【骨】

 記念すべき連載初回に取り上げるサイコパスは、この男である。

 江頭啓えとうけい。齢37、性別、男。

 事件資料の人物写真からは、取り立てて特筆するような印象はなかった。どこにでもいそうな、目立たない男。そんな印象は、実際に対面した時も拭えなかった。

 取材時、付き添いの警備員はこんなことを話していた。”患者はそれぞれ部屋の中で自由に動ける奴もいれば、動かないように固定されてる奴もいる”。

 江頭啓は簡素な造りの病室の中で、自由に動き回ることが出来るようだった。拘束衣も着せられておらず、ややゆったりとした白い入院着に身を包んでいる。これは、この施設の中では比較的、問題行動を起こさない穏やかな人間ということを意味しているのだろうか。

 病室に併設された面会設備に座るように警備員が促すと、江頭啓は無表情で従った。分厚い二重のアクリル板を隔てているとはいえ、目の前に殺人者が存在していると考えると肝が冷えたが、この時点では未だに信じられなかった。

 この大人しそうな男が、後述する極めて異常な猟奇殺人を引き起こしたとは。



 江頭啓は、取り立てて特徴のない田舎町で育った。母親は江頭葉月えとうはづき。父親は不明である。江頭啓を身ごもった当時、江頭葉月はそんな小さな田舎町の寂れたキャバクラに勤めていたという。父親が不明な理由も、推測するに難しくはない。

 江頭啓は母親の江頭葉月と共に、粗末な造りの木造アパートで6歳まで母子家庭という形を成していた。近隣住民によれば、昼夜を問わず怒鳴り声、子供の泣き声、地団太を踏むような音、空き缶を投げつけるような金属音が薄い壁越しに聴こえていたという。

 見かねて通報した住民もいたが、痣などの身体的な虐待の痕跡が見当たらなかった為に、児童相談所は保護に乗り出さなかった。その後、通報した住民に対して江頭葉月が執拗な嫌がらせを繰り返したのを機に、近隣住民は江頭家に対して無視を決め込むこととなる。

 この頃より、江頭啓は江頭葉月から身体的虐待を受け始める。碌に食べ物を与えられず、まともな衣服を与えられず、機嫌次第で暴力を振るわれた。存在が鬱陶しいという理由で、狭いタイル張りの浴室に裸同然の姿で放り込まれ、軟禁状態のような日々を過ごしていたという。

「蛇口を捻って水を出すのはいいが、母親にタイルが濡れているのを見られたら何度も何度も平手打ちが飛んできた。水道代がもったいないってな。仕方がないから水を少しづつ出して、片手の掌で受けて飲むんだ。それでも絶対に零れるから、タイルに落ちた水は薄く伸ばして息を吹きかけてた。そうすればすぐに乾く」

 アクリル越しに当時の状況を語る江頭啓の顔は、恐ろしいほどに無表情だった。

「何か印象に残っていることは?」

 そう筆者が尋ねた時、僅かに江頭啓の口角が緩んだ。

「一度だけ、母親がなぜかえらく上機嫌でフライドチキンの箱を浴室に置いていったことがある。その頃は寒くて死にそうだったから、もしかしたらクリスマスだったのかもしれないな。母親がなんであんなに上機嫌だったのかは知らない。後にも先にもあんな母親を見たのは初めてだったよ」

 永らく硬直していたであろう江頭啓の表情筋が、次第にほぐれていくのが分かった。

「凍えそうな寒さの中で、タイルに這いつくばってムシャムシャ食べたよ。あれは人生で一番美味い食事だった。ぬるかったが、スパイスが効いていて。あの日は水を出しても怒られなかったから、蛇口とチキンを交互にしゃぶってた」

 江頭啓はそう語りながら、初めて笑顔を見せた。

「あんまり美味かったから、軟骨までバリバリ噛み砕いて食ったよ。その後も味が忘れられなくて、ずうっと骨をしゃぶってた。しばらくなんにも食ってなかったから、胃が驚いたんだろうな。次の日はずっと腹が痛かったよ。それでも味が忘れられなくて、骨を咥えてた」



 しばらくして江頭葉月は浴室で腐乱した状態で発見された。換気扇から漂ってくる悪臭に耐えかねた近隣住民が意を決して通報した後、踏み込んだ警察によってである。

 遺体発見時、江頭啓は傍らでじっと亡骸を見つめていたという。ボロボロで棒切れのようになった鳥の骨を咥えて。

「ある日、母親がいつもみたいに殴りに来たんだ。俺はずっと骨を咥えてた。それが気に入らなかったらしくて、首根っこを引っ掴まれて揺さぶられた。お前なんかがなに生意気に咥えてるんだってな。私の真似をするな、私の真似をするなって、怒鳴り続けられたよ。そしたら、母親が急にすっ転んだんだ」

 江頭葉月の死因は司法解剖の結果、頭部の打撲による頭蓋骨骨折に伴った脳挫傷だった。

「浴槽に頭をぶつけて、血が出てた。しばらくアウアウ言ってたが、そのまま動かなくなった。下を見たら、タイルが濡れてて小便臭かった。俺がいつの間にか、漏らしてたんだ。ぶんぶん揺さぶられてた時に」

 この証言は恐らく真実なのだろう。江頭葉月の死因とも合致する。

「一度だけ風呂場から出たが、冷蔵庫には何にも入ってなかったよ。フライドチキンを期待したんだけどな。仕方ないから部屋に落っこちてた菓子パンの袋を舐めてた」

「外に出ようとは思わなかったんですか?」

「出ようとはしたんだが、骨を拾いに風呂場に戻った時、突っ伏してた母親の背中が骨ばっているのを見つけたんだ。触ってみたら、皮の下に硬いものがあった。その時、理解したよ。ああ、この中にも骨があるんだって」

 その状態のまま、一体どれだけの日数が経ったのかは定かではない。

「最初は取り出そうとしたんだ。でも、いくら爪を立てても取れなかった。でも、どうしても取り出して見てみたかったから、そのまま待つことにしたんだ。いつからか風呂場の隅っこで死んでた子ネズミみたいに、放っておいたら骨だけになると思った。しばらくしたら、硬かった母親がフニャフニャになってきた。臭かったかどうかは覚えてないが、多分臭かっただろうな。どこからか湧いて出た虫が母親を食べだして、もう一歩で骨が見えるってところでお迎えが来た」



 その後、保護された江頭啓は遠縁の親戚である瀬尾せお夫妻に引き取られることとなる。凄惨な経験をしたほとんど見ず知らずの少年を、瀬尾夫妻は温かい眼差しで迎え入れた。

 恐らく、この時期に初めて他者からの愛情を江頭啓は経験しているのだが、既に正常な人間としての精神の下地は崩壊してしまっていたのかもしれない。

「なんというか、どれだけ優しくしても、届いていない感じでした。自分が何をされているのか、分かってないというか」

 江頭啓の母親代わりとなった瀬尾和香子せおわかこは後年、こう語っている。

「おもちゃにも、テレビにも、ほとんど興味を示していませんでした。毎日、事務的に過ごしているようで、感情を表に出さないんです。小学校の宿題を忘れて先生に叱られても、動じてなかったみたいで。学校からそういう相談を受けたこともあります」

 実際に当時を知る複数の人物ら(本人たちの希望により匿名)はこう語る。

「あんまり活発な感じではありませんでした。いつも図書室にいて、静かに本を読んでるんです。かといって、別に馴染めていないわけでもなくて。一緒に遊んだこともあります。でも、全然笑わないんです」

「クラスに1人は必ずいたでしょう?本ばっかり読んでて、物静かな子。そんな感じでした。江頭くんがずっと読んでたのは、動物の図鑑だったけど」

「印象に残ってることって言ったら、給食の時ですかね。献立に手羽元の煮つけが出たんですけど、みんなが食べ終わって遊びに行こうとしてる時に、急にうわあって声が上がって。人だかりが出来てたんで近寄ったら、啓くんがみんなの食べ残しをガツガツ食べていたんです」

「食べ残しっていっても、骨の先の軟骨のささくれみたいなとこですよ。それをバキバキ噛み砕いて食べてるんです。みんなが、やめなよ、汚いよって言ったんですけど、すごい勢いで。なんにも聴こえてないみたいでした。その内、男子のひとりが、気持ち悪いって騒ぎ出して。それで私、啓くんを止めようとしたら、突き飛ばされちゃったんです。泣いてたら先生が来て羽交い絞めにされて、やっと啓くんは止まりました」 

 この出来事は親が出てくるほどの問題になったようで、瀬尾夫妻の記憶にも根強く残っているようだった。江頭啓の父親代わりとなっていた瀬尾丈治せおじょうじは、当時を振り返り、こう語っている。

「学校から呼び出されたのは後にも先にもその時だけです。家に連れ帰って、初めて啓を叱りました。あの頃は私も父親がどういうものか分かっておらず、滅多なことでは啓を叱りませんでした。しかし・・・」

「やはり啓には何も響いていない様子でした」



 少年期から江頭啓の骨に対する執着は、常軌を逸するものだったことが伺える。実際、瀬尾家の食卓に並んだ肉や魚の骨は、全て江頭啓を経由していたという。

 経由といっても、骨を食べていたわけではない。原型を留めて残った鳥の骨や魚の頭骨などは江頭啓の手によって全て綺麗に洗浄され、乾燥させた後に、底にタオルを敷き詰めた大きなクッキーの空き缶に丁重に保存されていった。

「最初はやめさせようとしたんですけど、どうしてもって聞かないんです。あの子がそれだけ感情を剥き出しにするのも骨に対してだけでしたから、複雑な気分でした」

「三角コーナーや生ごみ袋を漁られるよりは、いいかなと思って」

 このちょっと変わった趣味の延長線上に、猟奇殺人が待ち受けているとは、誰にも予期できなかったであろう。



 江頭啓は物静かな少年という体裁を保ちながら、中学、高校と順調に進学していく。思春期を迎え、自分の身体が変貌を遂げても、江頭啓の興味は変わらず骨だけに向いていた。同級生たちが色気付き、流行りの服に身を包んで異性に眼をときめかせている間も、江頭啓は黙々と骨を収集していた。六畳半の部屋には骨を詰め込んだ缶や衣装ケースが堆く積み重ねられ、天井にまで達する勢いだった。

 齢が二桁に達した頃から、江頭啓はしていたという。

 もちろん、この時期の対象は人間ではない。

「最初は道端で轢かれた野良猫を見つけたんだ。興奮したよ。ああ、こりゃあいいってね。すぐに見つからないように、近くの茂みに運んだよ。放っておけば虫が解体してくれる。母親の時みたいにな。毎晩毎晩楽しみで仕方なかった。じわじわ猫が朽ちていくのを想像しながら、布団の中で悶えてたよ」

「ところが、完成したのは小汚いパサパサの骨だった。長い間空気に晒されるとそうなるんだ。毛だらけで、すぐに崩れる」

「俺は泣いて悔しがった後、どうすれば綺麗に骨が取れるか考えた。それで晩飯を食ってる時に思いついたんだ」

 江頭啓はコツコツと貯めていた小遣いで、ガスコンロと鍋を購入した。そして、以前から目を付けていた、家から2㎞ほど離れた街外れの廃屋の中で、かくしておぞましい儀式は始まった。

「とにかく待ちきれなかった。道をうろついても都合よく猫の死体は転がっちゃいない。だから生きてる奴を狙うことにした」

「野良猫は勘付くんだ。あいつらは野生に生きてるせいだろうな。だから飼い猫を狙った。人懐こいから簡単だったよ」

 江頭啓の生活圏内の飼い猫が突如として失踪を繰り返した真相である。

「煙と臭いで勘付かれちゃまずい。だから風呂場でやった。煮汁を流せるしな」

 奇しくも、儀式の場所に江頭啓というサイコパスが誕生した場所を選んだのは、必然だったのであろうか?それともただの偶然だったのであろうか?

 儀式の方法とは、鍋の中に死体を入れてただひたすら煮るという簡単なものである。廃屋は水が止められていた為、ペットボトルに水を入れて家から持参した。臭いと煙が漏れないように、どんなに暑い時期でも窓は締め切っていたという。

「ひたすら煮込むんだ。浮かんでくる毛や肉片を取り除きながらな。ひどい臭いだったが、綺麗に骨が取れる嬉しさに比べればどうってことなかった」

 煮出した後、バラバラになった骨はひとつひとつ丁寧に取り出され、残った煮汁とカスは全て排水溝へと消えていった。

「初めてだったからな。慣れない内は大変だった」

 その後、骨は歯ブラシで磨かれた。乾燥させた後はひとつひとつ接着剤で組み上げ、お手製の骨格標本を完成させた。

「記念すべき一番最初の作品だよ。猫の中にこれが入ってた。それを自分が取りだして、1から組み上げた。そう思うと勃起が治まらなかった」

 この時、江頭啓は初めて射精したのだという。



 江頭啓は、その後も次々と儀式を行っていった。獲物は生死を問わず、無作為に選んでいったという。

「しばらくは猫で練習したが、飼い猫もそうそういなかったからな。小型犬も狙った。吠えられちゃ敵わないから、毒餌で殺した。鳩もネズミも、毒餌でみんなコロッと死ぬから、簡単だった。あの頃は鍋に入るサイズの奴しか狙えなかったなあ。ああ、川辺で拾った亀を煮たこともあったよ。あれは臭かった。犬や猫よりも臭いんだ」

 この毒餌というのは、殺鼠剤を食パンに挟んだものだった。殺鼠剤、いわゆる硫酸タリウムである。毒性は非常に強く、人間ですら1グラムで死に至る。

「毒で殺した方が身体を傷つけなくて済むしな。一度、猫を蹴り殺したら、肋骨が折れててがっかりしたんだ」

 儀式は次第にエスカレートしていき、街中から小動物の姿が消え失せていった。当然、不審者がうろついていると噂になり、警察はパトロール体制を強化するなどして対策した。しかし、警察はペットが連れ去られるという点から、盗難の方面で捜査をしていたという。まさかその全ての小動物たちが、立派な骨格標本となって街外れの廃屋にずらりと並べられていたとは、夢にも思わなかっただろう。

 だが、街をうろつく警官に警戒し、江頭啓も少しづつ儀式の頻度を減らしていった。

「ガスコンロで出来る一通りの動物はやり尽したから、しばらくは控えることにしたんだ。それでも月に一回は何かしらの作品を造ってた。大きめの魚を買ってきて煮たこともあったっけ。蛇を捕まえて煮たこともあったが、細切れみたいにバラバラになって上手くいかなかったよ」

 取材は佳境を迎えていたが、江頭啓は笑顔を見せながら嬉しそうに語っていた。



 江頭啓は何事もなく高校を卒業後、地元のプロパンガス店に就職した。瀬尾夫妻は内向的で口数の少ない義理の息子を心配しつつも、無事に就職したことに安堵していた。

「初任給で夫婦箸を買ってくれたんですよ。どこにでも売っているようなものでしたけど、涙が出るほど嬉しくて。その日は主人も高いお酒を開けて喜んでました。立派な大人になってくれたなって」

 江頭啓も自分を育ててくれた瀬尾夫妻には恩を感じているらしく、取材中にも何度か感謝の念を述べていた。

「おじさんたちには感謝してるよ。面倒見てくれたし、骨集めに口出ししなかったし。なにより、あの人らはおおっぴらにセックスしなかったしな。静かにコソコソやってくれたから、ヤな気持ちにはならなかった」

 根本的にズレてはいるが、感謝の念を抱いているのは事実であろう。

 だが、江頭啓がプロパンガス店に就職したのには、手に職をつけるという目的ではなかった。

「ガス屋になれば、いろんなものを作品に出来ると思ったんだ」

 工務部に配属され、見習いの職人として働きだした江頭啓は、すぐさま道具を揃えだした。勤務先から5~8㎏のプロパンガスボンベとガス管を盗み出し、廃棄されていた大型鍋用の鋳物コンロを修繕して持ち帰った。

 次に調達したのは大きな業務用の寸胴鍋だった。これは通販サイトで購入したという。瀬尾夫妻には購入したことを悟られない為に、わざわざ配送所に出向いて荷を受け取り、そのまま儀式会場である廃屋に運び込んだ。

「予想通りに道具を揃えられたよ。とにかくガス缶に金がかかったからな。鍋も大きくしないと、次の作品に乗り出せなかったし」

 江頭啓が次に獲物として狙っていたのは鹿だった。夜な夜なプロパンガス店の社用車である軽トラックを駆り、県外の農面道路を彷徨いながら、眼を光らせていた。

「休みの日には必ず通ってた。そこでよく鹿と衝突事故をするって聞いてたからな。夜なら人目に付かないし、運よく死体を拾えると思ったんだ」

 ところが、何日彷徨おうと、鹿の轢死体は見つからなかった。苦労して装備を揃えたというのに、一向に捕らえられない獲物に江頭啓は苛立ちを募らせていった。

 そんな時である。いつものように夜な夜な農面道路を彷徨っていたある日、道路沿いに張り巡らされていた農業用ネットに、角を絡ませて身動きが取れなくなっている鹿を発見した。

「畑に侵入できないように張ってあったんだろうな。がんじがらめになってて、吊るされてるみたいに倒れてた」

 見つけた瞬間に、興奮を抑えられなかったという。誰一人としていない山の中、苦しみ悶える鹿を見ながら自慰に耽った後、車に積んでいた大型レンチで撲殺した。

「死体を持って帰ろうとしてたからなあ。いつもの毒餌も持ってないし、まあ持ってても食わなかっただろうな。仕方がないから殴り殺すことにしたんだ。骨を綺麗に取りたかったから、気が進まなかったが。でも、そんなこと言ってられなかったね」

「あんた、動物を殴り殺したことあるか?やってみるといい。そりゃあ大変だったよ。どれだけ殴っても、あいつらはタフでな。さすが野生に生きてる奴らだよ。弱りはするが、中々死なねえんだ。でも、血だらけになってやっと殺した時の達成感といったら・・・」

 返り血を浴び、息の上がった状態で、江頭啓は再度自慰に耽った。この時、江頭啓は初めて、他者の命を奪うという残虐行為の味を覚えたのかもしれない。それは今までの犬や猫の比ではなかっただろう。

 一息つくと、あらかじめ用意しておいたブルーシートで鹿の死体を包み、苦労して軽トラックの荷台へと抱え上げ、意気揚々と儀式会場へ凱旋した。

 夜明け前に人目を忍んで引きずりながら運び込むと、あらかじめ買い揃えて置いた弓鋸や鉈、出刃包丁、ロープ等を駆使し、鹿を窓辺にもたれさせ、解体を行った。

 本来、鹿の解体というのは足から吊るして行うものだが、江頭啓にその心得はなく、全く無知の状態で行われることとなった。

「骨だけ無事に取り出せればいいだろう。そう考えてたが、解体を舐めてたね。あんなに苦労したのは初めてだったよ」

「最初に皮を削いで剥ぎ取っていくんだ。そこまでは良かったが、腹を破った途端に血と内臓の洪水さ。臭いし、また血だらけになるしで、たまったもんじゃなかったね。足の踏み場も無くなっちまったから、内臓は全部浴槽に放り込んだ。せっかく持ってきた水も、血を洗い流すのに使っちまったよ」

 このおぞましい儀式は二日に渡って行われた。一日中解体に徹した為、夜になってから行動を開始したという。内臓は二重にしたビニール袋に入れて運ばれ、近くの河川へと投げ捨てられた。その後、一度自宅へと帰ると、服を着替えてとんぼ返りをした。血だらけの衣服は廃屋にて燃やされ、灰は裏手の空き地にばら撒かれた。

 諸々の処理を終えた後は廃屋にてひと眠りし、明朝から本格的に煮込みの作業を開始した。寸胴鍋に大量の水を入れ、鹿を4本の脚と2つの胴体、1つの頭部に分けてグラグラと煮出した。

「大変だったよ。犬や猫とは違って肉がしつこいんだ。筋張ってて全然溶けないんだよ。だからたまに取り出して包丁で削ぐんだ。ひたすらそうやってたら、やっと骨が取れる」

「腹が減ってたから、ちょっとだけ食ったよ。あの時のフライドチキンと同じ味がしたような気がする」

 順調に作業は進み、とうとう廃屋の中に一大作品は完成した。さすがに接着剤では固定できなかった為、大ぶりな骨は天井にフックを固定して、ワイヤーで吊るされた。廃屋の中に、さながら博物館のような骨格標本が組み上げられたのである。

「苦労した分、感激もひとしおだったね。あの肉の中にこれが入っていたんだと思うと…。図鑑で見ていたけど、信じられなかったんだ。やっぱり自分で確かめなきゃ、意味がない」



 そして、いよいよ惨劇の幕は開かれる。

 きっかけは、勤めていたプロパンガス店の慰労会が行われたことだった。会社では、無口で口下手な新人として扱われていた江頭啓は、酒の席で恰好の標的となった。上司や同僚から、自身の女性経験についてしつこく追及され、何度も囃し立てられたのである。

 当の江頭啓はその経験はなかった。当時の事件資料からも、女性という概念、ないしは異性との性行為に対して、激しい嫌悪感を抱いていたことが伺える。

「セックスがどういうものかは、ガキの頃から理解してたよ。母親は機嫌が悪いと、よく喚き散らしてた。それのせいで俺が出来て、俺のせいでそれで稼ぐ羽目になったってな」

「俺にとって、それは母親そのものだった。だから、他の奴らがそれをしてたら、母親みたいで不快だった」

 だが、そんな過去を会社の同僚たちは知る由もなく、江頭啓をいたずらに夜の街へと誘い込んだ。慣れない酒を飲まされ、浮遊するような意識の中で江頭啓は、きらめく夜の通りから聴こえてくる嬌声に歯ぎしりしながら耐えていた。

 「お前も女ってものを一度は経験してみろ」

 この同僚の一言が、惨劇の引き金となった。

「ええ、お店に来たことは覚えてますよ。私はすぐ隣で別の客の相手をしてましたから」 

 当時、セクシーパブ”オーガスタ”に勤務していた者(本人の希望により匿名)の証言では、江頭啓は酩酊状態になっていたという。

「お酒に慣れていなかったんでしょうね。酔っぱらって、意識があるけど動けなくてグッタリって感じでした」

「相手をしてた舞ちゃんは、いつも通りでしたよ。無反応でも、それなりに対応してました。舐めたり、押し付けたり」

 この舞ちゃんというのが、惨劇の犠牲者、魚部舞うおべまいである。酩酊した江頭啓にあてがわれた魚部舞は、客に対して適切な対応を施した。

 セクシーパブ。女性接客係が男性客に対して、身体を触らせる等のサービスをする店のことである。”オーガスタ”では、一線を越えるサービスの提供は行っていなかった為、魚部舞が江頭啓に施したのは乳房を押し付ける、キスをする、抱き着く程度のものだった。

「酔っぱらってたから動けなかったが、意識ははっきりしてたよ。あれは今までの人生の中で、最悪の経験だった」

「あの女、背格好が母親にそっくりだったんだ。痩せてて、髪がパサパサで、キツイ香水の匂いがして、背中の空いた服を着てて、口が酒臭くて」

「まるで母親が俺に跨ってるみたいで———」

 揺れる意識の中で、江頭啓は次なる儀式に捧げる獲物を決めた。

 


 翌日、江頭啓は身体に残った酒を吐瀉物と共に吐き出すと、行動を開始した。記憶を頼りに、昨夜訪れたセクシーパブ”オーガスタ”を発見すると、近くの路地に身を潜めてじっと獲物を待ち構えた。

 やがて、裏口から数人の女が疲れた表情で出てくるのを確認すると、その中の1人

 に狙いを定め、気付かれないように遠巻きに尾行した。

 魚部舞はいつものように一人暮らしのアパートへと帰宅途中だった。勤務先からはさほど距離が離れていなかった為、通勤は徒歩で行っていた。時刻は朝の6時過ぎ、街の人通りは少なく、連れだって帰っていた同僚と別れた地点は、アパートまで50mほどしかなかった。

 部屋のドアを目の前にして、不意に背後の足音に振り返ると、見覚えのある男が立っていた。昨夜、客の一人として相手をした若い男。無表情で立ち尽くす男の手には、見慣れない大きな工具が握られていた。

「悲鳴は上げられなかったよ。一発で頭を打ち抜いたから、即死だっただろう」

 魚部舞は手際よくブルーシートで包まれた後、軽トラックの荷台に乗せられて儀式会場へと運ばれた。幾多の生物の血に汚れた廃屋の浴室に、また新たな鮮血が滴った。

「鹿の時よりも簡単だったよ。ずっと簡単だった」



 廃屋でおぞましい惨劇、もとい儀式が行われている最中、街では警察が捜査を進めていた。魚部舞のアパートの住人から、部屋の前に血だまりが出来ているとの通報を受けてのことだった。その夥しい量の血を目にした警察は、すぐに事件性があると判断し、近隣への聞き込みを開始した。普段見かけないプロパンガス店の軽トラックを目撃したという情報は、すぐに警察の耳へと入り、江頭啓の勤めるプロパンガス店に連絡が行ったのは、まだ午前中のことだった。

 すぐに警察は総勢で街中を捜索した。街外れの廃屋の納屋に停められていた軽トラックを発見したのは午後の1時半ば。中に踏み込んだ警官二名は、僅かに漂っていた血の臭いと、ずらりと並ぶありとあらゆる生物の骨格標本に、動揺を隠せないでいた。一体ここで何が行われたのか理解が及ばなかったが、漂う異臭を辿った先には、そんな疑問など吹き飛ぶほどの最悪な光景が広がっていた。

「まだ途中だったんだけどなあ」

 江頭啓は既に魚部舞を。比較的小柄な身体だった魚部舞は、腹部のあたりで2つに分けられており、上半身の方は既に寸胴鍋の中で煮込まれている最中であった。既に原型は留めておらず、魚部舞の上半身は寸胴鍋の中でいくつもの肉片と血のスープとなって舞っていた。下半身は浴槽の中に転がっていた。

 江頭啓は全身に血を浴びており、手にはザルと出刃包丁を携えて無表情で立ち尽くしていた。取り押さえようとした警官に対して多少は抵抗したものの、あっさりと組み伏せられ、とうとう骨に魅せられた狂気の男は逮捕された。



「なぜそんなにも骨に対して執着していたのですか?」

「あんたは気にならなかったのかい?生き物を見て、この中には何が入っているんだろうって。俺は気になってしょうがなかった。あのフライドチキンみたいに、俺の手で中身を確認したかったんだ。どんな奴も、中には骨が入ってた。白くて、綺麗で、ものを言わなくて…」

「みんな骨になればいいと思った。骨になれば静かになる。本来、生きてる奴らはみんな最後に骨になる運命なんだ。だったら早く俺の手で本当の姿になった方がいいだろう?ただの灰にするなんて以ての外だ。俺も最後は骨格標本にしてもらいたいね」

 取材の最後に、江頭啓は満面の笑みを見せた。

 この骨に魅せられたサイコパスは、永きに渡る裁判と精神鑑定の末に心神喪失者として判断され、この施設で15年もの間、治療を続けている。

 治療を続けている、といったら語弊があるのかもしれない。この施設では、このような心神喪失者を分析、経過を観察し、精神医学や犯罪心理学の研究材料として扱っている。無論、冒頭に記した通り、この施設の患者はひとりひとりそれぞれの病室の外から何重にも鍵をかけられ、外部の人間とは一切の接触を許されずに、さながら死刑囚同然の暮らしをしている。

 この事実こそ、この施設が存在する意義なのかもしれない。常人の理解が及ばない人間—サイコパス—には、特別な檻が必要である。

 今後も筆者の精神が持つまでは、その隔離された理解の及ばない世界の声を届けていく所存である。どうか読者諸君には、その世界に魅せられないことを願う。

  





 

 

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