第8話 初恋
「私が話をしたいと思ったのはアドリエンヌなんだが……君も来ていたのか、エリオット君」
マクロン伯爵家の応接間、紅茶の香りが漂う中で、テーブルを挟んでアドリエンヌとエリオットの向かいに座ったジェラルドは微笑んだ。
渡り廊下での一件の後、エリオットはアドリエンヌと共にマクロン伯爵家に向かい、ジェラルドに呼びつけられたアドリエンヌと共にこうして並んで座っているという次第だ。
相変わらず、ジェラルドの外面はいい。アドリエンヌに見せる表情とは比べ物にならないくらいの穏やかさだ。
もしかするとこちらこそがジェラルドの素の表情なのかもしれないが、彼に虐げられているアドリエンヌにとってはやっぱり違和感を覚える姿だった。
「お久しぶりです、ジェラルド様。いや……義兄上、と呼んだ方がふさわしいかな」
エリオットは意味ありげに微笑みながらジェラルドを見据えた。ジェラルドは僅かに訝し気な表情を見せたが、本題に入ることにしたようで、エリオットから視線を背け、アドリエンヌに向き直る。
「アドリエンヌ、今日、レニエ公爵家から正式な婚約破棄が通達された」
エリオットがいるせいか、ジェラルドはあくまでも穏やかな物腰でアドリエンヌに告げた。
……エリオットは、私がお兄様に殴られないように同席してくれたのね。
改めて幼馴染の心遣いに胸を打たれながらも、アドリエンヌは神妙な面持ちで頷いた。
「……大変申し訳ありませんでした、お兄様」
「婚約破棄を撤回する努力はしたのか?」
ジェラルドは微笑んではいたが、アドリエンヌとよく似た瑠璃色の目は笑ってはいなかった。アドリエンヌは軽く俯きながらも、正直に打ち明ける。
「……何度かお話をする機会がありましたが、ジェイド様の御意思は固いようでした」
「何度か、ね。泣きついてでも説得しようと思わなかったのか?」
「そのようなことをして、意思が揺らぐ方ではありませんから……」
それこそ、余計に心は離れていくばかりだろう。それが分からないほど、ジェイドと浅い付き合いをしていたわけではないのだ。
「こんな状況になっても尚、自分のプライドを優先するとは可愛くない女だ。なあ、エリオット君」
ジェラルドはソファーの上で足を組みながら、エリオットを見据えた。エリオットは先ほどから浮かべている穏やかな微笑みを崩すことなく、口を開く。
「それに関しては賛成いたしかねますね。アディは、間違いなく世界で一番可愛い」
突然告げられたその告白に、気まずさを払拭するべく紅茶を口に運んでいたアドリエンヌは、危うくティーカップを落とすところだった。
何とか無事にティーカップをテーブルの上に置き、目を丸くしてエリオットを見つめれば、彼はその視線に応えるようにアドリエンヌに甘く微笑みかけた。
「そんなに驚いてどうしたの、アディ」
「いえ……あなたがそんなことを仰るなんて思わなくて……」
「僕は思ったままのことを言っただけだよ」
そう微笑みながら、アドリエンヌの頬にかかった淡い金髪を耳にかける仕草には、やっぱり甘さが漂っていた。一気にアドリエンヌの頬が赤く染まる。
「ほお……なるほどな、ジェイド殿の心を繋ぎ留められなかった代わりに、ちゃんと大物を釣り上げてきたってわけか」
ジェラルドはどこか満足げに微笑むと、エリオットとアドリエンヌを見比べた。
「随分品のない言い方をなさいますね。僕が勝手にアディに惹かれただけだと言うのに」
エリオットは微笑みながらも睨むようにジェラルドを見つめた。これにはジェラルドも苦笑を零す。
「気を悪くしたなら済まない。確かに、恋人を馬鹿にされたら誰だって気分を害するだろうな」
「こ、恋人って……」
アドリエンヌはどんどん深まる誤解を前に、戸惑っていた。不快なわけではないのだが、エリオットと正式に恋人になると言う約束を交わしたわけでもない。今は戸惑いの方が勝っていた。
「アディは正式に婚約破棄されたんですよね? それじゃあ僕がいただいてもいいですか、ジェラルド様」
エリオットは狼狽えるアドリエンヌの肩を引き寄せて、にこりと笑った。ジェラルドは二人を見つめると、ふっと満足げに頬を緩める。
「……ロル侯爵家の跡継ぎである君ならば、確かにアドリエンヌに相応しいな」
まるでアドリエンヌが大切だと言わんばかりの言い草だが、当然そこに妹への愛情があるわけではない。良い兄を演じるジェラルドに対して改めて不快感を抱きながらも、アドリエンヌはおとなしく流れに身を任せていた。
エリオットのこの話がこの場を凌ぐための嘘だったとしても、少なくとも今は殴られることは回避できそうだ。身の振り方を考える時間をくれたエリオットに、アドリエンヌは感謝していた。
「そう言って頂けて嬉しく思います、ジェラルド様」
エリオットは端整な笑みを深めると、アドリエンヌの肩を抱いたまま立ち上がった。
「正式なお話は、またいずれ。今日の所はこれで失礼させていただきますね」
エリオットは半ば強引に話を終わらせると、そのままアドリエンヌをエスコートするようにして、応接間を後にした。
ジェラルドに正式な礼をする間もなく廊下に連れ出されてしまったアドリエンヌは、そっとエリオットの表情を窺う。してやったと言わんばかりに微笑むエリオットは、まるで幼い頃の彼を見ているようで、自然と心が安らいだ。
「……ありがとうございます、エリオット。あなたのお陰で、殴られずに済みましたわ」
「あのくらい、いいんだよ」
エリオットはアドリエンヌの頭を撫でながら微笑んだ。不思議だ、幼い頃はむしろアドリエンヌの方がエリオットを撫でていたものなのに。
「私を守るために、あんな嘘までついていただいて」
「嘘?」
きょとんとするエリオットを前に、アドリエンヌは小首をかしげる。
「嘘、なのでしょう? 私と婚約する、というあの話です」
「まさか。嘘じゃないよ」
「え?」
エリオットは不敵に微笑んだかと思うと、不意にアドリエンヌの手を取って、手の甲にそっと口付けた。その優雅な所作に、一気にアドリエンヌの頬が熱を帯びる。
「できればこの話、本当のことにしてほしいなって思っているよ。もちろん、アディが嫌なら無理強いはしないけど……」
あからさまにしょんぼりとするエリオットを前に、アドリエンヌは咄嗟に首を横に振っていた。
「嫌だなんて、そんなこと……」
もともとエリオットとは親しい仲なのだ。見ず知らずの相手に売り飛ばされるのと比べれば、迷う余地なくエリオットとの婚約の方が魅力的である。
「でも……婚約は家同士のお話でもあるのです。ロル侯爵家の方々が、私を歓迎しないでしょう」
「今、侯爵家の全権を握っているのは殆ど僕だと言ってもいい。余計なことを言ってくる奴は君に近づけさせないよ」
エリオットの言葉は、アドリエンヌとの婚約に対する熱意を明らかにするには充分だった。アドリエンヌは頬を赤く染めたまま、視線を彷徨わせてしまう。
「でも、何分急な話だからね。アディの気持ちが決まるまで、いくらでも待つよ」
「エリオット……」
「でも、僕ならきっと君を、お兄さんから、君を蔑む冷たい視線から、あらゆる黒い感情から守ってみせるよ。……前向きに考えてくれると嬉しいな」
エリオットはようやくアドリエンヌの手を離すと、「お茶でももう一度淹れてもらおうか」と微笑み、彼女に背を向けた。その耳の端は僅かに赤くなっており、彼なりの照れ隠しなのだと知ったアドリエンヌは、胸が熱くなるような感情に襲われた。
「……エリオットは、その……私のことを好いてくださっているのですか? その……恋愛的な意味で」
どくどくと暴れだす心臓を何とか抑え込みながら、アドリエンヌはエリオットの背中に問う。彼は振り向くことも無いままに、どこか恥ずかしそうに笑った。
「今までも散々言ってきたつもりだけど……うん、そうだよ」
戸惑うような肯定の言葉に、アドリエンヌの心臓はますます早くなる。久しく忘れていたときめきにも似た感情が、心の奥底で疼くのを感じた。
「……嬉しいです。一体、いつからなんですか?」
何気なく問いかけたアドリエンヌの言葉に、エリオットは半身振り返って、ふっと微笑む。
その微笑みは、思わず息を呑むほどに美しく、それと同時になぜか緊張を強いるものだった。アドリエンヌは僅かに息を呑む。
「ずっと……ずっとだよ。僕はずっと、君だけを見ていたんだから。アディ」
エリオットの指先が、そっとアドリエンヌの頬を撫でる。エリオットの微笑みにいい意味でも悪い意味でも魅せられていたアドリエンヌは、その感触にようやく小さく息を吐き出した。
「……こういう話はまだ慣れてなくて、何だか恥ずかしいな。早く行こう、アディ」
そう言って笑うエリオットはアドリエンヌの良く知る彼の姿で、アドリエンヌはようやくほっと息をついた。それくらい、先ほどの彼の笑みは怖いと思うほどに鮮烈だったのだ。
……エリオットがあんまり真っ直ぐに愛を囁くからだわ。
再び心の奥底が疼くのを感じながら、アドリエンヌは差し出されたエリオットの手に自らの手を重ねるのだった。
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