第28話 動物園の主2


 最初、妖気に包まれているように見えた。


 立ち昇る陽炎のような、あるいは冥界から噴き出る蒸気のような、見たこともなく、感じたこともない煙のようなもの。


 邪悪なテスカトリポカが吐くという煙。それが一番近いように感じた。


 しかし、目を凝らしてよく見れば逆に見えなくなり、巨大な灰色熊の姿がはっきり見えた。


 歳て、いくつもの傷痕がある巨獣。今までに見たことのある灰色熊の三倍はありそうだった。体重に換算すると何倍あるのか、見当もつかない。


 一度でも人間を食べた獣は、精霊との盟約により、人間しか食べられなくなるのだという。

 そのせいか狂気は目に宿り、妖気まとい、口からは邪気を吐いている。


 いきなり大音声の咆哮ほうこうが炸裂した。耳をつんざく灰色熊の声音こわねだった。

 油断していれば、魂消たまげるほどの衝撃がエナの全身を駆け抜けた。

 

 灰色熊はおもむろに立ち上がり、両手を広げた。見上げるそれは小山のようで、空が暗くなった。


 さらに咆哮。灰色熊が動いた。威嚇ではなく、突進。

 次の瞬間、ふわり、と風がエナの頬を撫でた。


 何が起こったのか、全然分からなかった。


 一瞬前までエナが立っていた場所を、灰色熊の右爪が振り抜いて、地面の土砂ごと陥没させている。


 無意識に本能的に回避した。らしい。遅れて理解した。理解はしたが、灰色熊の動きが速すぎて、まったく分からなかった。自分が、どう動いて回避できたのかも分からない。


 全身から、冷や汗が吹き出した。


 突撃錠の効果で、心拍数は増加し、瞳孔も開いている。人間の限界を超えて、体は動き目も良く見えるようになっている。

 体の隅々まで気を巡らせ、充満させている。

 それでもまだ足りない。


 気いたり、気めぐるれば、どんな敵であろうと、それなりに戦えると思っていた。

 鍛え上げた仙術気身闘法とは、エナにとってそういうものだった。


 アステカの闇が凝縮したかのような動物園。その主人は、エナの全力をゆうに超えている。


 また、風が吹いた。


 牙。


 お互い、立っている場所が変わっていた。


 ニ撃をかわしただけで、体力のほとんどと仙術のために練り上げた気の半分を持っていかれた。


 あと何回、回避することが出来るのか。


「我、未だ術にいたらず。術を得ずってか」


 仙術を極めることを、術に至る。もしくは得ると云われている。


 極めるとは至ることで、負けるとは術を得ていないことだ。


 仙術気身闘法の伝承の中で、名前だけが残る奥義、死閃しせん無影むえい


「やっぱ、そこまで行かなあかんのかー」


 心を研ぎ澄ませた、ずっと先。

 生と死の狭間はざまにある境界線。死界。エナは、いつもそこで術を身につけてきた。


 挑戦すれば、帰って来られるかどうか分からない、入り口も出口もない場所。そは、ミクトラン。


 今ここで、もう一度そこに行って帰って来なければならない。

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