第八話 コスパでは測れない感情に出会った時

 サエと一緒になんとかエントランスを出て、道に出る。

 夜遅い時間のために、人通りはほとんどない。


 ・・しかし・・いったいどうしたんだ・・・突然・・・いや・・家を出た途端に、様子がおかしくなった・・・


 ・・・ひょっとすると・・・サエはかなり重度の引きこもりなのではないか・・・


 長期に渡って、引きこもると、外に出るのを異様に恐れるようになる・・・

 そんな、数十年間引きこもっている人の記事をどこかで読んだことがある。

 その時、酷く不安になったから、その記事の内容は、鮮明に記憶に焼き付いていた。


 だが・・サエはそんな長期間引き込まっているという訳ではないはずだ。

 そもそも、病院にも一人で来ていたようだし・・


 「え・・・ちょ・・と・・ど、どうしたんです・・・」


 突然、サエが、しがみついてきた。

 文字通り、キヨトの肩を両手でがっしりと挟んで離そうとしない。


 「す、すみません。ひ、人が・・車が・・来たので驚いてしまって・・」


 確かに、前方から車が来て、通り過ぎていった。

 しかし、別に猛スピードで突っ込んできた訳ではない。

 普通に道路で車とすれ違っただけだ。


 それにもかかわらず、サエのこの怯えようときたら・・・

 明らかに尋常ではない。

 初めて車を見た幼児が大泣きして、母親にしがみつくように、こちらに体を思いっきり寄せてくる。


 それに、サエの大きな瞳は、今にも涙が零れ落ちそうなくらいに潤んでいる。

 今の状況は、客観的に考えてみれば・・そうかなり、オイシイ・・はずだ。

 美しい少女が瞳を潤ませて、自分を頼って、抱きしめてくれる。


 そんなシチュエーションを頭の中で・・アニメや漫画の力を借りて・・・妄想して、大きなコンプレックスの一つである非モテの鬱憤を晴らしたことはそれこそ何度もある。

 だが、実際にいま妄想が具現化した時、心を支配するのは、不安だけだ。


 ・・・やっぱり・・サエはどこかおかしい・・・


 今までも、サエの言動はおかしかったが、少なくとも表面上の態度は冷静沈着だった。

 だから、まだいくらか安心していられた。

 だが、今のサエはその態度すらも明らかにおかしくなっている。


 この場で、サエが今倒れてしまったら・・いやもっとおかしくなって、わめき出したら、どうすればいい。

 救急車を呼ぶ・・・だが俺はサエとどんな関係があると相手に言えばいいんだ・・・


 見捨てて逃げる・・という手もあるが、そんなことができるほどの勇気はない・・・


 「あ、あの・・・サエさん。とりあえず、どこかで休憩しませんか?」

 「え・・だ、大丈夫ですから・・」

 「い、いや・・とりあえずそこの公園でも・・」


 サエは、なおも頑なに平常なフリをする。

 だが、今にも倒れそうなサエと一緒にこのままスーパーに行くのは、あまりにもリスキーな選択だ。

 ちょうど近くには、例の公園があった。


 それに、ほとんど卒倒寸前のサエは、全体重をこちらにかけてきているため、サエがいくら華奢な少女とはいえ、その負荷はかなりのものになる。

 ほとんど家にいて、運動という運動をしていないキヨトの軟弱な体は、突然の負荷に悲鳴を上げている。


 サエを公園の奥にあるベンチまで運んできた時には、キヨトは、大量の汗と全身の筋肉、関節に鈍い痛みを覚えたほどだった。

 サエは、その間、ほとんど身動きせず、顔色もますます悪くなり、「はあ・・はあ・・」と、息苦しそうな声を発するだけだった。


 ベンチに座らすと、そのまま倒れ込みそうだったので、隣に座り、サエを支える。

 サエは、座るだけの気力もないのか、頭をもたれかけてきた。

 結局、サエの頭が、座っているこちらの両足を枕にして・・つまるところ膝枕をしているような格好になった。


 公園のベンチで少女を介抱し、膝枕する・・・という奇妙な状況のまま、数分いや下手をしたら数十分過ごした。

 幸いなことに、サエの呼吸も徐々に落ち着きを取り戻し、顔色もだいぶマシになってきた・・・ように見える。


 さっきから、視線はずっと真正面に向けている。

 だから、サエの様子は、息遣いくらいからしか判断できない。

 

 何か話しかけるべきだったのだろうが、辛そうにしているサエに対して、余計なことを言うべきではないと自重した・・・

 いや・・・こちらも不安でそれどころではなかったから、話しかける余裕がなかったのかもしれない。


 「あの・・・サエさん・・大丈夫ですか?」


 意を決して、チラリと下を向き、サエの顔を見る。


 「・・は、はい・・だ、だいぶ落ち着きました・・・あ、ありがとうございます・・・」


 サエがこちらを見る。

 一瞬、目が合うが、キヨトは反射的にすぐに目を逸してしまう。

 サエが回復して、先程からずっと考えていた不安から開放されたからなのか、今度は別の不安が芽生えてきた。


 今さっき、サエを見た時・・その大きな吸い込まれそうな瞳と目が合った時・・・に、美しいと感じた。

 そして、その感情は、すぐに、別のものに変わった。


 ・・つまり、性的なものに・・要は興奮してしまっていた。


 だが、幸いなことに、キヨトの心は、美しい女だと認識した時、別の感情の方が強く出るようになっている。

 特に、リアルな世界で面と向かって会った時はなおさら脳は、そちらの回路を優先するように学習している。


 長年の経験から、その反応がキヨトの心を防御するために、必要なものだと、脳は認識しているのだ。

 だから、キヨトはサエと目が合った瞬間・・一秒に満たない時間・・・に、興奮し、そして、恐れ、不安を感じた。


 つまるところ、スマホやパソコンの画面に映っている場合を除いて、現実の世界で、相対する意思を持った美しい女は、例外なくキヨトの自尊心を踏みにじるものなのだから。


 そして、不安は、防御反応を刺激し、キヨトの頭を冷静にさせる。


 「あの・・・そろそろ・・・起き上がれますか?」

 「えっ!・・は、はい。す、すみません。」


 サエは、ゆっくりと上体を起こして、ベンチに座る。

 サエが起き上がるのと同時に、キヨトは立ち上がり、距離を置く。

 その時、ふとサエの顔が視界に入った。

 こころなしか頬を赤らめているように見えた。


 その仕草が、せっかく冷静になったキヨトの心を激しく揺さぶる。


 「あの・・・そろそろ帰りませんか。サエさんがこんな調子じゃいつまでたっても先に進めないですし・・」

「・・・そうですね・・・すみません・・・」


 サエは、顔を下に向けて、しゅんとなっている。

 思わずトゲのある言葉を投げかけていた。

 サエのその物憂げな表情を見ていると、ますます心がかき乱されてしまう。


 「・・・あの・・ここで少し待っていてくれませんか。一人でスーパーに行って、適当に食べ物を買ってきますから・・・」

 「えっ!・・それは・・」


 サエの返事を待たずに、キヨトの足は、反対方向へと向いていた。

 そして、足早に公園を出て、道路へと向かう。

 あんな状態のサエと二人っきりでいるのは、嫌だった。


 あんな・・普通の女みたいなサエと一緒にいるのは・・

 クソ・・・何なんだ・・・あの女は・・


 感情がない能面みたいな顔をして、イカれた女だったはずなのに。

 「自分より下」の人間だから、一緒にいられたんだ。

 

 それなのに・・・突然、リアルな・・あんな感情豊かな・・・美しい女になって・・・


 そんな自分よりはるかに価値ある普通な美女と、どう接したらいいんだ。

 それに・・何故・・そんな「自分より上」の美女が、俺と一緒にいるんだ。

 離れた方がいい。


 キヨトはゲームが・・・特にRPGが好きだ。

 ゲームは努力を裏切らない。

 かけた時間はレベルとして目に見える数値として報われる。

 

 その考えの延長で、勉強も好きだ。

 これも比較的、掛けた時間だけ、数値として目の前に現れる。

 

 でも・・・人間関係はそうではない。


 人の心は、数値化できないし、特に現実の心は、あまりにも不安定だ。

 ようはわからないのだ。

 何を考えているのか。


 こう接すれば・・・こう反応する・・・ということは成長するにつれて、だいたいわかってくる。

 だけど、その方程式はやっぱり酷く曖昧なもので、予想外の反応・・危険な反応・・・が帰ってくることもある。


 そんなわけのわからないモノに触れたくはない。

 だから、友人なんて呼べるものがいたのは、せいぜいが、そういう計算ができないほど愚かな小学生くらいまでだ。


 中学生くらいからは、人との接触は可能な限り避けてきた。

 もちろん、完全に排除することはできないから、適当な浅い関係をなんとか築いてきた。

 だが、そうしたことが、なんというか・・・面倒になってしまった。


 きっと、無意識の内に、少しずつストレスをためていたのだろう。

 いつからか、学校に行くことが、ひどく嫌になった。

 浅い人間関係〜比較的予想ができるもの〜でも、相手の思わぬ反応に驚き、心が乱される。


 同性との浅いコミュニケーションでもこうなのだ。

 さらに理解できない異性との人間関係なんて、考えただけで、恐ろしい。

 もちろん、女と付き合うという行為を一度もしていない男=負け犬、という社会の価値観にキヨトも大分侵食されている。


 だから、自尊心を満たしたいという一点のみで、女と付き合いたいという気持ちはある。

 だが、その過程があまりにもハイリスクで、そして、その割に得られるリターンは僅かなものにしか思えない。


 自尊心を満たすこと以外で、女と付き合って得られるリターンといえば性欲を満たすことくらいだろうが、それは、他でいくらでも代替可能だ。

 要は女と付き合うとする行為はひどくコスパが悪い。


 だから、他のことにもっと時間をかけるべきだ。

 自分のスペックを上げることや、金を稼ぐ手段を見つけること、そっちの方がはるかに重要だ。


 そう・・そういう結論を出したはずだ。

 じゃあ・・なんで・・・こんなに、あの女の・・サエの顔を見た時、動揺したんだ・・


 今も、こんな理屈をアレコレ頭の中で、考えなければ、あの女の顔が・・サエがこちらを見つめてきたあの大きな目が・・脳裏に浮かんで離れない。

 そして、その際に心を支配したあのなんとも言えないこの感情・・・多幸感は・・・


 それは、性的欲求だと、思い込もうとしていたが・・・これは・・・違う・・今までに経験したことがない未知なモノだ。

 リターンは思ったより、大きいかもしれない・・そして、もしかしたら、それを手に入れられるかもしれない。


 そう期待してしまっている。

 でも・・・この大きな期待が裏切られたら・・・いや・・裏切られるにきまっている。


 そう考えていた方が、裏切られた時のショックも小さくてすむ。

 気がつけば、キヨトは、あの公園の前まで戻ってきていた。


 スーパーに行って、買い物をした・・という記憶はもちろんあるが、ほとんどサエの・・いやあの女のことで、頭がいっぱいだった。

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