聖夜に思い出の歌を

シャルロット

聖夜に思い出の歌を

     ★1★


 12月24日夜10時45分。


 世間ではクリスマス・イブの真っ最中だ。みんな家の中でケーキを食べたり、楽しいおしゃべりをしたりしているのだろう。車を走らせていると道行く人はいつもより少なくて、どこの家の窓にもオレンジ色の暖かな光が灯っている。本当はもっと早く帰れる予定だったのだけれど、救急外来に来た患者さんが急に容体が悪化し、慌てて入院することになったので急きょ帰る直前に呼ばれたのだった。


 でもその患者さんも虫垂炎だったことが分かり、外科の先生が早々に手術をしてくれたので問題ないだろう。清水先生なら虫垂炎の手術くらいお手の物だ。結局病院を出たのは夜遅くになってしまった。早く帰りたい気持ちは山々だけど、まさか一般道で100キロ出す訳にもいかないので、制限速度ぴったりを上手に保ちながら、僕は車を走らせていた。






     ☆2☆


「やっぱりお父さん来なかったね」


「せっかくあーちゃんがケーキ作ったのにー」


 子どもたちはクリスマスの御馳走をすっかり食べ終わった後で、つまらなそうに言った。光希(こうき)は高校二年生になって随分背も伸びて、最近は子供服ではなくて紳士服を買うようになった。ついこの間まで子どもだと思っていたのに、あっという間に高校生。あと二年もしたら大学で、この家を出て行ってしまうのだ。それを考えると、最近何だかさみしく感じることが多くなった気がする。


 下の有紗(ありさ)は中学三年生で今年高校受験。でも成績は志望校に十分届いているからと担任の先生からお墨付きをもらっている。それにもかかわらず有紗はよく毎日勉強していた。何なら大学受験を控えている光希より勉強しているかもしれない。有紗の方が全般的にしっかりしていると思う。そんな彼女が唯一子供っぽいところと言えば、今でも家では一人称が『あーちゃん』であることくらいだ。


「しょうがないでしょ、パパはお医者さんで忙しいんだから。さあどっちか先にお風呂に入っちゃいなさいよ」


「あーちゃんから先入れよ」


「コウ君から入って。あたし勉強しなきゃならないんだもん」


「えー、めんどくさいよ」


毎晩のようにこの押し問答だ。お風呂くらいどっちでもいいから先に入ればいいと思うのに。


「ぐだぐだ言ってるとママも一緒に入るよー」


あたしが言ったら、光希がすかさず振り向いて煙たそうに返した。


「てかお母さんはいつまで自分のこと『ママ』って呼ぶんだよ。ぼくもあーちゃんも『お母さん』って呼んでるよ?」


うっ、と返事に詰まってしまう。それはこの間実家に帰ったとき自分の兄にも言われたことだった。お前いつまでママやってんだよ、って言われて初めて気が付いたのだ。


「とにかく入っておいで」


「ちぇ、分かったよ」


先に片付けておきたいことがあったとか何とか、ぶつぶつ言いながらも光希はお風呂に入る支度を始めた。有紗はすくっと立つとわたしに先だって、食器をキッチンに運び始めてくれた。こういうところもそつがない。


 わたしは残っていたおかずを小さなお皿に移してからラップをかけた。さっき病院を出たとメールが来たから、冷蔵庫に入れなくていいと思う。二人で片付けるとテーブルの上はあっという間にきれいになった。パパが帰ってくるまで、ゆっくりコーヒーでも飲もうかしら。そう考えてからふと、あ、パパって言ってる、と一人苦笑いしてしまった。






     ★3★


 車を車庫に入れて、ドアを細く開けて滑るように車から降りる。土地の広さの関係でどうしてもこれ以上幅が取れなかったから、毎回降りるときはこんな感じだ。医者なんだからお金あるし、もっと広いところに引っ越せば良いと同僚にもずいぶん言われたけれど、僕は慣れ親しんだこの場所を手放す気になれなかった。ママの方もあっさり了解してくれていた。医者と結婚したんだからもっと贅沢な生活を、みたいな不満も少しは言われると覚悟していたけれど、ママはママで色々なことをちゃんと分かってくれているみたいだ。本当に僕にはもったいない女の人だとつくづく感じる。結婚して二十年近くたった今でも、だ。そんなことを言うと、同僚たちにどんな冷やかしを喰らうか分からないので決して言わないが。


 鍵をなるべく静かにあけて家に入る。一階は僕の母が住んでいるのだが、電気はまだ点いてところを見るとまだ起きているらしい。時計を見ると11時半を回っている。僕はすぐ横にある階段を静かに上がった。旦那の親と同居するのは嫁としては思うところも色々あるだろうに。本当ママはいい奥さんだ。


「ただいま」


ドアを開けるとダイニングテーブルで突っ伏すようにしてママが寝ていた。そんなことしていたら風邪ひくぞ。心の中で突っ込みながら、リビングにあった布団を持ってきてそっとかけてやる。すると目をぱっと開けた。起こしてしまったらしい。


「う?……あ、おかえりなさい」


寝ぼけまなこの目をこすりながら体を起こす。と、僕がまだスーツ姿であるのに気づいて、


「あ!早く着替えてきてよ。外行きの格好で部屋に入らないでっていつも言ってるでしょ」


「はいはい、今すぐ」


そそくさと僕は三階の書斎へと向かった。子ども部屋の方を見ると、二部屋ともドアの隙間から光が漏れている。光希も有紗も夜遅くまで勉強しているようだ。子ども部屋にはテレビやパソコンもないし、ゲームはいつもリビングに置きっぱなしだから隠れて遊んでいるのではないだろう。ゲームなんかは別にリビングに置いとけと言っているわけではないのに、何となく二人ともリビングでやるもの、みたいに思っているらしい。偶には長くやることもあるけれど基本的に「ゲームはやめなさい」なんて怒られることもない。

 スーツを脱いでハンガーにかけていくと、ワイシャツの袖口のボタンが緩んでいるのに気が付いた。ママにつけてもらおう。部屋着に着替えなおしてから、僕はワイシャツをもって下に降りた。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     ☆4☆


 お医者さんとして働いてきてくれることは本当にすごいと思うけど、それと家の中のルールを守ることとは話が別よ。家に帰ったらまずは着替え、っていつも言っているのに。まったくパパったら、そういうところはだらしがない。心の中でひとしきり怒ってからわたしは立ち上がった。でも布団をかけてくれるあたりがパパらしいと思った。


 さてと、おかずを温めておかないとね。さっきラップをかけたお皿を電子レンジにかけて温めなおす。本当は出来たての温かいのをいつも食べさせてあげたいけど、患者さんの容体次第で予定がいくらでも崩れてしまう医者の仕事では、なかなか難しかった。


 頑張ってるのに電子レンジじゃ可哀そうだな、とちょっぴり申し訳ない気持ちになる。今まで一度もそんな文句を言われたことはないけれど。それどころか、偶に新しい料理に挑戦したりすると、必ず気づいて「美味しくできてるじゃん」と言ってくれるのだ。その話をしたら有紗の友達のお母さんに、「素敵な旦那さんじゃない」と言われたっけ。「私の夫なんか、おいしいんだか不味いんだかちっとも言いもしないのよ。一度タバスコを山のように入れてみたくなるわ」なんて言って笑っていた。少なくともわたしはタバスコを入れたくなったことは一度もない。


 料理に気づいてはくれるのだから、髪型とかを変えたことにも気付いてほしいとこだけど、大抵そちらは気づいてくれなかった。しびれをきらした有紗が「お父さん、お母さん見てなんか気づかないの?!」と言ってようやく気付くくらいだ。でもきっと、こんな悩みは結婚して二十年も経つ夫婦としては、ぜいたくな悩みなんだろうなと可笑しくなってしまう。わたしったら四十も過ぎているというのに新婚カップルみたい。そんなあれこれを考えていたら、電子レンジがチンと鳴る音で現実に引き戻された。






     ★5★


僕がリビングに降りていくと美味しそうな匂いがした。


「ただいま」


改めて言うと、ママは丁度ご飯をよそっているところだった。


「うん、おかえり」


そう言って一旦目線を戻してから、思い出したように振り返った。


「ちゃんと手洗ったね?」


「もちろん」


さすがに同じ失敗は二度繰り返さないさ。既におかずが並べられた椅子につくと最後にママがお茶碗とお箸をおいてくれた。


「あ、そうだ。シャツの袖口のボタンが取れそうで。直してくれる?」


「ボタン?はいはい、どれ?」


僕は持ってきたシャツを手渡した。


「あ、これね。今すぐ直すよ」


「お願い。さてと、いただきます」


今日のメインディッシュは具がいっぱい入ったポトフ。寒い夜にはありがたい。


「ケーキもあるからね」


裁縫道具を取り出しながらママが言った。


「有紗が作るって言ってたケーキだね」


「そうそう。わたしがおかずを作っている間に、あの子一人でほとんど作っちゃったのよ。いつの間にケーキの作り方なんて覚えたのかしら」


「さすが女の子だね」


それから僕は今日あったことを適当にかいつまんで話した。ママはそれを聞きながら、あっという間にボタンを縫い直していく。ものの数分でばっちり直っていた。


「はいできたよ」


「ありがとう。いや、ボタンを直すのとか苦手なんだよ、不器用だし」


「病気治すのは得意なのにね」


ママがにこっと笑った。


「まあね、仕事だし」


上手いこと言うじゃん、と僕も笑う。今度はママの番で光希と有紗の学校での話を色々教えてくれた。


「そういえば、有紗がこんな楽譜持ってきたのよ!」


急に思い出したのか、ちょっと興奮気味に言う。それから隣の椅子に置いてあった楽譜を僕に渡した。一旦箸をおいてそれを受け取る。


「卒業合唱で歌うんだって。もう二カ月くらい前から練習しているらしいんだけど、曲名聞いてびっくりしたわ」


僕は手元の楽譜をパラパラとめくる。この歌詞……見覚えがあるぞ。


「これって僕たちが定期演奏会でやった曲じゃないか?」


「そうなのよ!二十年近くも昔のNコンの曲を引っ張り出してくるなんて、音楽の先生もなかなかよね」


確かにこの曲は僕たちが大学の合唱部の定期演奏会で歌った、組曲の中の一曲だ。二人ともこの曲がすごく好きだったのを今でもよく覚えている。卒団生の追い出しコンサートでは過去の定演曲をやるのがセオリーだけど、この曲はほぼ毎年のように出てきていたくらい、他の団員にも人気があった曲だった。


「びっくりだな、僕たちの娘がまたこの曲をやることになるとはね」


「ほんと。でもちょっと嬉しかったな」


「それは確かに」


難度は高いけど、卒業式にこれがばっちり決まったら相当感動的なはずだ。出来れば有紗の卒業式には参加したくなってきた。仕事があるからかなり厳しそうではあるが、なるべくどうにかしてみよう。


「これ歌ったの、もう二十年以上も前のことなんだね」


しみじみとした感じでつぶやいていた。


「二十年?!どおりで年取るわけだ」


「光希なんかそろそろ同じ年になるんだもんな」


「本当だね。あーやだやだ、すぐお婆ちゃんになっちゃうなあ」


「大丈夫だよ、まだまだきれいだから」


「……すっごくお世辞に聞こえる」


「あ、ばれた?」


「ひっどーい!」


二人して大笑いしてしまった。確かに四十歳を過ぎてしわは多少増えた気がするけれど、ママの笑顔は僕が好きになったあの日と変わらない優しい表情だった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     ☆6☆


 こんな会話をしたのはいつぶりだったかな、と笑いながらふと思った。付き合い始めたころのような甘酸っぱい感覚が思い出された。あの頃は一緒に隣で歩いているだけでもドキドキしてて、何を話そうかな、とか考えながら、近づいたり離れたりして歩いていた。肩がくっつくだけで、わあ、と思ってしまって、今思うと大学生にもなって何してたんだろうって感じだ。さすがにそんな初々しいことは無くなったけれど、思い出すだけでいい年した大人の今もきゅんとしていたことを昨日のように感じられた。


「本当に長いね」


わたしの口から出た言葉は、そんなことを考えていたからだろうか、何だかしんみりとしていた。


「そうだな」


パパも心なしか、しみじみと呟いた。


「ねえ、パパ。わたしで良かったの?」


聞いてしまってからすぐ後悔した。何聞いてるんだろう。でもこんな風に二人で話すのも思えば久しぶりだし、一度聞いてみたいと思っていた。わたしってまだまだ子どもなのかな。驚いたようなパパの表情を見ながら、落ち着かない気分だった。


 でもパパはすぐに答えてくれた。


「もちろんだよ」


それから子どもっぽく笑うと


「そんなこと心配していたのか」


と言った。そしてこう続けた。


「それは僕の方こそママに聞きたかったことだよ。僕と結婚して、ママは幸せだった?」


わたしもすぐに答えた。


「もちろんよ」


「そうか。そう言ってもらえてほっとしたよ。もし僕と結婚していなければ、その方が幸せだったなんて言われたらどうしようかと思ったよ」


その言葉を聞いてわたしは、自分に自信がないところは今も変わらないんだと思う。この人は夫になって、父親になった今でも全然昔と変わってないのね。わたしは言葉を一つ一つ選ぶように、ゆっくりと、でも思っていることをちゃんと伝えようと思った。


「わたしね、パパじゃない人と結婚していれば、その時はその時でそれなりに幸せに生きていたと思うの。でもそれはきっとパパも同じでしょ。もしもの話なんて分からない。それでも絶対確かなのは今パパがいて、光希や有紗がいて、この生活がわたしには幸せだって自信をもって言えるってことなの。だから心配なんてしないでね」


「そんな風に改めて言われると照れるけどさ。僕もこうして家族がいる今が一番幸せだよ。でもそれがいまだに現実とは思えないような気もするんだ。ママと付き合い始めたあの日から、全部夢なんじゃないかと思うときもあるくらいだ。僕がずっとこうなればって願っていた日々がここにあるんだからね」


「大丈夫よ、これは全部パパが手に入れたものじゃない」


パパは椅子の上でかしこまると


「ママ、今までありがとう。これからもよろしく」


と言った。わたしも慌てて居住まいを正して


「いえいえ、わたしこそふつつかものですが、よろしくおねがします」


と答えた。


「なんだかお見合いしてるみたいだな」


「言い出したのはパパでしょ?」


「ごめんごめん」


ふと壁掛けの時計を見ると十二時を過ぎていた。


「もうこんな時間だね」


「とりあえず食器を片付けるから、空のお皿運んでくれる?」


「分かった」


そう言って二人で立ち上がろうとしたら、ドアの外でガタンと大きな音が聞こえた。






     ♢♦7♦♢


「だからコウ君静かにしてって言ったでしょ?!」


「ごめん階段を踏み外したんだよ」


音を立てた光希を有紗が小声で叱っていた。ドアの外、階段を数段上ったところで壁に隠れるようにして兄妹が声を潜めている。


「あーちゃんはこんなところで何してるのさ?」


「しっ、声が大きい!あーちゃんはココアを飲もうと思って降りてきたんだけど、お父さんとお母さんがいい感じだったからしばらくここで聞いてたの」


「それなら入ればいいじゃんか」


「ばかじゃないの?!折角久しぶりに二人きりなのに邪魔したら悪いじゃない」


「邪魔って、若いカップルじゃないんだから気にすることないだろ」


光希の言葉を聞いて、有紗が呆れ顔で振り向いた。本当にわかってないの?と顔に書いてある。


「分かんないの?お父さんが帰ってくるの一番心待ちにしていたのは、お母さんだったじゃない」


「そうだったの?」


「これだから男って駄目なのよ」


有紗にはこれ以上説明する気はないらしい。もう一度ドアの方を覗いた有紗に、光希は尋ねた。


「こんなところにいたら寒いだろ?何か飲みたいなら一階に行ってお祖母ちゃんに淹れてもらおうよ」


「まだ起きてるかな?」


「多分。あーちゃんだって風邪ひいちゃうだろ」


「そうしよっか。コウ君も来る?」


「僕も。でもひとりで行けるだろう?」


「……暗いの怖いもん」


「あーちゃん何歳だよ」


二人で声を潜めながら、兄妹はゆっくりと階段を下りて行った。






     ★8★

「今の音って?」


そう聞いたママに僕は若干の自信をもって答えた。


「多分光希と有紗じゃないか」


その答えを聞いてママもちょっと照れたように


「そうかも。有紗は気が回るのよ」


と言った。お皿が片付いたテーブルの上を台拭きで拭きながら、食器を洗い始めたママに僕は提案してみる。


「明日夜は仕事が空いているから、久しぶりに二人で食事に行かないか?学生のころは連れて行ってあげられなかったようなお店、今度は連れて行ってあげるよ」


「いいね。あ、でも折角なら四人で行こうよ」


「子どもたちもつれてか。ママが良ければそうしようか?」


「だって子どもたちと一緒に出掛けることも、どんどん減っちゃうでしょ。わたしは家族みんなで行きたいな」


「光希ももうすぐ家を出ちゃうしな。じゃあ明日はみんなでご飯を食べに行こう」


台拭きをすすいでからシンクに戻すと、それにね、と隣でママが言った。


「特別なところは誰と行っても楽しいけれど、小さなお出かけでも楽しいと思えるのは、家族だから、パパとだからよ」


その一言を聞いただけで、僕には十分だった。


「でもそれ、僕がこの間教えてあげた名言だよね?」


「あ、ばれた?」


ママが笑ってごまかそうとする。


「でも、本当にそう思ってるよ」


僕はなんと返したらいいかわからなくて、ただ一言


「ありがとう」


とだけ答えた。




 十二月二十五日、クリスマス。窓の外でこの街では何年かぶりの雪が降り始めていた。

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