第8話 「落ちたと思ったら、あんたがいた。よかった」

「あーすっきりした」

「やだあんた風邪ひいたんと違う?」


 そう言えば、何か浮かれ具合が妙だとは思った。


「風邪? そんなのひいた記憶はないんだけど」


 そう言ってTEARは自分の手でFAVの額に触れ、ついでのように自分の額にも手を当てる。


「熱はないない。でもFAVさんは低すぎ」

「何言ってんのよ、ちょっと手離しなさい」


と、自分の額に置かれた手を取ると…… 妙に熱い。


「ああ?」


 FAVは上目づかいで相棒を見る。


「帰んなさいっ! 帰って寝てろ!」

「一人じゃ淋しいんですがねー」

「たわけーっっ!!!」


 わざとらしくしなだれかかってくる奴には鉄拳を一発…… くらわせてやりたかったが……

 結局送るはめになってしまった。

 その場で落ち合う予定のP子さんに電話をかけると、驚くことに「まだ」いた。

 事情を説明すると、いつもののんびりした声でいいですよ、と答え、自分一人で行くから身体に気をつけて、と付け足した。

 何となくそれだけ聞くとFAVは安心した。

 家に置いてあった電子体温計を無理矢理口に突っ込んで計ると、見事に三十八度五分あった。寝なさい、と一発怒号して、とにかくFAVはTEARを布団の中に押し込んだ。

 布団の中に入ってしまうと、この女は実に寝付きが早かった。しかも天下太平な顔をして眠る。熱があるなんて感じられないほどに。

 だが額に触れるとやはり熱いのだ。もともと自分なんかよりずっと体温が高いひとだから、同じ体温でも自分よりは楽なんだろうけれど。

 何でも高温期だといつも三十七度くらいが平熱なのだという。そうそう心配することないのかもしれない。

 でもついつい、四畳半一間についているキッチンの隅に置かれている冷蔵庫にあった氷を出したり、リサイクルコーナーで買ったんだよ、と自慢していた、なかなかこぢんまりとしたいい趣味のクローゼットの中にきちんと入っていたタオルを濡らしたり、FAVはこまめに動いてしまう。

 はっきり言ってどうしていいのか判らないので、とりあえず動くしかないのだ。

 一体どーしてこうなるんじゃ、とFAVは思わずにはいられない。出会って以来、自分のペースを思いっきり狂わされっぱなしである。

 だがその狂わされ部分はそう悪い気分ではない。

 会えば会うごとにTEARはFAVに雨あられと誉めコトバを降らせる。好き好き大好きと臆面もなく言う。

 スキンシップが大好きなので、気がつくと肩組まれたり、頭撫でられたり、背中から抱きついてくる。もちろんそのたびにFAVは暑苦しいだのうっとおしいだの言って振り払うのだが、それでもめげずに毎度やってくる奴には結局根負けする。何度か泊めたこともある。

 と、いうのも、FAVは何だかんだ言って、TEARのコトバだの行動だのが、本気であることだけは確信していたのだ。

 好き好きと言う言葉にしたって、何だかんだ言ってもTEARは自分以外の人間に降り注ぐようなことはないのだ。彼女を良く知っている昔からのベース関係の友人に聞いてもそうだ。たいてい最近の彼女のその態度を説明すると絶句する。

 ではさて、そう言われている自分は一体彼女のことをどう思っているのだろう。FAVはそれを自問する時、どうしても考え込んでしまうのだ。

 FAVは言いたくも認めたくもないのだが、自分は彼女のことがとても好きらしい。

 本当に、認めたくはないのだ。何となく負けたような気分がする。しゃくに触る。確かに狂わされっぱなしの調子は悪いものではないが、それとこれとは話が別である。

 無闇やたらに抱きしめられたりする時に、それをうれしがっている自分がいる。それが怖いのだ。このままずるずると、相手のペースに呑まれてしまうような恐怖。それは好き嫌いとは別の感情である。


 これはあたしじゃないんじゃないか?

 これでいいんだろうか?


 その思いが何処かでFAVにブレーキをかける。


「……どーしたの?」


 ぼんやりとしていたらいつの間にか目を開けた相手に手を掴まれてしまった。


「どうもしない。寝てなさいよ」

「のど痛い。あまりいい夢を見ない」


 珍しい、とFAVは思った。目がまだ半分寝ている。いつもなら起きぬけでもぱっちりとしている目が開ききらない。

 握りしめる手が汗ばんでいるのが判る。汗はすぐに周りの空気に冷えて、TEARの手を冷たくする。


「悪い夢?」

「どうって言い表せるもんじゃないけど」


 やはり半分眠っているな、とFAVは思う。言葉の調子が投げやりだ。いつもならある程度気を遣っている部分が消えている。


「ものすごく世界が尖っている」


 ?


「焦点が合いすぎる」


 ??


「何もかもぐぐっと迫ってくる。見ていて痛いくらい。それであたしはその尖った上から落ちる」

「何言ってんの」

「落ちたと思ったら、あんたがいた。よかった」

「……」

「居てよ」


 まだ熱い手がFAVの手首を掴む。思いのほか強い力に、FAVは身動き取れないのに気付く。


「離しなさいよ」

「やだ」

「どーしてよ」

「離したらいなくなる。居てよ」


 ちょっと待て、とFAVはちくん、と胸の真ん中に針を刺されたような気がした。耳を疑う。こいつがそんなこと言うか?


「ちょっと待てあんた今……」


 問い返す。だがその瞬間FAVはがっくりと肩を落とした。目を閉じて、相棒は再び眠りについていた。手を握ったまま。

 どうしたものか、とFAVは思った。とにかく離さなくては動きも取れない。はあ、とため息をつく。

 考えてみれば、今まで、この友人が弱音を吐いたところなど聞いたことがないのだ。弱音どころか、どういう暮らししてきて、何を思って今までやってきたのか、そういうことも聞いているようで全然聞いていない気がする。

 確かに何があって家を飛び出したかは聞いた。昔々はどういう女の子だったのか、も聞いた。どうして自分が気にいったのか、好きなのか、そういうことも聞いた。

 だけど、それでもまだ何も聞いていないような気がする。彼女は自分が聞けば、ある程度相手は答えてくれるということは判っている。だけど自分から訊くのは何となく口惜しい。

 TEARは自分にいちいちそれまでのことを聞かない。自分が今まで誰と付き合っていたとか、誰と寝たことがあるとか、全くと言って。

 関心がない筈はない。だって自分がそうなのだから。

 関心はあるのだ。自分が最初である筈がない。


 だけど。


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