第一話 アリアドネ(6)

 ドアがノックされる音に、春花は眉を寄せた。

 音が違うと思ったからだ。

 少しだけ警戒する春花の前に、開かれたドアから顔を見せたのは、やはり知らない男だった。

「こんにちは」

 そう言って柔らかい笑みを浮かべる男は、二十代か、もしくは十代にも見えるほどの青年だった。

「あの……」

「ああ、初めましてだね。児童養護施設から派遣された――」

 青年がベッドの足下で一度足を止め、

「相馬和弘です」

 にこりと笑み、

「よろしくね、小畑春花さん」

 最初からずっと浮かべ続けているその微笑みに、春花はどこか薄ら寒さを感じた。


 相馬和弘と名乗る青年から感じた印象が強すぎて、同時に告げていた職業名に今さらながら春花は気づいた。

「養護……施設、ですか?」

「うん」

 相馬が頷く。

「話が長くなるかもしれないから、座ってもいいかな?」

 視線が壁際に置かれた椅子に向けられると、春花はむしろ立たせていたことに申し訳なく思い、

「すみません」

 と謝り、座ってもらうよう促した。

「ありがとう」

 相馬が椅子を引いてベッドの横で腰を下ろす。

 手には、脇に挟むようにして資料やバインダーが持たれていた。

 椅子に座り、脇に挟んでいた資料等を膝の上に置いた相馬は、そのまま何も話さず、ただじっと春花を見つめていた。

「あ、あの……」

 あまりに見つめてくるものだから、さすがの春花も声をかけずにはいられなかった。

「いや、ごめんね。少し、キミのことを知りたくて」

「え?」

 言っている意味が分からず、春花は少し引いてしまった。

「驚かせたならごめんね。ボクはこんな仕事をしているから、こうやって初対面で自己紹介すると、大抵の子を不安な気持ちにさせてしまうんだ」

 そう言って、相馬が顔を伏せる。

「あ……」

 そこで春花はようやく理解した。

 児童養護施設の職員として、未成年の子に会うということは、その子に対し、両親や親族がいないということを改めて突き付け、思い知らせることになる。

 だから、この人はこんなにも悲しい表情をしているのだ。

 そして、貼りつけたような笑みも、それに対する防衛策なのではないか――そう思わずにはいられなかった。

 それらを理解し、初対面で嫌な感じに受け取ってしまったことを、春花は恥じた。

「ごめん、なさい」

「ん? キミが謝るようなことは何もないと思うんだけど……」

 相馬が困ったような笑みを浮かべる。

 それもそうだ。

 こっちで勝手に疑って、勝手に後悔して、勝手に謝って――それでは相手が困惑するのも無理ない。

「それにしても、キミはたくましいね」

「え? たくましい、ですか?」

 たじろく春花に、その様子がおかしいと言う風に笑う相馬。

「大抵の子は、ボクが施設の職員だと告げると、すごく落ち込んだりする。けど、キミは違う。すごく冷静に受け止めているような気がするんだ」

「いえ、そうじゃないんです」

「ん?」

 相馬が首を傾げて見せる。

「お父さん――父が亡くなった実感が、ないんです」

「……話は聞いてるよ。記憶がないんだよね」

「はい……」

「カウンセリングを受けてるって聞いたけど……」

「少しずつ、思い出してはいるんです。相手の顔も、もう少しで……」

「無理に思い出す必要はないよ」

「え?」

 伏せていた顔を上げた春花の視線には、変わらない相馬の笑み。

「いまキミに必要なのは、癒すことだ。体もそうだけど、何よりも心を」

「でも、思い出さないと、犯人が……」

「それは、警察に任せることだよ。被害者であるキミが無理に思い出す必要なんてない。ボクはそう思うよ」

「でも、でも……」

 脚にかけられた布団をぎゅっと握りしめ、心の内から湧き出る感情を抑えようとする。

 その手に、相馬の手が重ねられた。

「もう一度、言うよ。キミは被害者だ。だから、キミが何かを背負ったりする必要なんてない。今のキミは守られる側だ。何かをしようとせず、ただ生きているだけでいいんだ」

「生きてる……だけで……」

「それこそが、亡くなったご両親が望んでいることだよ」

 相馬の手が離れる。

 わなわなと震えていた手から、力が抜けていた。

 布団にはシワがつき、それを手で撫でて均す。

 春花はすぅ――と息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「私に……生きてる価値なんて、ありますかね?」

 そう言って自嘲する春花に、相馬は少しだけ目を見開き、それでも頷いてくれた。

「あるよ」

 その言葉に、春花は少しだけ救われたような気がした。


            ※


「くそっ」

 警察署を出た日下部は、悪態をついた口にそのまま煙草を突っ込み、苛立ちで何度もライターの火を点け損ねていた。

 歩きながらそうしているうちに、愛車の前まで辿り着いてしまう。

「煙草は体に悪いですよ」

「あ?」

 唐突にかけられた声に、ライターを持つ親指を止めた日下部が振り返ると、

「初めまして」

 若い女性が立っていた。

 スーツ姿で、まるで就活生にも見えるが、その笑みが明らかに作ったもので、そして自分を前にして堂に入った態度――どころか、こちらを下に見ているような雰囲気に、日下部はすぐに相手が見た目どおりの存在でないことを感じ取った。

「あんた何者だ?」

「ふふ」

 日下部の問いに、女性が笑む。

 今度は、作り笑いなどではなく、心から出た笑みだった。

「面白い人ですね」

「あんたを笑わせるつもりはなかったんだがな」

「そうですね。でも、私としては、まずは名前を聞いてほしかったです」

 日下部の問い――『誰だ?』ではなく『何者だ?』は、名前と問うたとものではなく、どこに所属している者だという意味の問いだった。

 こういう仕事をしていると、相手の名前よりも所属が気になるのは当然のこと。

 それによっては態度も変わるし、不用意なことも言えなくなる。

 自然と身についた処世術だ。

 日下部はいつの間にか冷静になった頭で、まずはライターに火を点けた。

 その行為に、女性が意味深に微笑む。

 それでも日下部は、ライターの火を煙草の先に近づけた。

 やっと煙草を吸うことができ、日下部は紫煙を肺にいっぱい詰め込み、そこからゆっくりと吐き出した。

 最低限のエチケットとして、顔は背けた。

 それでも臭ったのか、それともわざとか、女性が鼻と口を手で覆って見せる。

「で、あんたは誰だ?」

「私よりも煙草が優先ですか……」

「あんたの話を聞くためには、リラックスが必要だからな」

「そうですか」

 このタイミングで接触してきた相手に、苛々した状態ではまともに話を聞くこともできない。

 だから、これは必要なことだ。

「まるで、捜査の打ち切りを言い渡されてみたいな顔をしていますね」

「チッ。やっぱりか」

 これみよがしに舌打ちをしてみせた日下部だったが、そんなことをして何が変わるわけでもない。

 それよりも大事なのは、その事実を知る存在がこのタイミングで接触してきたことだ。

「やっぱり、俺にはあんたが誰なのかよりも何者なのか知りたいね」

「それはまだ秘密です」

 意味深な――それこそゾッとするような笑みを浮かべ、女性が唇に立てた人差し指を当てる。

「とりあえず、自己紹介をしましょうか。私は和泉涼子と言います」

 そう言って、和泉が手を差し出す。

「小畑春花さんのお見舞いに行くんですよね。できれば、相乗りをお願いできますか?」

「いいドライヴができそうだ」

 日下部はコートのポケットから車のカギを取り出すと、ボタンを押してロックを解除した。

 すぐ後ろの愛車――スバルのXVがライトを点滅させる。

「安全運転でお願いしますね」

 和泉が助手席側に回り込む。

 そのあとの展開に、日下部は笑みを抑えるのに精いっぱいだった。

 ほぼ同時にドアを開け、車に乗り込む。

「うっ」

 同時に、和泉がえずき、鼻と口を手で覆い隠した。

 それを傍目に、日下部は気にする様子も見せず、シートベルトを締めた。

「ああ、言っておくが、この車は喫煙車だからな」

「本当に、禁煙をおススメしますよ」

「余計なお世話だ」

 シートベルトを締めるよう言い、日下部はカギを差し込み、エンジンをかけた。

 そして、警察署を出ると、春花がいる病院へと車を走らせた。

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