朝日が射して、私たちは朽ちた船の陰に休んでいる。

 ここまでずっと背負ってきた狭穂さほも、日の出とともに目を覚ました。昨夜飲まされた薬酒が合わなかったようで、川辺で少し吐き、清水を飲んで気分が良くなるのを待っている。少し休ませて、それから森沿いに移動しようと思う。

 すでに、竹野国たかののくにの外であった。

 追っ手は掛かるまいと思う。女王が私たちを赦したのだから。

 その経緯いきさつを私はいま、狭穂に話して聞かせていた。




   * * *




「……正しい。何故だ、闇見国くらみのくにの子よ。何故その名を知っている」


「高祖父、伊久いく米王めのみこの手記に、我が妻の名はたけの迦具夜かぐやひめ、と。妻とは日葉洲ひばす

 

 女王が息を飲むのが聞こえた。


「私はそれを、竹野国たかののくにから来た耀かがようばかり美しい妻、という意味だとずっと思っていました。しかし今思い返すと、それならば『我が妻は』と記せばよいところ、『我が妻の名は』としているのです。伊久いく米王めのみこは文の名手と讃えられる人でした。ならば恐らく、はず。『名は』と書いたのならば、実際にそれが名であったと考えました。

 日葉洲ひばすは九代女王となるはずのたった一人の娘でした。札に紋様が出るところまで神事が進んでいたのならば、狭穂と同様この竹林に植えられたのを伊久いく米王めのみこが掘り出して逃げたのではないでしょうか。

 ならば土の中で日葉洲ひばすは、女王になりかかっていたのではないでしょうか。

 だからすでに、女王の真名まなをその魂にっていた――そう考え、それに賭けたのです」


 ややしばらく、言葉はなかった。

 無数の竹の息づく夜の底を、高くから満月だけが照らしていた。

 ざあ、ざあ、と竹の葉が鳴り巡る。

 私は十三代女王菟上うなかみを見上げる。

 その姿は相変わらず黒い影だったが、満月はもはやその頭から外れて、冠ではなくなっていた。

 やがて、押し殺したような声が降ってくる。


「よく分かった。御間みま城王きのみこ、女王の約束であるからその娘をくれてやる。

 その娘だけだ。他は掘り出してはならぬ。……そのつもりも無かったであろうがな」


 見透かされている。

 私は狭穂ひとりを助けるために、あとの二人、あるいは三人を見殺しにするのだ。最初からその心積もりでここに来た。

 今すぐ掘り出せば息を吹き返すかもしれない娘たちを。

 一人しか抱えて行けないからだ。

 そう決めた時点で私には、罪がある。

 ならばせめて、やりおおせなければならない。


 どこへなりと連れてゆくがいい、と女王は低くゆっくり私に言った。


「我が名にかけて、追っ手は出さぬ。その娘の係累が責めを負うこともない。

 ただひとつ、守るべきことがある。

 女王の真名を、これ以上誰にも伝えてはならぬ。その娘にも、誰にも。

 我が真名、若竹の名を、世に広く知られるようなことがあったならばその時は、日葉洲ひばすの血を引くすべての者が竹につらぬかれて絶命するであろう」





   * * *





「だからその名は、言うことはできない。帰ったら高祖父の手記も墨で塗り潰すつもりだ」


 私の肩に頭をもたせかけた狭穂さほの、黒く真っ直ぐな髪を撫でる。顔を見ると、だいぶ血色が戻ってきているようだ。頬を涙がひとすじ流れ落ちていった。

 狭穂はもう、帰る場所を失った。永遠に。これから先は私がこの娘を守っていかなければならない。


「狭穂」


 呼ぶと、はい、と細い声で答える。

 妻となるべき愛しい娘の身体を、私はそっと抱き寄せる。



闇見国くらみのくにに帰ろう。私は、早く妻を見付けろと始終言われていたんだ。きっとみんな喜んでくれるよ。

 私の故郷は美しい所だ。そこが狭穂の新しい故郷になる。狭穂の気に入る眺めの部屋を用意しよう。屋敷からは、山も川も、野原も畑も、海も見える。どんな眺めがいい?」



 すると狭穂は、私の肩に額をつけて、夜風のようにこうささやいた。



「どうか、竹林の見えないところに」



「ああ、きっとそうしよう」




 そうして私たちは立ち上がり、森沿いに歩き始める。

 あのたかに背を向けて、安住の地へと。

 遠い遠い昔、日葉洲ひばす伊久いく米王めのみこに手を引かれて歩いたであろう道をゆく。





 狭穂は闇見国くらみのくにに着くと名を作帆さほと改め、私の妻となった。

 そして、日葉洲ひばす――氷羽州ひばすがそうであったように、生涯竹野国たかののくにとは交流を持たず、生涯闇見国くらみのくにを出ることはなかった。




 長い年月の後に作帆さほは、自らの死期を悟り、それまで書き付けたものをすべて焼いた。

 その最後の一葉を見せられた私の驚きは如何いかばかりであったか。



 そこには若き日の作帆さほの手で、こう記されていた。




――我が真名まなたけの迦具夜かぐやひめ








〈了〉


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沙帆媛伝――竹野国の物語 鍋島小骨 @alphecca_

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