第二話 どうにもできない空気に圧迫されて、押しつぶされそうな日々

 キヨトが通院している診療所は、家から数駅ほどのところにある。

 交通費がもったいないけれど、家の近くの診療所に行くのは嫌だった。

 キヨトの住んでいる場所は、都内の外れにある私鉄の沿線沿いにある。


 駅から徒歩15分ほどのところにあるどこにでもある特徴のないマンションがキヨトの家だ。

 これでも、キヨトがまだ幼い頃に両親が多額のローンを組んで、新築で買ったものらしい。


 都会のマンション暮らしにありがちな例にもれず、キヨトは隣の部屋の住民の顔さえよく知らない。

 とはいえ、そんな人間関係の希薄な都会といえども、十年以上も、同じ場所に住んでいると、色々なしがらみが出てくる。


 キヨトは、この近隣の小中学校に通っていた。

 だから、友達はいないけれど、顔見知り程度の人間は近くにけっこういる。

 そういう輩と近くのスーパーやコンビニで合うとひどく気不味いことになる。


 ただの思い込みなのかもしれないが、彼らが、キヨトに気付いた時に浮かべる表情は、馬鹿にしたような嘲笑の顔に見える。

 キヨトが現在、うつ病で学校を休学していることなんて、同じ高校でもない限り、ただの知り合いに過ぎない彼らは、知らないはずだ。


 だが、もしかしたら・・・彼らの知人にキヨトと同じ高校に通っているものがいるのかもしれない。

 そして、キヨトが、「引きこもり」「ニート」だと知って、嘲っているのかもしれない・・・


 そう思うと、チンケな自尊心がかき乱されて、酷く恥ずかしくなってしまい、居ても立っても居られなくなる。

 そういう嫌な遭遇を避けるために、キヨトは、自然と家の近くで行動することをできる限り避けるようになった。


 家の近隣を出歩く時は、目が隠れるくらい不自然なほどにニット帽を深く被り、自分だと気付かれないようにする。

 自意識過剰だということは自分でもよくわかっている。


 「誰もお前のことなんて、気にしていないさ。」と、キヨトは何度も自分自身に言い聞かせてきた。

 それでも、同世代の顔見知りに遭遇してしまった時、胸の動悸は否が応でも高まってしまう。


 最寄駅のホームに降りると同時に、キヨトはいつものように緊張してしまう。

 ニット帽を深くかぶり直して、見慣れた道を足早に歩く。

 今は、平日の昼過ぎだから、同世代はみな学校に行っているはずだ。


 そう思うと、心拍数は少し落ち着く。

 それでも、目の前に学生服を来た人間が視界に入る度に、ビクついてしまう。

 見慣れたマンションが視界に入ると、キヨトはようやく安堵のため息をつく。


 マンションの入り口で、住民とすれ違う。

 専業主婦らしい40代くらいの住民は、キヨトを見て、やや怪訝そうな顔つきをした・・ように見えた。


 平日の真っ昼間に16歳の男が、私服姿でうろついているのは、奇異に映ったのかもしれない。


 これだから・・・主婦は嫌いだ・・・別に学校に行ってなくてもいいじゃないか。 

 あんたも見方を変えれば、俺と同じ引きこもりだろうに・・・


 キヨトは、すぐに顔をそらして、下を向く。

 人を見ると、顔を伏せるのが、すっかり慣れてしまった。

 これでは、まるで、指名手配されている逃亡中の容疑者のようだ。


 だが実際、似たようなものだ。

 「若い男」という属性と、「引きこもり」「ニート」という属性が加われば、社会の共通認識として、何をしでかすかわからない犯罪者予備軍にカテゴライズされる。

 

 エレベーターで自分の部屋がある階まで行き、鍵を開けて、扉を閉める。

 家の中には、誰もいない。

 一人暮らしには広すぎる70平米ほどの室内は静まりかえっている。

 

 両親は、キヨトが高校に入ると同時に、海外へ転勤となった。

 今は、キヨトが、一人で暮らしている。

 大企業のメーカーに勤務する父親と専業主婦の母を持ち、首都圏の分譲マンションに住み、一人っ子。


 キヨトは、縮小していく日本で、かなり恵まれている部類の人間ではある。

 キヨトは、馬鹿ではない。

 むしろ、中学生になって、不登校になるまでは、勉強はできる方だった。


 だから、自分がかなり恵まれている身分だということはよくわかっている。

 それにもかかわらず、どうしてこう暗澹たる将来しか描けないのだろうか。

 まだ俺は16歳なんだ。いくらでもやり直しができるし、努力をすれば、どうにでもなるさ。


 キヨトは、そう気分が沈む度にそう言い聞かせてきた。

 6畳ほどの自室に目をやると、そこには、参考書の類が何冊も地面に無造作に積まれている。

 その本は、キヨトのこの数カ月間の焦りと迷走ぶりを象徴しているようだった。


 本のタイトルに共通点はない。

 東大、早慶の赤本、プログラミングの入門書、ブログやアフィリエイトの関連書。

 そういった本が目立つ。


 どの本も、ネットで見つけて、購入ボタンをクリックした時は、気分が高揚したものだった。

 これで、知識を入れて、勉強をして、今の状況を逆転させるのだと・・

 

 だが、当たり前のことだが、逆転させるほどの何かを得るためには、それ相応の時間がかかる。

 一ヶ月くらいはまあ継続できる。


 だが、このまま続けていても、何にもならないのでは、無駄なことをしているのではないか、と焦り、今やっているものを投げ出して、別のものに手を出す。

 そんなことをもう数回繰り返している。


 結果が出るには、どんな事柄でも、ある程度の時間がかかるのはわかっている。

 だが、その結果がすぐにでも欲しかった。

 それだけ、全身を覆う不安感、圧迫感は日に日に増していた。


 何でもいいから誰もが認める「証」を手に入れて、この言いようのない不安感を早く払拭したいという思いだけが募るだけだ。

 

 キヨトは、ローテーブルに置いてあるパソコンを開き、ブログの更新をしようかとしばらく頭を捻っていたが、すぐに不快感に耐えきれずに、たまらず隣のベッドに寝転がる。


 この感情の正体はいったい何なんだ。


 たかが、学校に行っていないだけで、こうまで自分の感情が乱されるとは考えもしなかった。

 自分では、旧来の常識に縛られていないと思い込んでいたが、現実は、こんなにもがんじがらめにその常識にとらわれている。


 実際、学校に通っている時は、毎日行きたくないという強烈な嫌悪感はあったが、今感じているような不安感はなかった。

 その当時は考えもしなかったが、一応なりとも、常識の、社会の枠組みの中にいるという安心感があったのだろう。


 結局のところ、何らかの社会のお墨付きがない今の状態が不安でたまらない・・それが、この不安感の正体なのだろう。

 だが、今更学校に戻るなんて、絶対に嫌だった。


 かといって、今の状態で、学校を辞めたら、中卒の引きこもり、ニート・・・社会の負け犬になるだけだ。


 クソ・・・どうすりゃいいんだ・・


 その答えは目の前に転がっている。

 キヨトは、地面に山積みになっている本を再び見る。

 それらのどれかをやれば、時間はかかるが、何かになるはずだ。


 少なくとも、動画を見たり、ゲームをするよりはマシ。

 いや・・・気分転換として、アニメを見るのも、ゲームをするのもいいではないか。

 

 それに、その経験も無駄とは言えないのではないか。

 そう自身の行動を正当化して、キヨトは、結局スマホを手に、アプリを起動し、ゲームを始める。


 いつの間にか、日が暮れていた。

 結局、帰宅して、数時間ゲームをして、動画を見ただけだ。

 後ろめたさがキヨトの心を覆う。


 何をやっているんだ・・俺は・・このままでは・・・ダメだ・・なんとかしないと・・・


 こんなことを、この数週間続けている。

 苛立ちが刺激となったのだろうか、それとも嫌なことを忘れるためなのか、無性に腹が空いてきた。


 腹を満たして・・・それから、ブログラミングでも・・いやブログでも書くか・・

 キヨトは、重い腰を上げて、玄関の方へ向う。

 冷蔵庫には調味料以外は何もないから、外で何か食べ物を買ってくるしかない。


 この時間ならば、奴らに会うこともないだろう。

 時刻は、22時を回っていた。

 近くのスーパーに行って、値段が一番安い菓子パンを適当に何個か買う。


 この時間のスーパーは大分空いている。

 残業で疲れ切って、一刻も早く家路を急ぐ中年の勤め人がポツポツといるだけだ。 

 その虚ろな表情を見て、キヨトは自分の境遇と比べて、少しだけ満足感を覚える。


 だが、それも、すぐに不安に変わる。

 俺も何かを手にしなければ、近い将来ああなるのだ・・・と。

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