私、今しあわせだ

 一歩一歩、身体の大きさに反して静かに進んでいる怪獣の足元には、緑色の液体がべったりと残っている。それはナナが、バス停の床に垂らしたアイスに似ている。似ているっていうか同じものだ、きっと。

「確かに溶けてる。あの怪獣、アイスで出来てるってこと?」

 それじゃあ、あの怪獣は、チョコミントアイスの怪獣。夏に現れるチョコミントアイスの怪獣。それは昔、まだ私が小さかった頃に、お菓子やおもちゃが自由に手に入らなかった時に、私の大好きを掛け合わせて想像――創造――した存在。

「多分、私が原因なんだと思う」

「えっ?」

 私の手の中にあるチョコミントボックスを、そっと太陽に掲げる。

 やっぱりそうだ。地面に影が落ちない。

「私の大切なものから、影が消えてるの」

 チョコミントアイスの怪獣。

 チョコミントボックス。

 私自身。

 それに、ナナ。

 私になにかが起こったんだ、それが半透明の真実。突然、特殊能力に目覚めたのかもしれない。バスを待っている間に眠ってしまって、ただ夢を見ているだけかもしれない。大掛かりないたずら。偉大なマジシャンの路上イリュージョン。私の妄想。

 そのどれかであってくれたらよかった。でも私の頭の中で。溶けたアイスみたいに嫌な感じでべったりと纏わりつくのは、死。

 死の間際に自分の大切なものを、死に引っ張り込もうとしているのかもしれない。

 一人でいるのが寂しい私はいつだって、なにか大切なものに近くにいてほしかった。それは両親だったり、友達だったり、そういう大きな大切が近くにない時はチョコミント味のお菓子だったり。そしてお菓子もない時は、自分で描いたチョコミントアイスの怪獣だったりした。

 でも今まで、怪獣の存在なんてすっかり忘れていたのに、どうして急に思い出したりしたんだろう?

 忘却イコール消滅イコール死?

 ピコーン! 頭に響いた。

 チョコミントアイスの怪獣は、今の私にとって死の象徴なんだ。

 あの怪獣が完全に溶けた時、私の魂は完全に死ぬんだ。

「影を取り戻さないと」

 そういったのが合図だった。くらいのタイミングで怪獣が、うぎゅわあうるうるるって雄叫びをあげる。

「ナツ? 大丈夫?」

「えっ?」雄叫びから滲む悲しみに感化されて、知らず知らずの内に泣いていたみたいだ。怪獣は、自分の体が溶けていくことを悲しんでいる。

「うん。大丈夫。ごめん」

「謝らなくていいよ。それになんか、こっちこそ、ごめん。こんな状況だっていうのに、ナツがうちのこと大切に思ってくれてるんだって知れて、なんか嬉しくなっちゃった。ありがとね、ナツ」

 こんな事態に巻き込んでいるっていうのに、ナナが怒るでもなく喜んでくれるなんて、まさかそうやって考えてくれるなんて思ってもみなかった。うれし涙も合わさって、化粧も落ちるし顔はぐちゃぐちゃ。

 だけど、私、今しあわせだ。

 って、感慨に耽っている場合じゃない。だってだってだって、死んじゃったらこの幸せに意味なんてなくなってしまう。この幸せをちゃんと甘受するために、私は生きないとダメなんだ。ナナは生きないとダメなんだ。溶けていく怪獣を、バス停からいつまでも見つめているだけじゃダメなんだ。

「ナナ、ありがとう。大好きだよ」

 感謝の次は、行動行動!

 私はバス停を飛び出して、怪獣を追いかける。どこに向かっているのかなんて知らないし、知る必要もない。ただ怪獣に向かって走り続ければいいんだ。止まっていても死に向かうなら、魂を削ってでも走ったほうがいい。走れ走れ私。普段から運動なんてしないから、息はすぐに切れて心臓が体から飛び出そうとしているみたいに激しく動いて痛い。足だって準備不足なのにいきなりの活動を余儀なくされて筋肉が突っ張って、私が思っているようなスピードで動けないから何度も転んでしまって痛い。

 でもそれでいい。こういう痛みや辛さも、生きているって実感なのかもしれない。そりゃ、出来れば痛みも辛さもなく生きていける方がしあわせかもしれないし、そんな生活の中にも生きているって実感はあると思う。でも痛みとか辛さとかみたいな、泥臭いしあわせもあって、それに従って泥臭く生きていくっていうのも悪くない。と思う。まだ十七歳の私、なんにも知らない私。そんな今の私が死ってものをちゃんと考えるっていうのは、二十歳になった時や三十歳になった時に考えるのとはまた違っていて、だからこそいいんだと思う。いや、いいんだ。断言できる。絶対にいい。

 今の私だからこそ出来る、生への執着を見出すいい機会なんだ。

 私の生への執着は、大切なものを守るための執着。っていうのは建前で、本当は私の大切なものを失いたくないから守るっていう形での執着。

 でも、そんな生への執着でもいいと思う。

 だって私は十七歳なんだから。

 あれこれ難しく考えるのは、二十歳とか三十歳の私に任せちゃおう。

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