夢の袖――伍

「あれ、お客さん早いねぇ。すぐ朝ご飯を用意するから待ってて下さいよ」

 僕が出かける格好で部屋を出たので、店主が店の奥から慌てて走り出て来た。

「慌てさせてすみません」

 通された食堂の入り口には蚊取り線香がたかれ、虫取り用の粘着テープがいくつも天井から垂れ下がる。

 窓際の席に座ると、硝子の器に入った寒天の中で羽虫が溺れているのが目についた。それに手を伸ばしたところで中年の店主から声がかかる。


「すみませんねぇ。見えちゃうと気持ち悪いでしょう? でもねぇ、うちには高価な虫よけの香や食虫植物を買う金はないんですよ。トカゲは虫を食べてくれるって言うけど、飼うにも金でしょう? これが一番安くて」


 丸っこい狸の尾を揺すりながら、店主は指で銭の丸をつくる。

 花瓶の中の羽虫がポツンポツンと卵を産みつつ絶えた。

 僕は行李から乾燥させた薬草をいくつか取り出して店主に渡す。

「でしたらこの薬草を煎じた湯を撒いておくといいですよ。虫は臭いを嫌って近づかなくなりますから。殺すより安全です」

「それはいいですな!」

 狸店主はぶんぶんと尾を振る。

「僕は灯屋って店をやっていましてね。必要ならいつでも店に連絡してください。お安くしておきますよ」

「そうでしたか。それはどうも」


 狸店主が嬉しそうにどこかへ行き、僕はカサカサと上ってきた机の上のゴキブリを鷲掴みにして虫籠へ入れる。

 しばらくガサガサと音をさせていたが、すぐに灯屋の箱庭へ送られた。そのあと運ばれて来た朝食を食べ、噂好きの仲居さんや客たちに天災の話を聞いてから宿を出る。

 外では職を失って腐っている男たちの話を聞き、通れる鉱山道にだいたいの当たりを付けていく。


 尾人の男たちから話しを聞くのなんてそう難しくもない。

 もう二年近くも虫たちの話を聞いているのだから。

 恥辱に塗れた愚痴を聞き続ける。虫たちの声はさながら明けない夜のようだ。

 山肌にこびり付いた影、陽を遮る岩山、あるいは底知れない海のような。

 一万年以上もかけてさらに汚濁だけを浮き彫りにした過去を聞く夜、虫たちは鳴かない。

 聞こえるのは過去を吐く声だけ。


「分かったか、兄ちゃん。入るつもりなら絶対に鉱山内の泉から下には行くなよ」

「えぇ。助かりました。それじゃあ行って来ます」

 話し好きの雀男は、鉱山内に湧く泉のそばの階段から酷い臭いが上がってきていたのだと言った。他にもその奥からメキメキやズルズルという音を聞いた者がいる。

「角の天災って事は、元は戦士かな?」


 独り言をいいながら、人目があるので自分の足で北西の入り口まで歩いた。

 近づくごとに空中を泳ぐ海豚が増える。魔力の気配も喉に張り付くほど濃くなっている。

「魔力を引き寄せているのか。これは放っておけないね」

 梅の木を真っ直ぐ貫く黒い角に触れ、虫の記憶を探ってみる。けれどまだ虫との距離が遠く、槍の映像しか見えない。


「魔槍士が何にそんなに怒ってるの? って、聞こえないよね」

 北西の入り口は大きく、山小屋が一つ余裕で入りそうだ。それを人より太い角が四方から伸びて閉ざそうとしている。

 そこを潜り、乗り越えて中に入ると咽かえるほどの魔力が充満している。その濃さは外の比ではない。思わず襟首に顔をうずめた。


 これらはこの虫がかつて戦った魔物たちの角なのだろう。そうは思うが、それにしては真っ直ぐに伸びる角が多い気がする。先ほどから牛魔のようなグニャリと曲がった角は数本しか見ていない。

 僕は目を凝らし、他より強い魔力を宿す碧い角を見つけた。その角に触れると、先ほどとは違って声が聞こえる。


『許さない……負けは許さない』


 どれだけ聞いてみても同じ言葉がこだまする。

「負けたのは誰だろうね?」

 それ以上は何も聞けないので別の道を探そうと立ち上がる。

 すると目の前には落石で塞がれた線路。左は真新しい縄が張られた、ある程度は歩きやすそうな道。右は今もボロボロと岩土が落ち、歩きにくい事が見て分かる道だ。

 僕は右の道へ進む。


「当たりだ」

 歯形の付いた丸太を見つけ、思わず呟く。

 虫は確かにここを通った。そしてここを通った時、すでに通常の大きさではなかった。おそらく僕を縦に飲み込める大きさだ。

 他の虫と違って魔力を寄せてしまうからだろう。今までの虫にそんなのはいなかった。少し厄介な虫だ。そして厄介な虫は、だいたい強い人間だ。

「夢の袖を掴んだぞ」

 僕は興奮を隠せずどんどんと奥に進む。


 僕の夢には強い人間が絶対に必要だ。それも一人では駄目だ。

 それから僕と一緒に動く人間がいなければならない。戻った人間はだいたい人付き合いに疲れているから一人で行動したがる。しかしこの角からは寂しさのような物を感じる。

 寂しいけれど、だからこそ人を拒んでしまう。

 本当は誰かと深く繋がりたいのに。

「大丈夫。僕の傍にいればいい。お前は僕の夢を叶える虫だ」


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