールのように輝いていた。彼女の嬉しさを、わかりやすくあらわにしている。

 それを見て、ジークフリートは不意にクリスマスイブの次の日の朝の、プレゼントをツリーの靴下から見つけて自分に喜んで見せに来たリリューシュカの冬晴れのような輝いた顔を思い出した。


「どんなものがいいんだ」

「あのねっ。あのねっ。あの」

「落ち着いて言え」

「あっ、ごめんなさいっ」

 

 ブリュンヒルデは慌てて口元を両手でおさえる。

 ジークフリートはその様子を見て、勝手に目元が柔らかくなっていた。

 薄く口角を上げる。

 

「あのねっ。さっきすれ違った子覚えてる?」

「すれ違った?」

「うん。こう、髪がこんな風になってた子!」

 

 ブリュンヒルデは、後ろ髪もこめかみの房と共に両手で束ねた。ちょうど、二房のおさげが、彼女の白い手に結われて出来上がっている。


「それで、この房が、ええっと」

「嬢ちゃん、もしかして、髪編んで欲しいんじゃねえの? みつあみによ」

「……ああ。なるほど」

 

 アルベリヒに指摘されて、ジークフリートはようやく理解した。

 

(アルベリヒが乙女心を察したのも、なんだか愉快だな)

 

 ジークフリートは内心笑っていた。

 ブリュンヒルデの前でしゃがむと、彼女の掴む髪の先を、そっと右手のひらに乗せた。さらさらとしているが、豊かなその髪は、上等の手触りだった。

 

「やってやる」

「おっ、女落とす時はそうやってるんですか。司令官殿」

「ベルツさんっ! うるさいですよー!」

 

 間近で見るブリュンヒルデの瞳は、砕いたばかりのオパールのように、ひときわ輝きを増した。あまりの喜びで、ジークフリートと鼻先が触れ合ってしまいそうなほどに顔を近づけ、満面の笑みを浮かべた。長いまつ毛は満開のたんぽぽの花のようだった。

 

「ジーク! ありがとう!!」

「背を向けろ」

「うん」

 

 ブリュンヒルデは、ぱっと自分の髪から手を離すと、くるりと回り、ジークフリートに背を向けた。

 金の髪を左右に分けると、柔らかく白い肩と肩甲骨が剥き出しとなる。ブリュンヒルデが年頃の娘だという事実を思い出したジークフリートは、直視していいものか悩んだが、リリューシュカのことを重ねて、ひとつにまとめた髪を編むことに集中した。

 ブリュンヒルデの髪は、長い間海の中で暮らしていたとは思えないほど柔らかく滑らかで、適度な水分を含んでいた。絹よりも触り心地の良いブロンドだった。うっかりすると、編んだものがすぐに解けてしまう。

 

(この髪を編むのはなかなか至難の技だな)


 試行錯誤していたが、ジークフリートはなぜか彼女の髪を編むのを心から楽しんでいた。

 やがて一房の髪を編み終わり、もう一房の髪を先まで編んでポケットに入れていた深緑色の髪ゴムで纏めた後、大人しく前を向いているブリュンヒルデに声をかけた。

 

「できたぞ」

「えっ、本当!? ありがとう!」


 喜ぶブリュンヒルデは、ぱっとこちらを振り向いた。同時に、彼女の編んだ2つのおさげが円を描いて揺れる。 

 まとわれた光の粒子は、ペールグリーンの色をしていた。蛍のようなその細かな光は、彼女のおさげの先が重力を伴って地の方へ落ちるとやむ。

 

「わぁっ! ブリュンヒルデさん! 似合ってますよ! かわいい!」

 

 ブレンが心から嬉しそうな笑顔を浮かべてぱちぱちと指先だけを合わせる拍手をブリュンヒルデに送った。

 

「そ、そう? ありがとう。嬉しい」

 

 ブリュンヒルデの頬は血色の良い薄紅に染まり、口角が愛らしく上がる。柔らかな頬の頂点が陽光を受けて鈍く光る。

 

 その後、ブリュンヒルデを籠に戻し、背負い直したジークフリートは、一行を連れて先へと歩き出した。

 

 ここに、この世でただ1人の、みつあみの人魚が誕生した。

 




 




 




 


 

 

 

 

 

   

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