三月に咲く花

深恵 遊子

三月に咲く

 桜の季節がくると思い出す。

 花弁で彩られた春一番が君の黒い長髪をもてあそんだあの日。

 鹿のような脚で子供のような無邪気さのまま道を駆け、制服のスカートを翻していたこと。いつもは周りの人間に厳しそうな印象を与える鋭い目が俺を振り返るとともにそのまなじりを下げたこと。いつもは横一文字に強張るその口許がいつもより三ミリだけ上がっていたこと。普段だったら俺の情けなさを嘆くばかりの君が珍しく俺を褒めてくれたこと。

 何気ないことばかりだけど、そんなことが俺には嬉しくて。

 だから、約束しようと思う。

 これからの将来、いろんなことがあると思う。悲しいことや辛いこと、楽しいことや嬉しいこと。解決が難しいことも簡単なことも、そもそも俺には乗り越えられない壁が現れるかもしれない。

 それでもたった一つだけどんなことがあっても守り続けよう。


 ——今日という日の君を、俺は忘れない。



あかり、また寝坊して! 私が何回起こしたと思ってるの!?」


 二〇二〇年三月九日、晴天。

 今日の目覚めはすこぶる良くない。敗因は寝坊しないようにとかけた午前六時の目覚ましと、今もうるさい幼馴染みの声だ。


「分かった分かった。今起きるから少し静かにしてくれよ、桜」

「そう言って起きた試しがないじゃない!」


 あと十五分くらい眠らせてくれ。そう言いたいところだけど。

 ただいま午前七時半くらい。約束している時間まであと三十分。要するに予定はカツカツで、


「今日は起こしてくれたことに感謝しないといけないらしい」

「ほら、いいから顔を洗う!」

「へいへい」


 ホント、うるさいやつだ。

 桜の癇癪を掌をひらひらさせて追い払い俺は体を起こした。ベッドの脇では桜がにやりと笑ってる。訂正、苛立ちで口許が引きつってるだけだわ。


「おはよう、桜」

「ええ、おはよう寝坊助の相馬くん」


 桜は一つため息をついて立ち上がる。ここまですればもう二度寝はないかとぶつぶつ言っているのが気に食わない。うるさいな、俺だって自分で起きれることもあるんだぞ。もちろん文句は口にしない。口にしたら確実にうるさいことになるからな。

 ひとまず俺を起こすのに満足したのだろう。桜は一度家に戻り支度をすると言い残して先に出て行った。

 待ち合わせしてる相手も桜のやつなわけだからホントは家から一緒に出ればいいのだが「それじゃ雰囲気でないでしょ」とは本人の談。いつもなら、


「そんな非効率、めんどくさいばかりだろ」


なんて言葉を投げてやるのだが今日ばっかりはそれも無粋だ。

 だって、今日はあいつと恋人になってから何度目かのデート、というやつなのだから。ふざけて一度言ったらボコボコにされたので二度と言わないと決めたのだ。

 幼馴染みの桜と付き合うことを決めたのはいつだったろうか。なんか落ち着く関係を崩したくない俺と何かに焦った桜。ふとした時にタイミングがあって「じゃあ、付き合うか」なんて言って交際が始まったのを覚えてる。

 大体、あいつとは取り上げられた病院のベッドがお隣さんでそこからずっと腐れ縁。名前順で隣の席になり続け、席替えしても隣の席に。クラス替えで別のクラスになるなんてもってのほかだし、習い事のクラス分けでも別れたことがない。いや、なんだそら、呪いかよ。この装備は一度つけると外せません、じゃないんだから。

 こんなふうに愚痴をこぼせば「そんな相手を彼女にすることもなかったでしょうに」と笑われそうだ。

 油を敷いたフライパンでベーコンを炒め、その上で卵を割ってやる。じゃーという音を聴きながら俺はしばらくフライパンを見つめていた。

 卵の黄身が二つ。双子の片割れはきれいに出てきて、もう片っぽは割れていた。



 待ち合わせは隣町の駅前。

 ここが今日行くデートスポット、ペンギンで有名な水族館の最寄駅。ここから一キロ歩くからそれなりにきつい道のりだけど、どうしてもここがいいと桜のやつが聞かなかったんだ。

 時計を眺める。

 約束の時間から十五分。あと三分で次の列車が来るはずだ。

 そして、来たる八時十八分。慌てたあいつが走ってくる。


「ごめん! 玄関に飾ってた花枯れそうになってて」

「確かアンモビウムだっけか?」

「そうそう、追肥したりとかしてたら時間が結構経っててさ」


 よく覚えてるね、と彼女らしい桜の言葉に俺の頬が薄らと上がるのがわかる。


「そういえばお前制服なのかよ」

「いやー、私服漁ってたんだけどそういうのなかったから、まあ、これでいいかなーって」

「俺が学ランだったら雰囲気でないって言って怒るくせに」


 俺の文句に目を逸らす桜が少しおかしい。こんなあいつ滅多に見られない。


「それじゃ、行こっか」


 そう振り向いてはにかむ彼女に、今日も俺は心奪われ歩き出す。


「燈、覚えてる?」

「何をだよ」

「小さい頃、燈の家族とウチの家族でこの水族館に来たじゃない」

「ああ、お前がカスタード入りのカステラ落として泣いてた時?」

「違うわよ。あれは落として泣いてたんじゃなくて燈が『あー!桜が落とした!』って何度も繰り返すから」

「そうだっけか? 覚えてないわ」


 そういえばそんなことも言ってたな。朧げな記憶しかなかったがだんだんとはっきりしてきた。

 あの時はそういう年頃だったからと思って欲しいが、あの時の親父のゲンコツめちゃくちゃ痛かったな。


「そのあと燈のお父さんが見かねてゲンコツをアンタに落として二人して泣いたのよね」

「あー。そのあとのオチは俺もわかるぞ」


 ——その様子を微笑ましそうに見てた親父さんがそれを写真に残そうと後ろに下がりすぎて池に落ちた。

 ——その様子をニヤニヤと見てたパパが私たちを写真に残そうと後ろに下がりすぎて池に落ちたのよね。


 二人の言葉がハモってクスりと笑う。


「『うわぁぁあぁあ!?』なんて狙ってるとしか思えないわ」

「お、今の声真似は親父さんに似てたぞ」

「やめてよ、笑えないから」


 お前はパパ離れが苛烈すぎて親父さんが泣いてるからもうちょっとなんとかならんかったのか。


「さて、もうそろそろ見えてくるぞ」


 四角い特徴的なシルエットが木々の隙間から見えてきて桜が少し早足になる。俺も合わせて早足に。

 こういう時だけ子供っぽいというべきか。

 出遅れたこともあってかチケット売り場にはそれなりの列ができていた。

 と言ってもど田舎の水族館。十組くらいのものだが。

 すぐに俺たちの番は回ってくる。


「本日はようこそいらっしゃいました。チケットは大人一枚、——」

「いえ、大人二枚で」


 残念なことに桜は身長がない。加えて若干の童顔。少しでもマシにするためいつもまなじりを吊り上げているらしいが、睨んでるように見えるだけだ。

 一四〇センチにも届かないことがとんでもないコンプレックスで恋人間でもアンタッチャブル。こういうデートの時、時折子供のチケットだと受付の人に言われて睨んでる姿もたまにあって、何回か前のデートでもそんな感じだった。

 だから、というわけでもないが今日は先手を取ったというところだ。

 お姉さんは一度怪訝な顔をした後、


「大人二枚ですね? 二千円になります」


 すぐに切り替えチケットを出した。


「さあ、行こうか」


 桜がそう言うのに笑いかけの俺たちは入場ゲート潜って行った。



 イワシ玉、アジの群れ、鯛やヒラメなんていう食卓に並ぶ魚からエイや、サメなんていう変わり種が時折混ざる。その一つ一つを見ては、


「このアジ脂のってそう。刺身だな」


やら


「エイか、アンモニアってどうやって抜くんだろう。エイヒレ焼くと美味いんだけど」


やら言い続けてたら、隣の桜が頭を叩いてくる。


「いってー、何すんだよ」

「美味しい、美味しそう以外の感想が出らんのか、アンタは!?」

「じゃあ、あのマンボウはそんなに美味しくなさそう、とか?」

「食べることから離れなさいよ!? もっと『キラキラしてて綺麗』とか『この魚見たことない』とかまともな反応できないの!? イワシ玉見た時なんて『良い出汁取れそう』って、それ乾燥させてるじゃないの!!」


 別にそれくらい自由だろうに。内心の自由だ。


「内心の自由を謳うんだったら、声に出さないの!」


 プリプリ怒る桜は平常運転。だから、俺も平常運転で返すのだ。


「……へいへい」

「アンタはほんとに、……そういえばアンタ今からペンギンとアザラシを見に行くわけだけど、」

「キビャックはアザラシの内臓を抜いてペンギンを詰め込み発酵させたエスキモーの伝統的な料理でな?」

「見るまでにまともな感想を考えときなさい。もし、水槽の前で味の予想を立てたらこの水族館を出る前にアンタを料理にして食べるから」


 桜の目は座っていて、ちょっと本気っぽい。いや、というか、


「それ本気で言ってる?」

「本気と書いてマジと読むわ」

「けいけい」


 これはちょっと危なかったな。今の桜、これまでになく目が細いわ。障らぬ神に祟りなし、大人しくペンギンの水槽までに感想の推敲をしておこう。

 まあ、ゆっくり歩いても十分くらいしかないから考える暇なんてないのだけど。

 出てきた感想も、


「丸々コロコロとしててお、……かわいいな」


 なんて、無難なものだ。

 一瞬美味しそうと口にしかけたが言い切らなかったのでセーフ判定らしい。睨まれたのはノーカンノーカン。

 ペンギン、アザラシと見てイルカの水槽がある。水槽内にトンネルとなっていて下から泳ぐイルカを見れるのだ。

 水槽の壁面にいるかが笑っている。その脇に写る俺の影。イルカを見てはしゃぐ桜の影はいつもより楽しそうだ。


「いつもより、か」


 その言葉は誰もいない水とアクリルに囲まれた孤独な通路に溶けて消えていく。


「燈、いくよー!」

「分かってる」



「つっかれたー!」


 あどけなく笑う彼女の顔を見る。午後五時三十二分。予定より十分早く公園に着いた俺たちはブランコに座っていた。俺はなんとはなしに漕いで、あいつは止まったまま口を開く。


「燈、今日も楽しかったね」

「ああ、そうだな」

「水族館でお前がはしゃぐなんて思ってなかった、って?」

「そうだな、実のところをいうとそんなところだ」

「私だって女の子。楽しむものは楽しめるの」

「そうかよ」

「もう、覚えときなさい!」


 覚えときなさい、か。

 そうだな、忘れることはないのだろう。今日という日を。


「私とのデートが今日限りになっても後悔しないようにちゃんと拝んどくのが正しいデートってものなんだから!」


 そうだ。

 桜、君がいうことは何一つとして間違っていない。だから、俺はふと綻びかけた桜の枝に近づくのだ。


「桜、知ってるか? 桜の花言葉にはな、『私を忘れないで』っていうのが、」

「——お兄さん、何してるの?」


 思考に空白が広がっていく。崩されたルーティンは思ったよりもダメージが大きくて。

 リカバリーを考える。いくつか案はある。


「今年の桜があまりに綺麗だったからな」


 そんな苦し紛れの言葉は小さく首を横に振る軽い動作で打ち消された。


「それでも、枝を折ったらこの桜さん痛がってるよ?」


 小さな少女の無垢な正論。

 それだけに俺は動けなかった。動けなくなった。もう、桜の姿なんて俺には見えなかった。


「サクラね、桜さんが好きだからお兄さんが桜さんをケガさせたらヤだな」

「そっか。それは、確かにそうだな」


 俺の正論に固まり桜の枝から手を下ろすのを見て少女は満足げに頷くと、俺が漕いでいなかった方のブランコに駆け寄った。

 そして、何事もなく漕ぎ始めるのだ。そこに桜の影は既になく。

 アネモネは花壇で風に揺れ花びらを散らし、それを見て俺はふと思う。


「——そっか、もう五時五十一分」


 耳の奥でドスンと肉が鉄にぶつかる音を聞いた。



 御影石に刻まれたその名前と命日をなぞる。


『道川 桜 平成二十五年三月九日』


 桜は俺の目の前で唐突に事故死した。なんてことはない。彼女の嘘が真になっただけのこと。

『私とのデートが今日限りになっても後悔しないようにちゃんと拝んどくのが正しいデートってものなんだから!』

 その言葉は本当に正しかったということらしい。事故の原因は運転手の過労運転。いくら泣いても彼女の命は戻らなかった。

 路上に血の花を咲かせ静かに眠る彼女の姿が受け入れられなくて、しばらくは狂った真似もしてみたけれど閉鎖病棟からは一年足らずで追い出されてしまった。

 だから、三月九日。この日になったら俺は必ずあの日のデートコースをなぞることにした。彼女を忘れないように。彼女との約束を守れるように。たった一人で、彼女がいた時のように。

 毎年の儀式が綻んだ今だから疑問に思う。ホントのところはどうなのだろうか、と。

 もしかしたら、約束したというのに彼女のことを忘れいく自分を自覚していたから忘れたくなかっただけなのかもしれない。もしかしたら、ただ懐かしい彼女とデートしてる気分に浸りたかっただけかもしれない。

 だとしても俺は彼女の幻覚ゆめをみていた。彼女が俺にそれをみさせてくれていた。それくらい俺は、そういう風にある事ができていたんだろうか。

 わからなかったから、俺の無意識が作り出した幻想にもう一度だけ問いかける。


「なあ、桜。俺はちゃんと君のことが好きだったのかな?」


 風がさやと笑い。木々に纏う薄紅色を引き剥がしていく。

 そしてまた桜の季節が来て思い出す。

 花弁で彩られた春一番が君の黒い長髪をもてあそんだあの日。

 鹿のような脚で子供のような無邪気さのまま道を駆け、制服のスカートを翻していたこと。いつもは周りの人間に厳しそうな印象を与える鋭い目が俺を振り返るとともにそのまなじりを下げたこと。いつもは横一文字に強張るその口許がいつもより三ミリだけ上がっていたこと。普段だったら俺の情けなさを嘆くばかりの君が珍しく俺を褒めてくれたこと。

 そんな君が好きだったこと。


 今年も、故郷では少しだけ早い三月に桜が咲いている。

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三月に咲く花 深恵 遊子 @toubun76

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