再会

真部博

再開

 めったに人が訪れない我が家にチャイムが鳴り響いた。それで目を覚ました。

 久しぶりのチャイムが鳴ったため、始めはテレビでも点けていただろうか、テレビ画面を除くがそこには酷く窶れた男の姿が反射しているだけだ。テレビでないとすれば。


 これは本当に誰かが訪問してきたのだと気づいた私は慌てて玄関へと向かった。部屋にはチャイムが鳴り響いている。しかしそれに出たときに、宗教や新聞の勧誘だったりしたとき断るのが面倒くさい。まず相手の姿を確認しに行った。


 廊下は捨て忘れたゴミ袋がだらしなく置かれているのを避け、玄関の魚眼レンズを覗いた。

 

 声をあげず、そのまま私は驚き後ろに転げてしまう。

 後ろに置いていた捨て忘れたゴミ袋が倒れ溢れた。しかし普段であれば気になることだが、今はそんなことはどうでも良かった。


 恐怖で表情はみるみる青に染まる。目の前に広がっていた光景はありえないものだ。いやあってはならないものだ。

 

 存在してはいけないものが、目の前に存在している......

  

 目の前で、魚卵レンズの向こうに立っている人間は一体誰なのだ。

 そして、一体、誰の仕業なのだ。


 腰が抜けてしまい立ち上がれない。目の前がぐらりと歪む。海の中で聞こえるような濁った音のチャイムは鳴り止まない。冷汗が頬を伝う。胃の中のものが込み上げてくる。

 気持ちが悪いってもんじゃない。これほど体調が悪かったことなんてないだろう。

 

 玄関の向こうに立っていたのは、紛れもなく彼女だった。


 手には忘れられない包み込むような温かみが感じられる。


 さらさらとした液体が、上から下へと流れていく感覚、独特な鉄の匂い、耳に残るうめき声。


 冷たくなった彼女。

 

 去年、自らの手で彼女の体に包丁を突き刺した彼女だった。



 生きていたのか。いや、確実に刺したはず。そして自分で夜の河川敷のグランドの中に埋めた。


 もうひとりの冷静な自分が否定した。

 気が狂いそうだった。もう、自分の記憶が、自分の目に見えているものが信じられない。

 どちらを信じてよいのかわからない。


 確かに覚えている刺した感覚が嘘というのか。

 動かなくなり、虚ろな目でこちらを見ている彼女が嘘だとでもいうのか。

 

 これまで意識せずともできていた呼吸がうまくできず、空気を吸えているのか、それとも吐き出せずにいるのかわからない。そもそもここに空気はあるのか。水槽のように水で満たされてはいないか。

 

 もう一度、魚眼レンズを覗くがどうやら彼女は以前変わらずそこに立っている。


 表情は変わらず平然としている。そしてここを立ち去る様子を見せない。こちらが今倒れたせいで中にいると思っているのか。


 俺が見たのは生きているものなのだろうか。幽霊なのか。

 

 そもそも生者と幽霊の違いとはなにか。

 目の前に殺したはずの人が現れてしまえば、目の前のものの存在を信じないわけにもいかない。だが、目で見ただけではそれが生者なのか、幽霊なのかの区別もつかない。足があるかなんて、そんなのは江戸時代の絵描きが描かなかったことが起源ではないか。


 は、と思いついたようにすぐに足があるかどうか確かめる。

 馬鹿馬鹿しい。あるに決まっているではないか。


 物体を持つから生きているのか、それとも存在しているから生きているのか。

 幽霊となっても生き続けていると言えるのか。

 物体があるからといって、魂が抜けた体を生きていると言えるのだろうか。

 鼓動が生を区別するのか、存在が死を証明するのか。

 

 わからない。

 そもそも考えていることが、頭の中を回っていることが全く理解できない。まるで酔いが回った頭のようだ。

 浮かんでは消える泡沫のように頭の中に浮かんでは消える。跡形もなく。

 

 魚眼レンズから見える女が、彼女ではないと決定づける証拠を探しているが、髪型も、少し眠そうに開いている目も、首に縦に3つ並んでいる黒子も、探せば探すほど彼女だと証明されていくようだった。死体が動いているとしても、肌の色が良すぎる。血の通っていない冷たい肌の色ではない。

 

 いいから、玄関から離れてくれ、何処かに行ってくれ、帰ってくれ。

 私には静かに息を殺して祈るしかなかった。


 震え歯の奥がガタガタと音がなる。

 あまりの恐怖に涙が頬を伝う。

 目が痙攣して視点が定まらない。涙で視界がぐちゃぐちゃになる。

 なんで私がこんな目に合わないといけないのか......

 


 まて、何故私は殺した人間に似た人間が現れたぐらいで何を動揺しているのだ。

 生きているわけないじゃないか。あんなに体がズタズタになるぐらい刺したのに。


 確実な殺意を込め、悲鳴を上げようとした彼女の喉元を刺し、ヒューと空気が出てくる音。


 体全体に吹き出てくる生暖かい血液。そして冷えて体に張り付く血液。


 必死に生きようと抵抗する彼女の怒りと恐怖と不安と後悔と......


 それを無駄だと突きつける包丁。


 その時微かに、いや隠してもしょうがない。正直に言おう、興奮していた。これまでに体験したことのない興奮が、衝動が、感動が体を走った。


 ああ、生きているということは、こういうことなのか!

 ああ、死んでいくということは、こういうことなのか!

 

 目の前で必死に生きようとしている!

 目の前で死んでいこうとしている!

 

 二つの生と死の境をゆっくりと沈んでいこうとしている人がいる!


 これが人の神秘、いやこの世の中で一番美しい瞬間なのではないのか。


 そして彼女の生を決めるのも、死を告げるのも今私に委ねられている。

 この圧倒的な全能感......神にでもなったような......人をどうにでもできる力.........


 気がついたら原型がわからないほど形が崩れた肉塊がそこに惨たらしく、そして汚らしく部屋を赤黒く染めた血液とともに広がっていた。


 ああ、終わってしまったのか。

 ああ、彼女は死んでしまったのか。

 ああ、彼女は生を全うしたのだ。

 ああ、もうこの快感を得ることはできないのか。

 ああ、あの感動は過去に消えていくのか。

 ああ、記憶になって日に日に薄れていってしまうのか。


 そんなことを思いながら河川敷のグランドの中に彼女を埋めたのは私じゃないか。

 

 

 もし生き返っていたならもう一度刺せばいい。

 似た人間なら、知らないふりをして適当に話せばいい。

 そして、殺せばいいじゃないか。あの時と同じように。


 これでいいじゃないか。ああ、簡単なことじゃあないか。

 一体何に私は怯えていたのか。

 

 逆にこれは絶好の機会なのじゃないのか!

 これまで苦労してきた私に対する神が与えた機会じゃあないのか!


 もう一度あの興奮を得ることができる、感動を得ることができる!

 そう思うとすぐに台所に戻り、最近研ぐことがなかった包丁を手に取った。

 

 左手に包丁を持ち、右手で鍵を開け、ドアを開いた。

 窓から入る陽射しは暖かく、明るく、まるで良い未来に私の人生の舵が切られたようであった。

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再会 真部博 @kosamehiro

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