第十六章 もう一つの筋書

 ミハイルとイワンの共同作業、同じ敵を見据えているような共同戦線は、イワンの予測どおり、ポリーナが主人公に別れの接吻をしたところで、雨が止むように急に止まった。

 ミハイルは父親の監視があるため、家で戯曲を書くことなどは出来なかった。一方、彼は左手で試験の答案を書く練習をしていたが、時としてペンの先に、ポリーナや彼を見つめる主人公の感情が滴って来るのを感じ、飛び上がってペンを落とすことさえあった。彼はイワンとの共同作業のなかで、自らの身体を使って彼らの感情を感じようとするうちに、自分の身体がそれら架空の登場人物に支配されるような感覚を味わったものだが、その感覚に日常生活のすべてを支配されるのは怖かった。それはミハイルには、イワンに自分の名前のみならず、身体までも持ち去られることであるかのように感じられた。

 それに、ポリーナや彼に恋する少年が、実のところ彼にとって何であろうか? 彼は父親の目を盗んで、彼らの生活を覗こうとする努力そのものに次第にくたびれ、彼らを想像することから遠ざかっていった。

 イワンはミハイルに何も言わなかった。ミハイルが台詞を言わない以上、イワンは何も書き写しようがない。この数日の共同作業で、彼らは互いにものを言うタイミングにまで精通しており、沈黙の長さまでも肌で感じて分かるようになっていた。

 イワンは苦情を言わず、ただ既に出来上がった原稿を眺めて、何か思うような沈黙を続けていた。

「何とか言えよ、」

 とミハイルがとうとう言った。締切までの期限はあと三日に迫っていた。

「うん?」とイワンは眠りから覚まされたように、原稿から目をあげてミハイルの方を見た。その目は明るく澄んで、あと少しで微笑んでいるかのようにミハイルには見えた。

「ミーシャ、間違いをただすとしたら、それは俺の言う台詞だろう、ひまでしょうがない」

「だったらきみが書けばいいじゃないか」とミハイルは叫ぶように言った。

「きみはどうせ、僕より何だって出来る。ポリーナの考えることも、すべて僕より分かってる。だったらきみが、自分の手で書いたらいいだろう。僕の台詞なんか待たずに。なんでポリーナの台詞が言えて、主人公の台詞が言えないか――。それは僕が、僕の父さんに何も言えないからだ。きみは全部分かってるくせに、わざと僕に出来ないことをけしかけて、僕が苦しむのをみて楽しんでるんだ」

「全部その通りだとしたら?」

 とイワンは言った。それから、彼は鞄から封筒を取り出してミハイルの前に置いた。

「ミーシャ、きみの考えていることが、聴かなくても何となく分かるようになった」

 と言い、彼は封筒かからそっと手を離した。ミハイルは恐る恐るそれを手に取ったが、表裏とも何も書かれておらず、また封がしてあって中身を見ることは出来なかった。「それはその結果だよ、中身を見るかどうかはきみに任せる」

 ミハイルは恐れと怒りの混じった表情でイワンを見返した。

「もう結末を書いたの?」

 イワンはあっさりとうなずいた。ミハイルは声を詰まらせながら言った。

「いつもそうだ、きみはいつも僕より高いところにいて、僕の先回りを――」

「おい、早とちりしないでくれよ」とイワンは制止するように言った。

「これは俺の成果であって、きみの成果だとは言ってない。きみの成果にするかどうかは、きみの考え次第だ」

 どういう意味、と言いながら、ミハイルはイワンの意図を想像して黙った。彼もまた、初めこそ呑み込めなかったイワンの言い方から、イワンの真意が汲み取れるようになっていた。

 彼はまず、イワンの自分に対する残酷さにぞっとした。その時の驚きは、この数カ月でミハイルがイワンに認めていた、優しさや親切心の印象を吹き飛ばすほどだった。彼は封筒の厚さを見て、イワンがどれほどの作業時間を注いだものかを推測することが出来た。イワンは一朝一夕でこれを書き上げたはずはなく、これほどの準備を密かに続けながら、ミハイルにはその様子をおくびにも見せなかったことに、ミハイルは鮮やかな恨みを感じた。つまり一週間ほど前から、自分は作品を完成させられないと見切られていたということではないか――。

「騙したな、」

 それらの怒りが、ミハイルの頭に巨大な石のように降りかかった。彼は自分が叫び出すのを止められなかった。

「イワン、きみは友達だと思ってた。きみは僕を信じてくれると思ってた、きみは僕に、きみの考えていることを打ち明けてくれると思ってた――」「ミーシャ、どうか聴いてくれ」

 イワンはミハイルに、包帯のない左手で襟首を掴まれながら言った。

「俺はまだ、きみが奇跡を起こすかもしれないと思ってる。だから三日前に言った」

「そんなことどうでもいい、一体いつから僕が出来ないと思ってたんだ」

「きみは知ってるはずだ」

 とイワンは怒鳴り返した。

「ポリーナの台詞が終わったら、きみはきっと手詰まりになるだろうと。お互いの沈黙で分かってたはずだ――」

「それで僕を捨てたっていうわけか。僕が出来ないと思って、きみは密かに僕になる準備を進めていたというわけか、実際の僕とは違って、最後までものを言える僕に――」

「こんな恐ろしいことをきみに強いたのか、と震えたよ」とイワンは蒼ざめながら言った。

「だがきみ自身の苦しみを代わってやることは出来ない。きみの台詞を代弁してやることは叶わない。だから『悪魔』は俺には書けない」

 ミハイルはイワンの襟首に込めた力を緩めた。

「じゃあ、あれには何が入ってるんだ」

 彼らの沈黙がそのまま姿を変えたかのように、彼らの前に分厚い封筒があった。「分からないか――俺じしんにとっての『悪魔』を書いたものだよ」とイワンは言った。

「それをどうしろと?」

 ミハイルがそう言うと、イワンの表情に初めて小さな傷のような痛みの影が走った。

「あと三日だ。それできみが本心から湧き出るような台詞を言うことが出来れば、きみはきっと素晴らしい作品を書ける。きみが勝つという希望を、俺はまだ捨ててはいない。だがきみが作品を書き上げること以上に、俺が望んでいることがある」

 きみが優勝して賞金を手に入れて、夢を叶えることだ、と言った。

 ミハイルはイワンの言うことの真意を、今度は掴みかねた。

「……どういう意味?」「どういうことも何も、」

 今度はイワンが苛立って言葉を途切れさせた。

「本当に親父を殺したくはないか、俺ならきみの父親の仕打ちには耐えられない」

「父さんは、」

「聴きたくないね、きみは『耐えられるようになる』って言うんだろう」

 とイワンが叫んだ。

「その意図を理解できるようになれば……きみの父親が、きみを虐げる理由が分かれば……きみの幸福を思ってのことだと納得できるようになって……そしてきみは、自分を虐げる父親を許すという幸福を手に入れる。そんなもの、悪魔がきみを騙して握らせた偽物だ、服従することで手に入る幸福なんか、」

 そう言って、彼は自分が渡した封筒を引っ手繰るように掴み、再びミハイルの前に叩きつけた。

「相手を自分の監視下に置いておくための、嘘に過ぎないよ……俺がアリョーシャにやっていることだから分かる」この血を吐くような言葉は、ミハイルの胸に刃物でつけたような鮮烈な痛みを呼び起こした。彼は自分の心臓に痛みを感じたのではなく、イワンになりかわって胸に痛みを感じたかのように感じた。

「分からないか、金さえあれば、逃げ出すことは出来る。ペテルブルグがどれほど遠いか知ってるか――。あそこから来るひとたちは、俺たちが想像さえしないものを身につけてる。この田舎町にはない、最も素晴らしい財宝は何だか分かるか――『魂の自由』だよ、ミーシャ、俺たちが決して手に入れたことのないものだ」

 アリョーシャは可哀想だ、とイワンは呟くように言った。「きみや俺と違って、自力でそれを手に入れる機会なんかない。あいつが良い目にあうのは、他人に従順になった時だけだ」

「きみは不自由を、まるで悪いことのように言うけれど、」とミハイルは口ごもりつつ言った。

「それって『守られている』ということと、どう違うのさ。僕らはまだ子供じゃないか。守ってくれる大人の力が必要なのは目に見えてる。それにアリョーシャにはきみが必要だろう? その、他の子供が大人を必要とする以上に、とくにきみを必要としているじゃないか。……僕が知らない事情があるにしても、きみが保護者として彼を守っているということが、アリョーシャの不幸だとは僕には思えない」「そうだよ、アリョーシャは俺から逃げることは出来ない」とイワンは彼にとっての悲劇を述べるように言った。

「俺が、父親の血から逃れられないのと同じことさ。あいつもまた、同じものに縛られてる。そしてあの弟がいるお蔭で、俺自身が背負わなければいけないものがある。でもそのせいで、アリョーシャは生きられてる。俺があいつを捨てられないのと同じように、あいつもまた俺の手を離れることは出来ない」

「だから、きみたちの場合は、それが不幸せではないと……」

「それが幸福だとは信じたくないんだよ、もしかしたら逃げられたかもしれないのに」

 そう言うとイワンは、自分がいま吐いた言葉から離れようとするかのように俯いた。

 しばしの沈黙が続き、その味わいが彼の話していることが本心から出たものだと、彼ら二人に知らせていた。

 ふと、他の生徒が教室の廊下を歩いていく足音が響いた。彼らの会話する音が聞こえて、誰かが覗いているかもしれなかったが、ミハイルは背にしている扉の方を見る気になれなかった。

「ミーシャ、きみは俺が、何故きみにこだわるのかを知りたがっていただろう、つまりそういうことさ。俺はきみがここから、きみを苦しめる父親から逃げ出すのを見たい、俺やアリョーシャの代わりに。きみだったら逃げ出すことが出来たというのを見ておきたいんだ」

 そのためには勝ってほしい、出来ればきみ自身の告白で。それには、きみが創作の上でも、父親を打ち殺すだけの勇気が必要だ。

「もしそれが出来ないのなら、俺の告白を代わりに使ってほしい。それで勝てるかどうかは保証できない。もし中身を見て使い物になるようだったら使ってくれ。また見ないで捨ててくれても構わない。見ることを強制するつもりはない。ただの告白で、他人に与えられるものなんか別にないものだ。他人の作品を使えと頼むことが、きみに対する酷い侮辱になるとも分かってる。だが今回は時間がなかったし、きみをけしかけたのはそもそも俺だ。またきみが台詞を言えないのも、俺自身が選んだテーマのせいだ。俺が全て意図して、きみを苦しめているだけだと言われればそうだろうな。

 だから、もしきみが勝ちたいと思って、その手段が見つからない不運に見舞われたら、俺を利用して欲しいと思ってこれを用意した」

 しばしの沈黙の後で、アリョーシャは、とミハイルは分厚い封筒を引き寄せながら、震える声で言った。

「あの子を頼むと言ってたじゃないか、きみがペテルブルグに行って、もしも僕までがここからいなくなったら―― あの子をどうするつもり?」イワンは笑った。

「じゃあそれを見てくれ、もう手遅れだってことを書いてる。少なくとも俺と関わっていると、あいつはそうなる」

 自宅に戻ったミハイルは、貪るように紙の束をめくった。彼はそれを、自分の知るイワンが書いたということを半ば忘れ、時折ふと思い出したりした。彼はイワンが、自分を見限り、別の作品を書いていたという事実に、初め出血のような怒りを感じたものの、その時の怒りは次第に、紙をめくる己の手の震えにかき消されていった。

(イワン、きみはあの子をどうするつもり――)

 自分が言い放ったその言葉が、今ではイワンが書いたこの戯曲の台詞として成り立つように思われた。彼は自分が、イワンの描いたこの物語の成立過程において、何らかの寄与をしてしまったかのように感じ、それすらおぞましいことに感じた。

 ミハイルはイワンの原稿をめくる自分の手が震えているのを見て、叱咤するように自分の考えを纏めた。

(僕じゃない、僕はこの話に何ら関わっていない、これは彼ら兄弟だけの話で――)

 ミハイルは渇くように、自分じしんは無辜であるということの証明を求めた。ふと、この渇きこそが、イワンにこの戯曲を書かせた衝動の実体であったことを悟り、そこでページをめくるのを止した。

 ミハイルには、それからなお課題があった。この戯曲に勝るだけの告白を、自分の左腕で、己の力だけで書き上げるか。あるいは、自分には出来ないと判断して、イワンの言う通りに、この彼の作品を、自分の告白だと偽って応募するか。

 一方で、このまま捨ててくれても構わない、と言ったイワンの言葉を彼は思い出した。既に、自分が書きかけていた『悪魔』は、父親の手で暖炉にくべられていた。イワンは初め、見ることは強制しないと言ったが、ミハイルが彼の弟の名前を出した途端、全く反対のことを言った。

 それを見てほしい、もう手遅れだということが分かる。少なくとも自分と関わっていれば、アリョーシャはそうなる――。

(冗談なんかじゃない、これは、本当にイワンの、)

 ミハイルは、イワンが一連の行動によって、本当は何を望んでいるのかを理解しようとした。イワン自身は、ミハイルに告白したと思っているかもしれないが、あの他人に真情を明かすことを皮膚を裂かれるように辛そうにするイワンが、全てを明かしているとも思い難かった。

 まず彼は、ミハイルに勝ってほしいと言った。それもミハイルの告白によって。それはイワンが、父親から逃げおおせた息子を見たいから。それは彼ら兄弟がありえたかもしれないものだったから。

(でもイワンは、ただ僕に勝たせるためだったら、わざわざこんなものを書いたりはしない。過去の作品を調べて、何が評価の基準かを知り抜いていた彼だ。試験の答案と同じように、評価される内容を入れた、適当なフィクションを作って寄越しただろう、満点の試験の答案を作るみたいに。

 ――だがそれなら、僕にでも可能なはずだ。何も彼が身を切る必要はない。試験問題の出題傾向の話の時のように、もっと単純なことを僕に知らせて、僕にやらせただろう。彼はなぜ、僕に可能かどうかも分からない告白を強いた上で、自分までが身を切ることを選んだ? なぜ勝てそうにない勝負を、彼はあえて創り出した? 

 彼の言う通り、僕が父親を殺す台詞を言うのを見たいから――。確かに、父親の存在を掌握するような主人公でなければ、彼が身代わりとするには足りないのだろう。

 でも、僕の告白によっても勝てない場合の代替策として、なぜ彼はフィクションを用意しなかった? ただ勝つためなら、それだって良かったはずだ。草案の時点で僕の告白を見て、これ勝てないと思ったのなら――模範解答のようなフィクションを出して、『それを使え、きみの告白はフィクションにも劣る』とでも言えばいいじゃないか。

 なぜ彼自身がこれほど苦しい告白をして、それを使ってほしいと言う必要がある?僕の、『悪魔』――。イワンこそ、長い間それだった。でもこれは、いま、僕の手元にある『悪魔』の原稿は、僕の声を写した、彼の筆跡によって成り立っている。

 イワンは、これに自分の告白を見た? ところどころにある字の震え、僕の感情の波紋とは必ずしも一致していない動揺、これは、彼自身の告白が滲み出たものか?

 きっと、そうだ。彼は、僕の声を文字に写し、僕の『告白』を完成させたつもりが、半ばは自分自身の告白が滲んでいることに気がついた。そして僕に強いるうちに、封じ込めてきた自分じしんの告白の姿を見たんだろう。

 そして僕の言葉を、自分の告白が侵食しきらないうちに、『悪魔』から手を引いた。手詰りになってから、彼が言葉を強いなくなったのは、自分の影響がそれ以上及ぶことを防ぐためだ。

 彼はきっとこの頃、自分のなかで膨れ上がっていた、彼自身の告白と対峙していたのに違いない。そして自分の手でしたためたんだろう。僕の声を書き写すのと同じ方法で、彼の内面から漏れ出した自らの声を、自分の手で書き写す決意をどこかで固めたのに違いない。

 それを僕に差し出したのは? 僕の手で葬っても構わないと言った。しかし僕に利用して欲しいと言った。僕に強いたことを、彼が自ら自分に強いたことを知らせるため。それがどれほど恐ろしいことか、自分が実践した上で、僕に強いるため。そして僕に乗り越えさせるため。僕の『悪魔』に自分の影響が濃くあることを明かし、最も重要な結末は自分の手で作らせるために、彼は自分の告白を踏み台として晒したんだ。

 僕が彼を乗り越えられれば、彼は他人に自分の告白を明かした上で、僕が勝つのを見ることが出来る。これこそすべて彼の仕組んだ通りで、――イワンの勝利だ。

 もし僕が出来なければ? 彼が、自分の身を切って明かしたことを知ってもなお、僕がこの『悪魔』を完成させられなかったら? 僕は彼の作品に、僕の名前を書いて応募するのか?

 ――イワンの告白を売った金で、僕はペテルブルグに行こうとしているのか?

 イワンがくれたのは、ただ勝つための物語じゃない。冗談でも何でもない。彼が震えながら写し取った、誰にも聴かせることのなかった嗚咽そのものだ。僕だから分かる。だって、これは、アリョーシャの未来に起こることなんだろう――。

 だから、他人に明かそうとしたんだ。誰かに知られなくてはいけないと思って。アリョーシャを自分から助けるために、自分の意図を他人の前に晒すこと、それが彼がここで成し遂げた『告白』だ――。)

 ミハイルは自分の包帯のある手の下に敷いた、『悪魔』の原稿を強く抑えた。そしてめくっていた左手でびりびりと破き去った。


 Михаил Карамзин(ミ ハ イ ル カ ラ ム ジ ン )


 締切当日の朝に、ミハイルは封筒に名前を記した。

(イワン、ひとつだけきみには背かせてもらう、きみは僕を赦さないかもしれないけれど、僕だけの秘密にしておき

たいんだ、僕ときみたちだけの)

 彼は皺のついた封筒を、鞄のなかにしまった。

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