Ⅲ Agnus Dei
Agnus Dei 1
墜ちていく。
どす黒い海に向かって、僕は、墜ちている。どんな鱗でも突き通すはずの剣は、あの白銀の竜には傷をつけるだけだった。
また、アヤノの無念を晴らせなかった。
このまま死ぬのも、悪くないだろう。
ふかふかとした感触。
僕が目を覚ますと、一面の花が辺りに咲いていた。身体を持ち上げると、名も知らない花がゆらゆらと、風に揺れる。
「ハルカさん」
鈴の鳴るような、どこかいたいけで、けれど澄んだ声が響く。
「アヤノ」
僕は周りを見回すけれど、声の主は現れない。
現れてもくれないのだろうか。
彼女は僕に、遂に失望してしまったのだろうか。
目の前が真っ暗になって、どこからともなく月明かりが差し込んできた。
ここは、かつて
僕はいつものように、瓦礫を飛び越えてアヤノのもとへ向かう。
深々と刺さっているその得物の前で、アヤノは出会ったときと同じように、背筋をしっかりと伸ばした、凛とした姿をしていた。
「アヤノ」
僕は再び、彼女に声をかけた。
「ハルカさん」
その紫色の瞳が、柔らかに動いた。弱い微笑みは、未だに記憶と同じままだ。
僕は彼女に、なんと声をかけたらいいだろう。
また、「零式」を倒せなかったと、不甲斐ない報告をしなくてはならないのだろうか。
「また、逃がしてしまったんですね」
アヤノの小さな身体が歪む。あらゆるところに切り傷がみるみる現れ、あれよあれよという間に血塗れになっていく。
「いつになったら仇をとってくれるんですか」
声が歪み、重みを増してのしかかってくる。淡々とした言葉に怒りを感じ取るのは、はたして、僕の勝手と言えるのだろうか。
「私の身体は、そんなに弱いのですか」
アヤノの叱責は続く。感情は、とうの昔に喪ってしまっていた。
「違う」
「何が違うんですか!」
「僕は、強くなるために君の身体を使った訳じゃない」
言い訳よりも言いたくない言葉を、僕は吐き出そうとしていた。
「やっぱり」
のっぺりとした冷たい口調で、彼女は吐き捨てるように言った。
その顔は、よく見ることができない。
いや、そもそも僕は彼女の顔を本当に見たことがあるのか。
アヤノの顔は、のっぺらぼうになっていた。
「私の身体になりたかっただけ」
「結局、ハルカさんもそうなのでしょう?」
「だったら私の身体で生きるといいわ。だいすきな私の身体で」
「簡単に死ねない呪いをかけてあげる。満足でしょう?」
修復を施す度に、全身を機関銃で蜂の巣にされるような痛みが連続する。
僕は、彼女の身体に中途半端に拒絶されていた。
それでも僕は、彼女の身体を背負って生きると、あの時そう約束したはずだった。
身体を真っ白で清浄な光が覆った。
まばゆさに僕は目をつぶって顔を歪める。
「ハルカ」
誰かの呼ぶ声がする。それはまだらに、ぐちゃぐちゃにいろいろな音を含みながら聞こえてくる。修復の最中は意識が混濁するのだ。世界が洗濯機に流し込まれたかのようにぐるぐると圧し固められる。
そうだ。
僕は、サエグサ・ハルカだ。
コウサキ・アヤノではない。
この身体は、もうサエグサ・ハルカだ。コウサキ・アヤノではないはずだ。
僕は自分に言い聞かせるように、身体に教え込ませるように、誰かから習ったわけでもないのにそうした。
身体が徐々に均衡を取り戻していく。
僕の身体を、取り戻していく。
僕は彼女を抱いたことはついになかったけれど、今ならいつでも抱くことができる。
落ち着かせられる。
大丈夫、僕はサエグサ・ハルカだ。
そうだろう?
「ハルカ!」
揺り動かされて、僕は目を覚ました。
オノ・セリナ。
僕がVになってから、彼女はいつも僕の側から離れない。僕がアヤノになってしまうとでも思っているのだろうか。
「起きた……よかった」
セリナは真っ赤な目をしていた。
無論、瞳の色のことではない。
彼女の瞳は緑がかった青だ。
「大佐、呼んでくる」
セリナは駆けだしていった。
奴は死んでなどいない。
だから、次こそは、必ず。
それは、アヤノが、そして他ならぬ僕自身が、サエグサ・ハルカにかけた呪いだった。
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