失恋

アリクイ

「勘違いしないで欲しいんだけどさ」


 ひんやりとした空気の漂う部屋で、僕は怯える彼女に吐き捨てる。


「僕は君のことを愛しているけど、君に好かれたい訳じゃないんだよね。わかるかい?」


 単に理解できていないのか、それとも恐怖でそれどころではないのだろうか。いずれにせよ、彼女はガタガタと身体を震わせながら恨めしげな視線が送るばかりで何の返事もない。はぁ、困ったものだ。僕は肩をすくめて小さな溜め息をついた。


「それじゃあもう少しだけ詳しく説明してあげようかな……いいかい?恋っていうのはね、叶わないからこそ甘く美しいんだ」


 だからこそ僕はバイト先でもとりわけ容姿や才能に優れ、周囲から高嶺の花と評される彼女、野崎裕子を愛することに決めたのだ。いつか必ず恋に破れる日が訪れ、喪失の痛みに締め付けられた心は絶頂を迎えることができるだろう、と。そう信じて。


「……にも関わらず君ときたらどうだ?僕が少しばかりアプローチをかけただけで簡単に家まで着いてきてさ……そういうことじゃないんだよなぁ、全く」

「…………」

「……はぁ。あのさぁ、なんとか言いなよ」


 人の理想をあっさりぶち壊しておいてだんまりだなんて、そんなのあんまりじゃないか。無言を貫く彼女の頬を強めに叩く。

 すると、ここに来てから初めての暴力を振るわれたことで限界を迎えたのか、彼女は大声で泣き出した。


「ひぐっ……ぐすっ……!許して、もう許してよぉ……っ!」


 嗚咽交じりに懇願する彼女。普段の凛とした姿の面影すらなく、ただただ哀れな一人の女が存在するだけだ。

 嗚呼、僕が望んだ彼女は、きっと僕のことなど歯牙にもかけず去っていくのであろうと思っていた完璧な彼女は、こんなどうしようもなく平凡でどうしようもない女だったというのか……気が付けば、僕の苛立ちは更に加速していた。


「は?そこは『ごめんなさい』だよね?なんでそんなこともわからないの?なぁ、おい、お前マジでなんなんだよ」


 胸倉を掴んで乱暴に揺らす。鳴き声が一層大きくなる。イライラする。彼女を殴る。泣く。イラつく。蹴る……僕が冷静さを取り戻したのは、彼女が泣き声すらあげられなくなってからだった。


「はぁっ……はぁっ……もういいや。さっさと終わりにしちゃおう」


 僕がポケットからナイフを取り出すと、彼女はまた涙を流して首を横に振った。あれだけされても尚、生きる気力だけは失っていないらしい。


「僕だって本当はこんなことしたくはないよ。死に別れなんて安直だからね。でも君が一度でも僕を受け入れてしまった以上、こうするしかない」


 刃を振り上げ、そして振り下ろす。


「こんな形で終わっちゃったのは残念だったけど、それでも好きだったよ……さよなら、野崎さん」


 一瞬だけ聞こえた小さな悲鳴と鮮血。こうして、もはや何度目かわからない僕の恋は終わりを告げた。

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失恋 アリクイ @black_arikui

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