第10話 女装×撮影

それは、いつも通りの土曜日。

お姉ちゃんのお願いを聞くのにも慣れ、段々と日常に溶け込んできた頃。

僕にはある疑問があった。

「ねえ、お姉ちゃんって漫画家を目指してるんだよね?」

その質問に、ペンを走らせていたお姉ちゃんの手がピタッと止まる。

「うん、そうだけど……。どうしたの?突然。」

お姉ちゃんの手にあるのは、僕の答案用紙。

社会の問題を解き終わり、採点を待っている途中の出来事だった。

「いや、僕の事ばっかり手伝って貰ってて、漫画の方は進んでるのかなって……。」

正直な話、僕の勉強を手伝って貰えるのは有り難い。

けれど、僕のせいでお姉ちゃんが夢を叶えられないのは気が引けるというものだ。

僕は、自分だけが得をして相手が損をするのは嫌だ。

嫌、というか心苦しいというか……。その辺、お姉ちゃんは自分から、「私ばっかり漫画の練習が出来なくて不公平だ」なんて言わないだろう。

お姉ちゃんは口を尖らせて、「うーん」と天井を仰ぐ。

「確かに、最近は余り描けて無いかも。」

やっぱり、と心の中で唱えた僕は、お姉ちゃんの元に近付いた。

「なら、僕に出来る事無いかな? 元々お姉ちゃんの漫画のモデルになるって話だったし……。」

僕が真剣な眼差しで見詰めると、お姉ちゃんは腕を組んで頭を悩ませた。

多分そんなに長くは、掛からなかったと思う。おもむろに立ち上がったお姉ちゃんは、何か閃いた様な顔をして、僕を見下ろした。

「優くん! それなら……!」

お姉ちゃんのキラキラした瞳とは裏腹に、僕は嫌な予感がした。背筋がゾクッと凍るような悪寒。

もしかしたら、僕は選択を誤ったのかもしれない。そう悟った時には時すでに遅し。

立ち上がって、自分の鞄をごそごそと漁るお姉ちゃんの後ろ姿には大きな尻尾が見える。

ブンブンと左右に揺れ動く尻尾。

「あ、あった!」

そう言ってお姉ちゃんの大きな鞄から取り出された物を見て、僕はため息を着いた。

そう。お姉ちゃんは今日も今日とて変態なのだと改めて気付かされる。



「いや、確かに出来る事無いかなって言ったよ。確かに言いました。でも……コスプレなんて聞いてないですけど!」



髪は、長い栗色のウィッグ。フリフリのメイド服に、黒のニーハイ。

有り得ない。女装メイドなんて、有り得ない!!

今にも泣き出しそうになる僕を見ながら、お姉ちゃんは息を荒らげた。

お姉ちゃんの鼻息が、今にも僕に掛かりそうになる。

「ゆ、ゆゆ、優くん……!」

鞄から何を取り出したのかと思えば、それは一眼レフだった。

嫌な予感しかしない。その手に持つカメラと、お姉ちゃんの野獣の様な目付き。

今の僕なら、虎に食べられる寸前のウサギの気持ちが良く分かる。

恐ろしい野獣を前にして、震える事しか出来ないのだ。

「優くん……優くん……!」

くねくねと、気持ちの悪い手つきで、僕に近付こうとするお姉ちゃん。

いつもなら、何とか言って拒む事が出来たのだけれど、今回提案したのは僕の方だ。

……何も言えない。お姉ちゃんのなすがままに、僕は黒歴史を製造していくのだろう。


「——優くん、準備はいい?」


お姉ちゃんは唾をゴクッと飲んで、僕に尋ねた。

どうして今更、そんな事を聞くのだろうと思いつつ、僕は渋々首を縦に振る。

それを言い出したのは自分でもある手前、引き返す事が出来ない。


「お、お姉ちゃん……じゃなくてえっと……ご、ごご、ご主人様……?」


あ、お姉ちゃんが死んだ。

一瞬で血を流しながら、地面に突っ伏して悶えるその姿は女子高生の欠片もない。

のっそりと起き上がったお姉ちゃんは、もう何だか同じ人類だと思う事すら恐ろしい程に色々とぶっ壊れていた。

お姉ちゃんはカメラを構えて、レンズ越しに僕を見る。

そして、次の瞬間聞こえてきたのは、シャッター音。それも高速の。

およそ秒速二、三十枚程の驚くべきスピード。

「優くん〜可愛い、可愛いよお……ぐへへ」

ハイアングルから、ローアングル。瞬間移動するかのように、四方八方から僕にカメラを向けるお姉ちゃん。

つま先立ちしたり、床に寝そべって撮ったり。

というか、今、ヒロインなのにおっさんみたいな声を出してなかった?

ポーズを取るつもりは無いけれど、レンズも追えないレベルに、お姉ちゃんは移動しながら撮り続ける。

絶対にブレてるでしょ、なんて思ったけれどヨダレを垂らしながら撮影しているお姉ちゃんを見たら、言う気も失せた。


写真を撮られながら、僕は友達から聞いた『同人即売会』というイベントを思い出す。

そこでは、コスプレをした人が、沢山のカメラマンに撮られるらしい。

僕は目の前にいるへん……じゃなくてお姉ちゃんを相手にするだけでも精一杯なのに、コスプレをしている人は凄いんだな。

こんな変態は、流石に存在しないだろうけれどそれでも大勢に囲まれて写真を撮られるなんて、僕なら恥で死んでいる。

全世界のコスプレイヤーの皆様に、そんな尊敬の意を見せながら、僕は目の前にいるおじ……じゃなくてお姉ちゃんに声をかけた。


「あのさ、もうそろそろ終わりにしない?」


呆れ果てると、むしろ何も感じなくなる。

お姉ちゃんの変質性には、十分に理解しているつもりだったけれど、まさかまだ深淵を覗き込んですらいなかったとは。

お姉ちゃんという人間がどれだけの変態なのかを、僕はまだ完璧には知っていないという事が分かった。

それだけでも今日は収穫を得たと思わなくては。


お姉ちゃんは腑に落ちない顔で「うーん」と悩んでいた。

どうやら物足りないらしい。耳に残るシャッター音は軽く数千回を超えていたような気がするのだけど……。

窓の外を見てみれば、辺りはすっかりオレンジの光が包み込んでいた。

これ以上、お姉ちゃんを自由にさせて置くと僕の体力と気力が持たない。

どうすれば、お姉ちゃんを納得させて帰らせる事が出来るのかと、僕は頭を抱えた。

お姉ちゃんはまだ、僕を撮る事に満足していない。

なら……仕方が無い。お姉ちゃんが夢を叶える為の力になりたいと思っているのは本当だし……。

僕は拳に力を入れて、「お姉ちゃん!」と名前を呼んだ。


「……ぼ、僕、またご主人様に写真を撮って欲しい……ですう……。」


両手は顎の下。上目遣いでうるうるとさせた瞳。

そして、キツすぎないアヒル口……。どうだ、笹月優太の演技力!!

達成感にも似た感覚に浸ろうとすると、目の前のお姉ちゃんがいつも以上におかしい事に気づいた。

俯いたまま、ピクリとも動かないお姉ちゃんは、やがて肩を震わせる。

「お、お姉ちゃん……?」

気になって声をかけてみると、お姉ちゃんはバッと顔を上げた。

親指を立てたお姉ちゃんは何処か遠い目をしながら、呟く様に口を開けた。

「一遍の悔いなし……。」

その言葉と同時に、お姉ちゃんはパタリと床に倒れ込む。

衝撃的な展開に、僕はお姉ちゃんに駆け寄った。

「お姉ちゃん!!」

お姉ちゃんの顔近くで腰を下ろし、僕は何度も名前を呼んだ。

まるで死体の様に動かなくなったお姉ちゃんに焦っていると、鼻の近くが湿っている事に気付く。

よく見てみれば、それは赤い液体。すぐに鼻血だと察した僕は、全てを理解した。

いや、決して肯定はしたくなかった。だって、まさかそんな、漫画みたいな展開があるなんて……。

疑いつつ、もう一度お姉ちゃんの顔を見てみると、その表情が全てを語っていた。


——まさかお姉ちゃん、幸せの限界値を超えて気絶しただけ?


それを確信させるかの様に、お姉ちゃんはにっこりと微笑みながら倒れていた。

その清々しい笑みを見れば、嫌でも理解してしまう。

呆れと無心を通り越すと、もう何だか哀れみが押し寄せてくる。

お姉ちゃんへの心配を返して欲しいものだ。

はあ、と大きなため息を漏らしてから、僕は立ち上がってドアに向かう。

「着替えよ……。」

そしてその扉を開ける時に、僕は心に誓ったのだった。


——もう二度と自分から、お姉ちゃんの願いを叶えようとするのはやめよう。

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