第7話 クロエの鏡

 アドリエンヌが「彼女」と鉢合わせたのは、本当に偶然の出来事だった。


 学園の授業も終わり、生徒たちは自身の家から遣わされた迎えの者の所へ談笑を交えて向かう、いつも通りの放課後。


 アドリエンヌは、昼休みに裏庭で過ごした際に忘れた本を取りに行っていたのだが、その帰りの廊下でばったり「彼女」に会ってしまったのだ。


「……クロエ」


 人気のない廊下でアドリエンヌと向かい合うように立ち尽くすのは、今日も今日とて妖精のような愛らしさのクロエだった。渡り廊下に吹き込んだ風が、クロエのふわふわとした真っ白な髪を揺らしている。


「……アドリエンヌ」


 クロエとしても、ここでアドリエンヌと鉢合わせるのは予想外だったようで、淡い赤の瞳をこれ以上ないほどに揺らがせていた。


 二人が顔を合わせるのは、あの婚約破棄騒動以来だった。あれから既に三週間近くが経過しようとしている。


 久しぶりに見るクロエの顔は、以前と何ら変わりなく、体調も優れているように見えた。その事実にひとまず安心しながらも、アドリエンヌは早まった脈を何とか誤魔化し、何を言うべきか必死に頭を働かせる。


 当たり障りのない言葉をかけるべきだろうか。それとも、クロエに対する嫌がらせの犯人は自分ではないともう一度訴えるべきだろうか。


 そんな考えの間にも、この一連の事件がクロエの自作自演かもしれない、というエリオットの言葉がちらついて、思わずこの場から立ち去りたくなるような衝動にかられた。


 対するクロエはというと、アドリエンヌににこりと微笑んで、一言だけありきたりな挨拶をした。


「御機嫌よう、アドリエンヌ」


 捉えようによっては勝ち誇ったようにも聞こえる声で告げると、クロエは踵を返そうとしたが、アドリエンヌは咄嗟にその後ろ姿を呼び止める。


「待ってください、クロエ!」


 呼び止められたクロエは半身振り返るような形でアドリエンヌを見つめた。その淡い赤の瞳に浮かぶ感情は、蔑みでも憎しみでもなく、愉悦に近いものだ。


 アドリエンヌはそのままクロエの元へ歩み寄って、制服の上着から布袋を取り出し、彼女に手渡す。


「……これは?」

 

 訝し気にアドリエンヌを見上げるクロエに、アドリエンヌは弱々しく微笑んだ。


「……余計なお世話かもしれませんが、これだけは受け取って頂きたくて……」


 クロエは訝しげな表情を崩すことなく、布袋の中身を確認すると、はっと息を呑んだ。


「っ……これ」


「……完全に元通りというわけではないのですが、勝手ながら修復させていただきました」


 布袋の中身は、このところアドリエンヌがずっと修復していたクロエの手鏡だった。


 エリオットからクロエが怪しいと聞いてからというもの、この手鏡を直すことを躊躇ったときもあった。彼女が自作自演でこの鏡を壊したのだとしたら、それこそ直す必要のないものだ。


 それでも、気づけばアドリエンヌの手は動いていたのだ。もやもやと浮かぶ黒い感情を誤魔化すための手段であったことは否めないが、この鏡に関しては一連の事件とは割り切って修復してみようと決めたのだ。


 クロエは布袋から鏡を取り出すと、指先でそっとなぞりながら自身の愛らしい顔を映し出した。


「……残念ながら、お姉様のお顔を映していた鏡とは別の鏡になってしまったのですけれど……木枠自体は同じものです」


「……ありがとう、アディ。とっても嬉しい」


 クロエは鏡から顔を上げると、ふっと頬を緩めてアドリエンヌを見つめた。その微笑みは、今までずっとアドリエンヌが見てきたものと同じ、朗らかで愛らしいクロエの微笑みで、アドリエンヌは思わず目頭が熱くなるのを感じた。


 それが、どのような感情から来るものなのか、実のところアドリエンヌにもよくわからなかった。


 久しぶりに親友の笑顔が見られたことが嬉しくもあるし、それと同時に、この世の醜い事情など何一つ知らぬ顔で微笑むことが出来る彼女が、妬ましくもあるような気がしていた。ある意味では正反対の感情がいくつも混ざりあって、泣きたいような衝動に駆られてしまう。


 アドリエンヌの瑠璃色の瞳が潤むのを見たクロエは、どこか決まりが悪そうに視線を彷徨わせる。


 やがて、たっぷり数十秒の沈黙ののちに、クロエはぽつりと呟いた。


「……やっぱり、あなたが私に嫌がらせをしたなんて今でも信じられないわ、アディ」


 思い悩むようなクロエの声音に、アドリエンヌは思わず目を見開いた。


 あの婚約破棄の日に、クロエだってアドリエンヌのことを責めていたのに。むしろ止めを刺したのはクロエの台詞と言っても過言ではなかった。


 そんな恨みにも似た感情が、今もアドリエンヌの中に無いと言えば嘘になる。クロエの鏡を修復する親切とは別にして、そんな黒い感情は、今もアドリエンヌの中で渦巻いていた。


 クロエは手鏡を上着に仕舞い込み、アドリエンヌに向かい合うと、そっと彼女の手を取った。


「……あの日は、私も少し言い過ぎたかしらって、これでも反省しているのよ。鏡を割られたことで、少し気が立っていたの」


 久しぶりに触れるクロエの指先は、柔らかく温かかった。アドリエンヌはただ真剣にクロエの言葉に耳を傾ける。


「正直、私に嫌がらせしたのは誰なのかまだ分からない。……ジェイド様や他の皆が言うように、あなたなんじゃないかって思う私も確かにいる」


 クロエから向けられるの疑念の言葉は、やっぱり鋭くアドリエンヌの心に突き刺さった。アドリエンヌは瑠璃色の瞳を揺らがせ、弱々しい笑みを浮かべることしか出来ない。


「でも……少なくとも、お姉様の鏡を割ったのはアドリエンヌじゃないのでしょうね。いくら黒い感情に支配されたとしても……あなたがそこまで残酷なことをできるとは、どうしても思えないから」


「クロエ……」


 身の潔白が証明されたわけではない。けれどもクロエがアドリエンヌのことを完全に見限ったわけではないのだというその事実だけでも、アドリエンヌにとっては少しだけ、救われるような気持ちだった。


「……クロエ、私、あなたに嫌がらせなんてしていないということを、きっと証明してみせます」


 アドリエンヌは瑠璃色の瞳で、クロエを見つめ、はっきりと告げた。それはこの3週間の内では珍しく、毅然とした意志のこもった声だった。本来の「瑠璃姫」らしい声というべきかもしれない。


「……そこまでしたところで、ジェイド様があなたと婚約を結び直すとは思えないわ。あの人は、あなたに対して物凄く怒っているの」


 クロエがジェイドを「あの人」と呼ぶその距離の近さに、初恋の名残が悲鳴を上げるように、アドリエンヌの心の傷を小さく抉る。アドリエンヌはその痛みを堪えながら、それでも尚クロエに微笑みかけた。


「……ジェイド様のことは、もういいのです。私は……クロエともう一度ちゃんとお話がしたい。ただ、その一心なのです」


「っ……」


 アドリエンヌの真摯な言葉に、クロエは息を呑むほどの衝撃を受けているようだった。悲嘆に暮れていると思っていた親友が、まだ自分との友情を取り戻したいと願っていることが、クロエにとっては意外だったのかもしれない。


「……ですから、もしも私が身の潔白を明らかにできたら、そのときはきっと私とお話をしてくれますか?」


 アドリエンヌにここまで真っ直ぐに請われて、許可しない方が難しいだろう。クロエはアドリエンヌの瑠璃色の瞳の美しさに息を呑みながら、小さく頷き約束をする。


「……分かったわ。そのときには、きっと――」


 だが、クロエの言葉は最後まで紡がれることはなかった。彼女の背後から、焦ったように彼女の名を叫ぶ青年が姿を現したからだ。


「――クロエ!?」


 すかさずクロエの隣を陣取り、儚げな彼女の体を抱き寄せるのは、今日も今日とて制服を隙なく着こなしたジェイドだった。


 ジェイドがクロエを抱き寄せた際に、彼女と手を握り合っていたアドリエンヌは彼に軽く肩を押されるようにして、よろめいてしまう。その拍子に、抱えていた本が音を立てて床に落ちた。


「っ……クロエに近付くなと言ったはずだ!」


 ジェイドはクロエの肩を抱きながら、憎悪で翳った青色の瞳でアドリエンヌを見下ろした。その鬼気迫った表情に、アドリエンヌは委縮してしまう。


 兄に虐げられていたせいか、アドリエンヌは大きな声が苦手だった。日常生活に支障が出るほどではないが、こういった場面ではどうしても体が動かなくなってしまう。


「……やめて、ジェイド。アディとはたまたまここで会っただけなのよ。アディは鏡を直してくれていたの。そんな風に言わないで?」


 先ほどまでとは打って変わって甘い声を出すクロエに、アドリエンヌは戸惑っていた。少なくとも、今まで長いこと幼馴染をやってきて、一度も聞いたことの無いような愛らしい声だったからだ。

 

 声色さえも変えるほどに、クロエはジェイドに惹かれているのだ。その事実をまざまざと突き付けられて、アドリエンヌの心の奥底でもやもやとした感情が燻る。


「鏡を……?」


 ジェイドが訝し気にクロエを見つめたのをきっかけに、クロエは慌てて上着から手鏡を取り出す。


「ほら見て、やっぱりアディはすごいわ。こんな状況でも、私のことを考えて直してくれたのよ。だから、そんな風に声を荒げるのは――」


「――こんなことをして、クロエに取り入ったつもりか? アドリエンヌ」


 吐き捨てるように笑うジェイドの声に、アドリエンヌはびくりと肩を震わせた。


「……っ取り入ろうだなんて、そんなこと……」


 アドリエンヌは怯えながらも二人を見据えて何とか弁明しようとしたが、詰めよって来たジェイドに顎を掴まれ上向かされてしまう。


「この期に及んでどこまでも往生際の悪い女だな。クロエに取り入って、今度は何をするつもりだ?」


「っ……」


「ジェイド! 乱暴は止めて! アディは暴力には人一倍敏感なのよ。可哀想だわ」

 

 クロエの声に、ジェイドは小さく溜息をついたかと思うと、アドリエンヌの顎に手を当てたまま、嘲笑に近い笑みを浮かべる。


「君が貶めた元友人に庇われる気分はどうだ? アドリエンヌ。さぞかし屈辱なんだろうな――」


「――何をしているんだ」


 ジェイドの言葉を遮ったのは、静かな怒りを携えた青年の声だった。ジェイドに引き続きこの渡り廊下に姿を現した人物は、他でもない、エリオットだ。


「……エリオット」


 クロエはエリオットの登場に目を見開いていたが、彼はクロエに目をくれることなく、ジェイドとアドリエンヌの元へ歩み寄る。


「何をしているんだ、ジェイド」


 普段穏やかなエリオットらしからぬ殺気立った声で、彼はジェイドを睨むように告げた。ジェイドはいつかサロンで見せたのと同じような嘲るような笑みを見せると、ようやくアドリエンヌから手を離す。


「これはこれはエリオット。相変わらず、この女に誑かされているみたいだな」


 エリオットは何も言わず、そのままジェイドとアドリエンヌの間に割り入るようにして、二人の距離を保った。


「クロエに心酔して、周りが見えなくなっている君には言われたくないな」


 エリオットは少しも怯むことなく、ジェイドを睨み続けていた。緊迫した空気が流れる。


「……もう二度と、アドリエンヌに触れないでくれ、ジェイド」


 エリオットのその声には、あまりにも深い憎悪が隠されていた。思わず、この場にいる誰もが息を呑んでしまうくらいには。


「……驚いたな。心酔と表現するならば、お前の方が相応しいじゃないか、エリオット。お前……そんな目も出来たんだな」


「大切な人を守るためだったらどんな顔だってできるさ」


「大切な人、か……」


 ジェイドは再びふっと嘲笑を浮かべると、エリオットとアドリエンヌを見比べるようにして見据えた。


「エリオット、お前にその女は勿体ないような気がするけどな……。だが、祝福代わりに教えてやろう」


 ジェイドはアドリエンヌだけに焦点を当てると、ふっと微笑んだ。


「今日にでも、正式な婚約破棄の通知が君の家に行くはずだ、アドリエンヌ。せいぜい君の兄上に可愛がってもらうんだな」


「っ……」


 アドリエンヌにとっては、その言葉だけで、兄に殴られた時の痛みを思い返すには充分だった。自然と指先が震えてしまう。


「アディ、大丈夫、大丈夫だから……」


 エリオットはアドリエンヌの怯えように気が付いたようで、そっと彼女の肩を抱き寄せた。そのままもう一度ジェイドを睨みつけて告げる。


「……二度とアドリエンヌに関わらないでくれ」


「それはこちらとしてもお願いしたいところだな。その女が余計な真似をしないよう、よくよく見張っておけよ、エリオット」


 それだけ言い残して、ジェイドはクロエの肩を抱いたまま、渡り廊下から立ち去った。クロエだけはちらちらとアドリエンヌの方を見つめ、気にしているようなそぶりを見せていたが、それに応える余裕はアドリエンヌに残されていなかった。

 

 婚約破棄が、正式に決まった。遅かれ早かれ訪れる事態だと覚悟はしていたが、いざその現実を突きつけられると足が竦んでしまう。


 きっと、改めて兄に叱られるだろう。今度は一度殴られるだけで済むだろうか。


「アディ……」


 アドリエンヌの震えを目にしたエリオットが、眉尻を下げて彼女を気遣う素振りを見せる。アドリエンヌは今となってはたった一人の友人を心配させまいと、無理やり笑顔を取り繕った。


「エリオット、助かりました。あなたがいなければもっとひどいことを言われていたかもしれません」


 アドリエンヌは視線を彷徨わせながら、やっぱりぎこちなく微笑んだ。それを見たエリオットは悲痛そうに表情を歪ませる。


「放課後だと言うのに、お手を煩わせてしまいましたね。また明日お会いしましょう、エリオット。私のことは、どうぞご心配なさらずに――」


「――僕も君の屋敷に行くよ、アディ」


「え?」


 突然の申し出にアドリエンヌが目を白黒させると、エリオットはどこか意味ありげに微笑んだ。


「僕に考えがあるんだ。一緒に帰ってもいい?」


 幼馴染の不敵な笑みを前にして、アドリエンヌは状況を掴めないままに、軽く小首をかしげながらも了承の意を示したのだった。

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